3 カリカリ
猫の鳴き声がして、目が覚めた。
あぶない。風呂で寝るとか、自殺行為だ。
風呂上がりはアイスに限る。いつもはスーパーの安売りのやつばかりだが、今日は奮発して、お高いメーカーの期間限定バニラアイスだ。
ウキウキ気分で風呂を出た。だが、居間のこたつには、見覚えのないセーラー服姿の少女がいて、ギョッとする。
慌ててスウェットを着て戻ってくると、二人はコートを着て、部屋を出て行った。
おい、こんな夜中に、どこに行くんだよ。あぶないだろ。
後についていくと、玄関には、少し黒いのが混じってる盛り塩があった。虫でもわいてるのかなって思って、よく見てみたら、コショウだった。
きっと純粋な塩がなかったのだろう。だから、とりあえず別のものが混じってるけど、塩さえ入ってれば大丈夫と思って塩コショウを使ったのかもしれない。相変わらずアバウトな感じで笑う。
二人が向かったのは、コンビニ前の大通りだ。何かお菓子でも買いに来たのだろうか。
だが、二人は道端にしゃがんで、花束を供えて、拝むように両手を合わせ、しばらく黙祷をしていた。
すぐそばに立て看板があった。白い車の目撃者を探していると書かれている。
そこに刻まれていたのは、俺の名前だった。
姉と少女は、コンビニでお高いバニラアイスとハチミツ、食パンを買い、家に戻ってきた。
「今日はやる気がないな。もうちょっと頑張れよ」
姉は相変わらず、いつ壊れてもおかしくない電子レンジに話しかけている。チーンという音を何度か繰り返して、納得の柔らかさになったのか、トースターで焼いた食パンの上に、ハチミツをたっぷり塗ってから、バニラアイスをどーんと雑に落とした。
「さぁ、召し上がれ」
少女は黙々と食べている。
「おいしい?」
少女はこくりと頷いた。だったら、もう少し美味しそうに食べていただきたい。
「そっか。よかった」
少女の肩が揺れている。ずっと我慢していたのかもしれない。涙があふれ出した。
「これ、弟の大好物だったんだ。あいつ、いっつも美味しそうに食べてさ。ちょっと焦げすぎてても、美味しい、美味しいって。本当に、バカだな。バカだから、勝手に死んじゃうんだよ」
「……ごめんなさい」
姉は何度も首を横に振って、何も言わずに少女を抱きしめた。二人はしばらく泣いていた。
「悪いのは君でも、じゃんけんに負けちゃった私でもない。ひき逃げしたクソ野郎だから」
「ごめん……なさい」
「大丈夫。犯人を見つけたら、あたしがぶっころしてやるから」
頼むから、犯罪だけはやめてくれ。
代わりに犯人を呪いに行ってやりたいところだが、事故に遭った瞬間の記憶は、綺麗さっぱり抜け落ちているみたいだ。もちろん記憶にあったところで、今の俺にやれることなど、何もないだろうけど。
ひとしきり泣いている二人を見つめていると、猫の鳴き声が聞こえた。足元にすり寄ってきたのは、とっくに死んだはずのバニラにそっくりな白猫だった。
「あーごめん、バニラくんの餌、忘れてた」
どうやら二代目も、同じバニラという名前になったようだ。きっと考えるのが面倒だったのかもしれない。『ちゃん』ではなく、『くん』ということはオスなのだろう。
白猫の二代目バニラは、カリカリご飯を夢中で食べている。ほとんどを平らげた後に、少しだけ皿に残した状態で、じーっとこちらを見ている。「お前は食べないのか」と言いたげな表情だ。お気持ちは嬉しいが、残念ながら俺には、カリカリを食べる趣味もないし、今の体じゃ食べられない。
「まーた、バニラくんは虚空を見つめているぞ。怖いから、やめなさい、それ」
白猫のバニラを撫でる姉は、すぐそばにいるのに。触れるどころか、声すらかけてやれない。
「やっぱ盛り塩は、塩コショウではダメだったか。つーか、今日は命日だから、来てたりするのかね」
苦笑いをする姉は、仏壇に目をやった。祖父母と両親の写真の隣にもう一つ、スウェット姿の俺の遺影があった。もうちょっといい写真あっただろうに。なんでよりによって、寝癖がついてる部屋着のみっともないやつを選ぶんだよ。
「まぁ、お盆じゃないんだし、猫の日に挨拶に来るわけないか」
強がって笑みを浮かべた姉は、立ち上がる。
「よし、次はあたしの分だな。今日の食パンは、新商品らしいから、加減が難しいかもだけど、もう一回、頑張るんだぞ」
今度は食パンをセットしたトースターに話しかけている。こちらもかなり年季が入っていた。両親がずっと使っていたものだから、捨てたくないのはわかる。けど、さすがに買い換えたほうがいいと思うぞ。
それにしても、本当に、いつ壊れてもおかしくないものだらけだな、この家は。
だから、ずっと心配だったんだ。俺だけ先に消えて、また姉さんだけ一人ぼっちにしてしまって。
ごめんな。本当に、ごめん。
「おぉ、今日のトースターくんは、やる気があるねぇ。いいぞ、いいぞ」
でもそんなに心配しなくていいのかもしれない。
姉の左手の薬指には、指輪が光っている。ちゃんと面倒をみてくれる人ができたのなら。もう大丈夫だ。
少女が俺の遺影を見て、小さな声で言った。
「……ありがとう」
少しは役に立てたなら、よかったよ。そういうつもりで、少女の頭を撫でてやりたかったが、今の俺には無理だった。でもきっと、君を助けようとしていたのは、俺じゃないかもしれないけど。
「あっ」
少女がスマートフォンを見て、声を上げた。
慌ててカメラをあちこちに向けて、画面をタップしている。ファンファーレのような効果音が流れる。どうやら例のレア猫をゲットしたようだ。
「おぉ、悲願達成だね。おめでとう」
姉が画面を覗き込んで微笑んだ。少女は小さく頷いた。
「よーし、お祝いに、今日は奮発して、アイスは二個のっけちゃうぞー」
おいおい。食べ過ぎて、腹を壊しても知らないぞ。
冷凍庫から出したのは、きっと、あの日、食べるつもりだったアイスだ。今では売っていないであろう、期間限定のパッケージになっている。
「きっと、今頃、あいつが俺のアイスーって、悔しがってるに違いない。勝手に死ぬからだ。ざまーみろ。悔しかったら、生き返ってみろ。ははは」
姉は俺の遺影に向かって、ビシッと指をさす。冗談が言えるぐらいには、元気になったみたいで何よりだ。
わかってた。もう潮時だってこと。
そろそろ消えなきゃな。わかってたのに。
いつの間にか、足元に白猫の初代バニラがやってきていた。ついさっき、二代目バニラが食べていたカリカリの残りを、スンスンと匂っていたが、食べられそうにないことに気がつくと、少し怒ったような、悲しそうな顔をした。
少女のそばには、彼女が昔飼っていたであろう別の白猫が、そっと寄り添っている。子猫が親を呼ぶような、甘えた鳴き声をあげた。あの日、かすかに聞こえた声に似ていた。
しばらくすると尻尾を立てて、周りをウロウロしたり、彼女の背中に頭をこすりつけていたが、撫でてはくれないことを理解すると、初代バニラに向かって猫パンチをした。理不尽な攻撃に、初代バニラはフーッと反撃をしている。
こんなところに来てまで、喧嘩しなさんな。これだから猫ってやつは。
二代目バニラは、「人の家で騒ぐな」と言いたげに、二匹のほうを見ていたが、ふいに俺を見上げて、ニャーと鳴いた。「そろそろいい加減にしろよ」と、おしまいの合図をするかのように。
そうだな。ここは俺たちがずっといられる場所じゃないし、猫の日はお盆じゃない。わかってるよ。もうじき消えるさ。心配しなくても大丈夫。
だから、あとは頼んだぞ。さよならだ。
どうか幸せに。
ちょうどいい具合に、チーンというトースターの音がした。
姉が中を確認して、「ぎゃーっ」と声を上げた。バニラアイスをのせるつもりだったトーストが、真っ黒コゲだ。
「もうー。なんだよ、なんだよ。ちょっと、褒めたらこれだから。やる気を出しすぎだってば」
相変わらずだな。吹き出すのを我慢しつつ、俺たちは最後の猫の日に、別れを告げた。