1 ザワザワ
あの日、姉が突然連れてきたのは、金髪碧眼の少女だった。
風呂上がりの俺は、シャツとボクサーパンツだけだったので、思わず「ぎゃーっ」と声をあげてしまった。慌てて、スウェットを着て、こっそりと柱の陰から様子を探る。
ピンクのランドセルを背負っているところを見ると、小学生なのだろうか。アニメから抜け出てきたような美少女が、純和風の我が家のこたつに入っている。違和感が半端ない。
「その子、どうしたの」
「ずっと、うちの前をうろうろしてて、寒そうだったから」
「は?」
キッチンのほうから、チーンという音がした。
姉が電子レンジを開けて取り出したのは、俺が風呂上がりに食べようと思っていたお高いバニラアイスだ。カチコチすぎるのをほどよく溶かすために、レンジに入れたらしい。
「え、ちょ、なんで。いや、おかしいでしょ」
うちの姉は、ちょっと変わっている。それはよく知っていたけども。
「今日の電子レンジは、やる気がある」
「やる気?」
「なんか焦げるぐらいまで頑張るときと、生煮えっぽい時があるんだよね。でも今日は、いい感じの仕事をしてくれた」
「そんな状態なら、もう買い換えたほうがいいんじゃないの」
「まだ頑張ってるんだから。見捨てるなんてできない」
「なんかいろいろ間違ってると思うよ」
「いや、愛情を注げば、機械だって伝わるもんなのですよ。ほーら、まだまだ、いい感じに頑張れー。君はできる子だ」
電子レンジを撫でている。姉が変なやつではあるのは否定しないが、いろいろ苦労してきたことを知っているだけに、幸せになってほしいとは思っている。
思ってはいたが、さすがに突っ込まざるを得ない事情というものもある。弟として、唯一残された家族として、責任というものがある。
「つーか、俺のアイスだからな、それっ」
「さぁ、召し上がれ」
姉からアイスのカップを受け取った少女は、無表情のまま黙々と平らげていく。せめて、もう少し美味しそうに食べてください。
なんでこんなことに。
せっかく頑張ったご褒美に、久しぶりに買ったやつだったのに。
姉は幸せそうな顔で、少女がアイスを頬張る様子を見つめている。
「なんかこの子、バニラちゃんに、ちょっと似てたから、ついうっかり」
「いや、全然違うだろ」
うちで昔飼っていた白猫のバニラは、確かに青い目をしていたけども。
「いっつも、あんたがそこでアイス食べてたら、すごーく食べたそうにしてたじゃない。でも、猫にアイスはダメだしさ。だから、まぁちょうど命日だし」
そういえば今日は猫の日だ。もうそんなに経つのか。
「あれ、なんか猫の声、聞こえなかった?」
姉が周りをキョロキョロと見回している。
「もしかして、猫の世界では、猫の日がお盆の代わりみたいな風習があったりするのかな?」
「聞いたこともねーわ」
「そうなの? まぁとりあえず、供養代わりに、そっくりさんにお供えってことで」
「って、いやいやいや、ダメでしょそんな。野良猫を拾うんじゃないんだから。人様のお子さんを、勝手に連れてきちゃ。もし迷子なら、親御さんに連絡とか、警察に連絡とか」
「細けーことはいいんだよ」
「細かくねーよっ」
このご時世、そっち系の事案ってのは、恐ろしいんだぞ。うっかり幼女誘拐の罪とかで捕まったらどうするつもりだ。これだからもうこの人は。
「つーか、あんたが部活で作った『異世界猫だらけ』ってARアプリのせいだからね」
「は? アプリのせいって、なんだよそれ」
姉の言う『異世界猫だらけ』というのは、俺と部活の友達が、文化祭の展示用に作ったARアプリだ。街のあちこちでカメラをかざすと、異世界からやってきたいろんな猫に出会えて、餌やりやおもちゃで仲良くなったら、飼い猫にできるみたいなやつだった。
「なかなかレア猫に会えないらしくてさ。いくら猫の日だからって、さすがに雪の降る日に、街をうろうろする必要があるイベントを設定するのは、どうなのよ」
「俺に言われましても。基本システムを作っただけで、イベントの設定をしているのは友達だから。文句を言われても困る」
「そんなもん、連帯責任に決まってんでしょ。ちゃんとごめんなさいしなさいよ」
「えー」
理不尽だが、ゴネると余計に面倒なことになりそうだったから、我慢することにした。
「えっと、その……ごめんね。寒かったでしょ」
少女は小さく首を左右に振った。すぐにスマホに目をやり、あちこちにかざしている。レア猫をカメラに収めるチャンスを狙っているらしい。学校の知り合い以外が、ちゃんと遊んでいるのを初めて見た。案外嬉しいものだ。
「そのレア猫、昔飼ってた猫に似てるから、どうしても捕まえたいんだってさ」
「へぇ……そうなんだ」
確か、うちの付近で出現するように設定されていたのは、バニラにそっくりな青い目をした美しい白猫だった。
少女が飼っていたのも、白猫だったのなら、捕まえたくなる気持ちもわからなくもない。まぁ異世界の猫だから、背中に羽が生えてたりするけども。
「どうせ見つかるまで待つなら、うちで待てばいいじゃなーいって思って、連れてきた。なんか文句ある?」
アプリのせいで、風邪を引いたなんてことになるよりはいいけども。
「……ないです」
姉さんは少女に話しかける。
「知ってる? バニラアイスをさらに美味しく食べる方法があるんだけどさ」
少女は首をかしげる。
「ハニートーストを作ってね、その上にバニラアイスをのっけるの。やってみようか」
少女は小さく頷いた。
これでもう一個のアイスも消費されることが、決定したようだ。結局、そういう運命らしい。絶対に食べられない呪いでも発動しているのだろうか。
姉が棚を開けて、「あっ」と声を上げた。
「残念。ハチミツ切れてた。ちょっとコンビニ行ってくる」
姉がコートを着て、財布を手に取った。
少女が背後から近寄り、姉の体に抱きついた。
「どしたの?」
「……ダメ」
「通りの向こうで、すぐだから」
少女は嫌々をするように首を左右に振る。
「あらら、懐かれちった」
姉は苦笑いをする。
「じゃあ、一緒に行こうか。ほかに食べたいお菓子とかあったら、買ってあげるよ」
少女は困ったような顔をしている。
「いいから、いいから。遠慮しないで」
姉は俺に向かって、ビシッと指を突きつけてきた。
「私たちのいない隙に、アイス食べたら、どうなるかわかってるだろうな」
「いや、もともと俺のだからっ」
とはいえ、さすがにアイス一つで大変な目に遭いたくないので、おとなしく待つことにしようと思った。
だが、なぜだか胸騒ぎがする。前にもこんなことがあった。たまたま二人で家を空けた日に、バニラは一人ぼっちで死んでいた。
どこかで子猫が親猫を呼ぶような、甘えた鳴き声が聞こえたような気がした。あの時と同じ。ザワザワする。
「やっぱ、俺が行く」
「なんで?」
「なんとなく」
「いいよ、別に。湯冷めするじゃん」
「いいから。ちょっと待って」
「えー、じゃあ、じゃんけんで決めよう」
「なんだそれ」
いつだってこんな調子だ。本当に意味がわからない。
残念ながら、俺は昔からじゃんけんは弱い。びっくりするぐらい負ける。だから勝負なんてするべきじゃなかったのに。今日に限って。どうしてこんなことに。