路地
小さな頃、母からきつく言い聞かされていたことがある。
『煙草屋の隣にある路地に入ってはいけない』
何も知らない子供時代、好奇心に勝てずに入ろうとすると、普段温厚な煙草屋のおばちゃんから鬼のような顔で怒られたことがあった。あまりにも怖くて母に泣きついたが、母にも同様に怒られてしまったため、小さいながらに決して行ってはいけない場所だと理解した。それからずっと近づくことすらしなかった。
しかし、今、私はその路地に足を踏み入れてしまっている。煙草屋がなくなったと知らせを受け、ちょうど私も一人暮らしで実家を離れることになり、この辺りを懐かしみながら散策していたのだ。
ふいに目に入った路地に、知らず知らずのうちに吸い込まれていた。頭の中が靄にかかったように何も考えられない。ゆっくりと少しずつ歩みを進める。どこにいるのか、何をしているのか、自分がやってしまったことの恐ろしさに気がついたのは、路地の真ん中に立つ項垂れた人影を認識した時だった。
全体的に黒いそれが、ゆっくりと頭をあげた。そして、回転するかのように体をこちらに向け始めた。
やばい。逃げろ。早く。走れ。
頭では考えることができても体が言うことを聞かない。身体中から冷や汗が流れ、口の中はカラカラに渇き、息すらまともに吸うことができない。足はガタガタと震え今にも逃げ出したいのに、何故か路地を進んでいく。
止まれ。止まって。なんで。
とうとう人影の真正面まで来てしまう、と思った瞬間、不意な段差に躓いて転んでしまった。痛みと共に体の感覚が戻ってくる。
動ける。
手足を必死に動かして元の道路を目指して走る。何度も何度も躓き転び、身体中ボロボロになりながら目の前の光に手を伸ばす。
しかし、どれだけ進んでも一向に辿り着けない。それどころか、どんどん遠ざかっている気がする。そんなはずはない。
一瞬だけ後ろを振り返った。しかし、それがまずかった。黒いそれは息がかかるほど近くにいた。穴のような真っ暗な目がこちらを見つめている。目が、離せない。
『キテクレタ……カワイイ、ボウヤ……』
その瞬間、私は黒いそれを殴り倒していた。
『……エ……?』
「私はボウヤじゃなくて、オジョウサンだ! バカヤロー!」
「……ってことが昨日あったんだけど、怖くない? 私、ちょー怖かったの!」
「……あんたが怖いわ。」