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この恋には消費期限がある

作者: ましこ

 最後に確認したラインには、先に待っているとだけ記されていた。


「早……」


 口で言うよりも先に、肌からじっとりと汗がにじむのを感じた。いつもナイーブになりやすい。自分のこんなところばかりは、制御ができないので困ってしまう。

 家を出るぎりぎりまで、鏡を見て考え込んでいた。ファンデーションが肌から浮いていないかとか、粉っぽくなっていないかとか。リップの色は大丈夫かなとか……そんな数えだしたらきりがないことをぎりぎりまで考えて、クローゼットに収まりきらないくらいの服を一着一着、着ては脱いでを繰り返した。

 最後に残ったのは普段は、敬遠するピンクベージュのワンピース。膝より少し上くらいの丈で、足首と手首が見えるような服装だから、私の背丈でもすっきりしているように感じた。そうして、これなら……これならばと意気込んで着てみたのだ。調子にのってないかだけが、気がかりだ。

 時計は手元にはなかった。正確に言えば、手元にあるスマートフォンで確認はとれるが、その僅かな時間でさえ惜しまれた。最適解は、とにかく走ることしかなかった。何をどう慌てようが、所詮いつものことである。家を出るぎりぎりまで、また鏡を見ては自分の姿に正しさを探してしまう。

 外に出て冷気を感じると、もう冬なのだなという気分になる。最近背伸びをして買った九センチのヒールは、私が歩みを進めるたびに、ぐっと食い込んでくる。走るほどに靴ずれをしていくような感覚に襲われて――それは間違いではないのだけれど自分の一部のようにすら、感じてしまう。それはそれとして、足元を見るだけで心が躍る理由がある。一見して真っ黒に見える靴には、革とは違う艶があった。光を含む雪のような光沢感があるのだ。ベロアはそれだけ冬にピッタリの生地だった。この靴に恋をしてしまって、値段も確認しなければ、試し履きもせずに買ってしまった。それだけ、恋をする価値のある靴だった。

 新しい相棒が与えてくれたいつもより高めの視界は、それだけいつにも増して高揚感をもたらしている。確かにそう感じられるほどに、心の中のドキドキが溢れてしまいそうだった。

 これは正直な話。誰に聞かれてもいいし、寧ろ自慢げに話したいくらい。声高らかに、駅前で歌うアーティスト気取りのヤツらよりも、全身全霊でアピールしたいくらい。

 私には好きな人がいるのだと、年齢にそぐわない恥ずかしいことを。

 こういうときの自分は、貴方への大嫌いと大好きが混ざり合っている。恋を自覚しているときの自分を、うまく受け入れることができない。それは私であって私ではないし、私の中にある数ある私の一つの可能性が浮かび上がっただけ。だからこそ永遠に鏡を見て、これでいいのかと格闘してしまうのだ。自分の中にある数え切れないほどのいろいろな感情に今この瞬間の自分を査定にかけて、合格点をもらえた自分を世界に放つ。

 でも不安だから、私は最強にかわいいから大丈夫なのだと暗示をかける。繰り返すように祈るように。こんなときぐらいしか、神様のことは思い出さないけれど。見てほしいわけでもないし、吟味をしてほしいわけでもない。ただ一人に好意を持ってほしい。それだけのために、めかしこんでいる。私は哀れなのかもしれないが、自分自身では幸せだと自信をもって言うことができる。

 コンクリートの道を抜け、レンガの道の先にある地下鉄メトロ、要町駅の改札に入る。

 左手側にある階段を目指して一目散に駆ける。改札前にある電光掲示板の数字に、急かされているように感じたからだ。

 今日は有楽町線を使おう。どうやら、あと1分後にホームへ新木場行きが来るらしい。

 これを逃しちゃいけない。絶対、この時間に間に合って、少しでも早く彼に会いたい。

 痛みを伴った足は、これからもっとじんじんと、爪先から熱を帯びて痛みは加速する。もう何度も経験はあったが、かわいらしさという武器を手に入れるために、これは必要不可欠な行為だった。たかが少し、されどすこし。手を団扇のようにして、自分へ向けて軽く風を送る。少しでも汗を抑えるために、せめてもの抵抗をした。

 そのときに、少しだけいい匂いがする。最近買ったばかりの、お気に入りの香り。「CRYSTAL ROYAL」は、バラの匂いがするものだ。マリナ・ド・ブルボンの中でもピンク色の小瓶に入ったこれが、私の中の一番だった。いかにもな香水の匂いがするのに、どこか甘くて爽やかで、想像するならマリーアントワネットのよう。だから、フランスのお姫様になれているかのような感覚になれるのだ。

 頑張れる、きっと、今日こそはと。

 ――次は、池袋。池袋。お降りの方は……。

 ホームへ向かうときに左側の階段を使ったのは、池袋駅前を東口側に出るときに少しでも移動をスムーズにするためだった。少しでも早く目的地に向かいたかったけれど、思うように体は動かない。まるで気持ちだけが先行しているようで、少しだけ悲しい気持ちになる。

 唯一の救いは、思った通りの時間に池袋駅に到着したことだろう。到着してほっと一息下ろす。それと同時に、ラインを確認する。メッセージは2件来ていてた。

 一つは地図、もう一つは「先に飲んでたから、ゆっくりここに向かってきて。着いたら電話かけてね」というものだった。いつも子供をあやすかのようなメッセージで、転ばないようにねと言われているようだった。それが本当は嫌いで――でも心地よくて、うまく飲み込めなかった。けれど、大切な人を、大切だと思いたくて、信じて疑いたくない人からの言葉だから、何度も咀嚼して、きっとこう言いたかったのだろうと、かみ砕いて飲み込む。ようやく享受できたころには、なんというか気恥ずかしい気持ちになった。それもまた、心地いいのだが。

 どう返そうかとラインを眺めながら歩くうちに、西武百貨店を通り過ぎ、アインズトルペに差し掛かる。横断歩道を渡った場所が、地図に指定されていたところだった。きっとこの近くにいるはずだ。

 無意識のうちに周りを見渡して、どこかにいる彼の姿を探した。本当は着いてすぐ電話をしなければいけなかったのに、心のどこかで"もしかしたら"にすがっている自分が、少なからずいる。大都会の人混みの中で、たまたま出会えたら奇跡なのだと。

 だけど、そんなことはないからと言い聞かせて、私の中にいるロマンチックな自分を落ち着かせる。人生はそんなに甘くないのだと、宥めるように反芻させる。それだというのに――こんなにも自制心を保とうとしているというのに。

 どうしてこんなにも優しい世界にしてくるのだろうか。


「結構くるの早かったね。転ばなかった?」


 淡い靄がかかった視界のなかで、そこだけが鮮明に写っていた。

 視線の先で軽く手を振る、男の人がいる。

 決して奇抜な見た目ではないにもかかわらず視線が交わった。愛嬌のある笑顔がマスク越しにも伝わる。黒縁眼の鏡をかけた彼は、チェックにしろ無地にしろ、Yシャツばかりを着ている。だから、首元が見えるデザインで白地のインナーが珍しく思えた。

 けれど肌寒く感じたからなのか、暗い色の上着を羽織っている。そこだけが彼らしくて、思わず口元がにやけてしまいそうになった。煩わしく感じるマスクでも、こういう時ばかりは感謝しかない。それに、つま先に痛みがある。これは夢じゃない、現実だ。


「いや、全然、ぜんっぜん大丈夫。久しぶり、おかえり!」

「おかえり……? あ、おかえりか。ふっ、おかえりかぁ……ただいま」


 彼は言葉を慈しむようにして、何度も口の中で私の発した「おかえり」を味わう。


「なんか変な感じだね。行こっか」

「帰ってきたときは、お帰りだよ?」


 頷き返しながら、半歩下がって彼の背に追随する。

 彼と出会ってから、こうして二人で出かけるようになるまでに、そう時間はかからなかった。自分から積極的になることはない私だが、彼をひと目見たときに、これは運命だと感じずにはいられなかったのだ。どうしても二人きりで会いたくて、一生懸命に彼の気を引いた。

 どんなことだって話たし、とにかく会話が途切れないように、どこまでもノリやテンションを落とさないようにしていた。実際、気をつけていたのは最初の頃だけで、彼との会話はどこまでも楽しくて、何を話しても、つまらないということがなかった。だからいつまでも笑っていられるし、ずっと私の目を見て話してくれる少し上からの視線を受け止めずにはいられなかった。


「やっぱり東京は寒い?」

「もちろん寒いよ。昨日、空港から出てきた時、すっっごく寒くてビックリした。だって俺、半袖よ?」


 長袖を着ている彼の肌に、今日はないはずの鳥肌が見える。


「なしてそんなことになっとったん? 本当に面白いなぁ」

「いやいや、あっちは暖かかったんだよ。あ、それでね。今日は肉系食べたくてさ」


 話が始まると同時に、目的地へ歩み始めた。でも、私は事前に「何処へ行くか」を知らされてはいない。今日もワクワクを感じながら歩いているものの、進行方向が定まらないために、無駄にキョロキョロと街中を見回していた。

 そうすると、彼が何かを察したかのように、そっと手を握る。私の手が覆い隠されるほどの、大きな手だ。相手の待ちわびていたものを、スナック菓子みたいに手軽にあげてしまうのは、彼の良いところであり悪癖だ。現に小躍りしてしまいそうなほど喜んでいる、私みたいな勘違い女がいる。


「ふふふっ、この間も食べてたよね。スペアリブ? だっけ」

「そうそう、あ、肉系大丈夫だった?」

「あんまり食べな……あ、食べれるよ! 食べれることは食べれて、その」


 これは失言だった。


「違う店にすれば良かったかな……」

「母がもろベジタリアンだから、あまり食べてこなかっただけで、だから大丈夫! 大丈夫だから」

「ふふっ、大丈夫ね。じゃあ俺、日本酒飲みたかったし……日本酒飲むよね?」

「全然飲みます!」


 思わず、握り返す手に力が入る。

 ちょっとだけ嬉しくなって、重ねた指をスライドさせる。

 ずれた指と指が絡まりあって、恋人繋ぎになる。私たちの関係に名前はないが、少しの動作で、多くの人は勘違いをする。願わくば、そのまま私の気持が伝播して、貴方も私のことが大好きになってしまえばいいのに。

 眼鏡の奥で優しく微笑む瞳の余裕さに、少しばかりへこたれそうになった。こんなことで諦めないけれど――負けるつもりも無いのだけれど、彼はなかなか強敵らしい。


「一回肉食べてみてちょっとお腹膨らませて、それからまた日本酒飲みに行こうか。近くに東京にしてはいいなぁって思う場所があってさ。そこで魚系も食べよっか」

「なんでも食べます! めっちゃ楽しみ……ど、どっちですか?」

「こっちだよ」


 また道が分からなくなってキョロキョロしていると、繋いだ手にグッと力を入れてくれる。タクシーに乗っている感覚よりも、親が運転してくれる車の方に近い安心さがある。自信がなくてすぐおどおどしてしまう自分にとって、これは一種の救いでもあった。全て、許されたような感覚に浸ることができて、幸せだった。

 少し歩いた場所にあったのは、気になっていたけれどなかなか入ろうとは思えないような、洒落た肉バルだった。私が友達と入るにしても、きっと勇気が必要な店だろう。店のえり好みはしないが、自分とは縁遠いその程度の認識の場所だ。

 内装は意外にカジュアルで、入り口に猫耳をつけた豚のぬいぐるみが置いてあったのが、謎に印象的だった。


「豚……」

「猫かも……」


 結局のところ、その置物が何だったのかはわからずじまいだったが、いつも私がドジをしでかした時に、口元を隠すように笑うのが、少し下の視線から見ていて好きだった。


「ご来店いただきありがとうございます。検温の方よろしいでしょうか?」

「あ、はい」


 ヘアアイロンで完璧に作った前髪をかき分けて、おでこを出そうとする。


「手首で大丈夫ですよ」

「はい……」

 これは無駄な努力だったようだ。

 隣の人は、ちゃんと手首を出している。さては、行きなれているな。


「ふふっ、何食べようかね。ワインもあるみたいだよ」

「白なら飲みたいなぁ。サングリアとか……」


 案内されたカウンター席について、少しだけ距離や目線が近くなる。

 高鳴る気持ちと一緒に、言葉がつい零れてしまう。


「めっちゃ好きなんよね、ほんと好き。一生、言ってられるかもしれん」


 会えない間に貯まりに貯まった貯金が、気持ちとして決壊してしまう。これは私の直さなければいけない、子供っぽさだ。


「もーまた言ってるの? 俺さ、三十一のオジさんだからね」

「幼馴染、十六コ上と付き合っとるけど、二年続いとるよ?」 

「十六か……すごいな……十六……」


 この話は私へ釘を刺すように、必ずといっていいほどあった。十年前だから、俺が大学入ったくらいのときは小学生だったとか、そんなこと私にとってはどうでも良かった。

 十の年の差が事実だとしても、それはあくまでも過去の貴方と私であって、目の前にいるお互いではない。どこまでも優しい彼の目に、二十一歳の私がどう見えているのか。ただそれが知りたいだけ。それでも、私が他に好きな人を見つけて貴方を諦められるように、いつも逃げ道は用意されている。残酷なほどに正しい行為に、心が締め付けられる。

 私の願いは本当にそれだけ、あわよくば好きになってほしい、それだけ。

 その程度の小さいようで尊大な願いだった。

 

「そう突き放されるように言われると、とても、その、悲しいので、あんまりそういうふうに言わんでほしいかな」

「あー、ごめんね。そんなつもりではないから、ただちゃんといい人は見つけなよ。きっとたくさんいるだろうし」

「そんなん……そんな人いないて」

「あー、泣かないでごめんごめん」


 一連のすったもんだが終わると、テーブルの上にはメニュー表が置かれていた。チラリと目を見ると、逆に首を傾げながら見返される。わかったように笑っているのが嫌で、好きで仕方がなくて、自分の持っている心のパレットに絵の具をすべてぶちまけたようなくらいに全部の感情がぐちゃぐちゃになりそうだった。

 そつなく何事もこなせる人は、うらめしい。


「ハイボール頼むと、サイコロ振れたり色々できるみたいやね」


 真っ先に目に入ったのは、ドリンクメニューの中で大きめに記されていハイボールだった。どうやら、色々な特典があるらしい。


「ゾロ目で無料かぁ……揃わなくてもサイズ大きいのが来るんでしょ?なるほどね、何しても得って感じだね。面白そうだしこれにしようかな。何にするか決めた?」


 私でも見えやすいように、メニュー表を向けられる。

 カクテルは味気ないように感じたので、当初のままで行こうと思う。モヒートは、少しばかり値段が高かった。


「そうだな……自分はサングリアの白で桃が入っているのがいいです」

「サングリアにするんだ」

「どうかした……?」

「んーん、かわいいね」

「な……なんて、え?」 

 

 その瞬間、もし明日に世界が終わるとしても、これ以上の幸福なことはきっと起こらないと思った。

 何があっても世界の中で「自分が一番の幸せもの」なことは確かなのだと、大声で言える自信しかない。けれどももし、もしもの話、明日で終わるとするならば、子供の頃に夢見た10円ガム程度の駄菓子の箱買いをしてみたり、それより少し大人なきもちになって制服ディズニーでデートをしてみたかったり……。

 なんて、少しだけ阿呆で他愛もないぼやきをしそうになった。ふざけたことを言ってみたり、考えていたりしないと“かわいい”は咀嚼できない。

 考えてみるといつもそうなのだが、"かもしれない"という、たらればな日常に終止符を打てるのならば、後悔なく人生を終わらせられると思っていた。子供のように、すがるように、こういうときばかり神頼みをしてしまうし、願わずにはいられないまま成人を迎えていた。

 自分が分別のない人間だとは思わなかったが、ここまで往生際が悪いとは思っていなかったし、釘を指すように年の差の話をされても、めげないとは思わなかった。

 なんならまだ、ワンチャンがあるのではと確証のない自信だけが自分を動かしていた。


「この間、沖縄行って来たって言ったじゃんか」

「うん」

「土日はビール片手に海見てさ」

「痛風は? ビールで良かったん?」


 ちょっとしたからかいだ。彼は私よりも酒が強く、基本的には何を飲んでも酔わないので、つい飲み過ぎてしまうらしい。


「いやまだ大丈夫、地ビール飲まないと始まらないからさ。まあそれで……まあ、後半ハイボールだったんだけどさ。あ……他何か食べたいのある?」

「とりあえずサングリアと……生ハム? とか」


 本音を言ってしまうと私は肉は苦手だし、なんならブロックサイズの肉はほとんど食べられない。ここは薄切りで食べやすい、プロシュートにすがってみよう。


「俺はこのグリルにしようかな、鳥か……豚か、いや牛か」

「豚かなぁ」


 入り口にあった例の置物を思い出す。


「おっ、豚にする?」

「ほら豚ちゃん? いたし」

「猫かもしれないよ?」

 このネタは彼にも伝わったようだ。

「猫かぁ」


 この論争はどこまでも帰結しなさそうだ。


「ほかは大丈夫? サラダとか」

「そーだなぁ、私に何食べててほしいとかある?」

「そうだな……いちごとか?」

「なんそれ」

「なんだなんだ、ほんと面白いなぁ」


 また、頭を撫でられる。でも、髪のセットが崩れないような、優しい手つきだった。

 それを素直に喜んでいいのか、どう受け取ればいいのか、今の私には白にも黒にも色を付けることはできなくて、ただその空気感を楽しいのだと感じ、はにかむことしかできなかった。


「おまたせしました」


 少しして、忙しそうにホールを回っていたお店の人が、瓶に入ったサイコロを片手にやってきた。


「中に入ったサイコロを、瓶の中に落とす感じでお願いします」

「こうかな?」


 受け取っていたのは私からしたら大きくて、彼からすればそうでもない大きさの瓶だ。

 彼の落としたサイコロが、瓶の中で静かに揺れる。

 振動が収まったタイミングで瓶の入り口の上からのぞき込んだ。


「え、あ、ゾロ目だ」


 拍手をしながら、どのくらいの確率だったかを考えみた。昔から数字とは仲が良くなかったので、パッと答えは出てこなかった。あとでグーグルで調べるかと思っていると「三十六分の一だから、そこそこの確率ででるとは思ったけど、意外だったな」と隣が呟いていた。流石は技術職の理系である。恥ずかしいので心の中で、賞賛を送った。言わなくてもいい余計なことまで言ってしまいそうだから。でも隣で笑っているから、多分口にも出てしまっていたかもしれない。

 ちょっとはにかんだり、私のふざけた話に対してなんでも笑っていてくれるこの顔が好きだ。話し方も仕草も、何をとっても口にするのが憚られるほどに。

 意味も理由も、形付けるには無粋だった。


「無理しないで食べるんだよ。今日はコースでもなんでもないんだし、好きなのを好きなだけ食べな」

「申し訳ないです。いただきます……美味しいです……」

「お、ほんと? じゃあ俺も」


 一人で食べる食事よりも、誰かと食べたり、それが好きな人なら余計に美味しく感じられた。だって、誰よりも愛しいと感じてしまうのだから、仕方がない。そういうものだからと片付けてしまえるほどに、彼に陶酔していたのかもしれない。

 楽しいとすぐに回ってしまう、これは酔っぱらいの戯言だ。


「そういえばさ、他にはどこかに行けたん?」


 彼が唐突に旅行へ行ってくると言った言葉を思い出していた。


「あー、沖縄?」

「そうそう」

「ずっとホテルだったかな……テレワークだから行ったっていうのもあるし」

「缶詰かぁ」

「でもウニとか食べれたし、結構美味しかったよ」

「ウニ!」

「今度食べいこうね」


 私が「一緒に」を主張する前に、こうして誘ってくれるのは本当に惚れてしまいそうになる。私ならきっと酔っぱらって、調子に乗った時くらいしか言えない言葉だから。大人だなと、ついつい胸が高鳴ってしまう。


「あとは島ちょこちょこ行ったかな、でもそれくらいだよ。親とかに琉球グラス送ったり、まぁそれくらいはしないとなって感じかな」

「親にも……すごいなぁ、ほんとに」


 自分には到底できない。

 両親のことを大切だと認識できるようになるには、まだまだ時間が足りなさそうで。

 だからすんなりと口から零れた言葉は、ひがみでも蔑みでもなくて、純粋な尊敬だった。


「でもこういう時に連絡とると、結婚まだなの? って、最近特に言われるよ。どうしようねぇ、ほんと。婚活サイトにまた登録しようかなぁ……」


 年を取ると同時に、考えなければいけないことは数えきれないほど出てくる。私だって、結婚という言葉くらいは知っている。そこまで子供ではないにしろ、"将来のこと"というカテゴリーは見た目よりも、ずっと言葉が重い。少なくとも、自分はそう感じているし、フランクに語っている彼でさえも、真剣に考えなければいけないのかもしれない。もちろん、彼本人ではないし、憶測でしか考えることができない。

 だから、婚活サイトに登録しないで欲しいとか、本当は私と結婚してほしいとか。これもまた、たらればであろう。


「卒業まで待ってくれんの?」

「きっとこれからもっといい人に会えるよ、ちょっと外で吸ってくるね」


 彼は魔性だ。

 近づいては、突き放される。

 それでも嫌いになれないし、そうなるとしても自分が苦しくなるだけだ。


「どうしたの? 行く?」

「行く……」


 誘ってもらえる、その権利を持つだけで、有するだけで光栄だった。どこだって、どこにだって付いていきたい。自分を縛る大なり小なりの枷がなければ、どこにでもついていきたかった。土日にある昼間のアルバイトが入っていなければ、会社員である彼に合わせて旅行にでもついていけたのにと、過ぎ去った話を掘り返しては心の中で落ち込んで、目には見えない自傷と後悔を繰り返してしまう。

 目でしか、語ることができない。

 口にすることはどうしても、恐ろしい。

 もしも世界が明日終わったら。そんなことは、もちろんないけれど、考えもつかないほどの大きなきっかけでもないと本当の自己を主張することは遠慮してしまう。私みたいな人間がそんなことを言ってしまったら、元も子もないのだから。


「喫煙所狭いなぁ。ホント店内で吸えないところ増えたよな……」

「一人くらいしか入れなさそうね」


 招かれたのは、二人でちょうどの大きさの喫煙所。

 より近くに、彼を感じる。私はくさくないだろうか。


「まぁ俺はさておき、華奢なんだし大丈夫」


 ポケットからライターを探しているようだが、見つからないようだった。


「……あ、火あるよ」


 無意識にライターに手を添えるようにして、彼の煙草に火を灯していた。


「ありがと、もう……どこでそんなの覚えてきたの?」

「ちょっと仕込まれましてね、ん?」


 急に、じっと見つめられた。間にレンズが挟まれているとはいえ、気恥しい。

 彼は目の前に餌を置かれた、飼い猫のようだ。よく躾られているようで、その影に隠れるように、野生の感覚は存在している。思うままの言葉を、視線を、より直接的に感じている。

 テーブルにいる時よりも、距離感が近いせいかもしれない。


「え、な、何……? な、なんでしょうか」

「んー? かわいいなって」


 ちょうど一本吸い終わるくらいの間、小さな喫煙所は静寂に包まれていた。この沈黙は嫌いではないし、寧ろ好ましさすら感じていた。この感覚は、ひどく残酷でやめられない麻薬のようだ。

 踊るように手元の赤色が揺らめいている。私のものと同じように、彼の火や見つめるレンズがきらめいて見えた。その光景が、自分の気持ちそのものを表しているようで、何も見られたことはないというのに、底を見透かされているように感じられた。内側を覗かれているようで、気恥ずかしい気持ちになった。


「いつから吸い始めたんだっけ」

「2月……? 2月かな。もらいタバコしすぎてしまって」

「あー言ってたね」 


 ふと横に映った彼の手が、手持無沙汰なことに気が付いた。行き場もなく、くるくるとライターを回している。たまたま私が気に入って吸っている銘柄は、彼のものよりも燃焼時間が長いようだ。アメスピは美味しいのだけれど、誰かと吸うときは気を遣ってしまう。


「ごめんね、自分の長くて」

「大丈夫だよ」


 そういうと、隣にいた男は私の唇から煙草を奪っていった。

 アルコールの入ったグラスごしに間接的な触れ合いをしたことはあった。

 でも、唇が触れたことはなかった。

 けれど、これは夢見たものよりも――あくまでも良い意味で、何かが明確に違う気がした。

 言葉に落とし込めない、何にも当てはめたくない、そんな好ましさがある。


「どうしたの?」

「いや、なんでもない」


 言葉に詰まってしまって、自分から話しかける気にもならなかった。

 少しの沈黙を破ったのは、耐えきれなくなった彼の方だった。


「一緒に禁煙しようよ。俺、禁煙外来行くかな」

「えっ」


 瞳が、いたずらに揺れているように見える。

 急に自分の口元がガラ空きになって、肺が軽くなる。

 自分の肚の奥底が、うずいていくのを感じる。


「久しぶりに吸ったけど、これ美味しいね」


 目と目が合ったとしても、間接的に触れ合ったとしても、本物には到底届かない。だからこその、変えがたい何かを感じてしまっていた。これは私だけが感じられる、尊いものだ。

 己の中で考え直すことで、何かの救いを求めている自分をどこかに感じていた。


「この後はそうするん?」

「俺はもう一杯飲もうかな」


 そう言ってまた、また唇にいくらか小さくなった煙草が戻される。


「じゃあ私も、いただこうかな」

「飲み終わったら次行こうか」

「ほんと申し訳ないです。いつもありがとうございます」

「次は日本酒だからね。楽しもう」

「ふふっ、そうだね。なんかね、どこかのお兄さんハシゴするみたいやけど、お腹は大丈夫?」


 真似をするように言ってみる。

 私が人よりも量を食べられないということは、以前ご一緒させていただいたコース料理でお互いに学習済みである。無理をした分胃腸に負担がかかるため、食べ過ぎに注意すれば内科の世話にならざるを得ない。だからよく、「お腹は大丈夫?」と心配をされるのだ。


「んー、あ、俺か。大丈夫だよ、いっぱいになった?」 


 名前では呼んでもらえない。

 きっと彼はどの「名前」で、私を呼べば良いのか分からないから。


「ちょうどいいくらいよ。沢山ありがとうございます。でも、お腹痛くなったりせんかな……?」

「食べられそうなのだけ取ったらいいんだよ」

「いや、私やなくてさ」

「あー、そんなの気にしなくていいって。大丈夫だって、すぐそういう顔するんだから。一緒にいて楽しいよ、すごく楽しい」

「ありがとう、ございます……」


 ここだけがどこまでも暖かくて、どこまでも続いていく果てしなく遠い未来までも考えられそうになった。夜が更けて星が垂れたとしても、きっと変わることはないだろう。どうか終わらないでほしいし、ずっと続いてほしい。

 考え直す必要もなく、それが自分の切なる願いに他ならなかった。


「温泉行きたいなあ」

「もうそろそろ冬やもんね」


 席に戻ると、沖縄に代わり温泉の話が始まった。彼の中での夏は、終わってしまったらしい。もともと彼が行っていた沖縄というのも、一週間ほど前に急に言い出したことだった。テレワークだから何とかなると、突発的に旅行をしていたのだが、天候が悪化するとすぐに東京に戻ってきていた。

 私自身も変わっているとか、不思議だねと言われることはあるが、彼も相当独特だと思う。


「けど私……っていうか、バイト先が繁忙期やから、11月中は厳しいかもなあ」

「本当に行ってくれる? まって、あれ、昼は何やってたっけ?」

「昼はねえ、百貨店で接客しとるよ。ケーキとか焼き菓子を売ってるの。クリスマスシーズンは繁忙期やからねえ」


 上京とともに去年から始めたバイトだが、なかなかどうにも難しい。クリスマスになれば、どこの売り場もてんやわんやで大忙しだ。あまりにも忙しいから、何も考えたくなくなる。


「夜もあるし忙しいよなあ、体崩さないようにね」

「休みなんてあってないようなものやから」

「倒れないようにね」

「明日も頑張ります。だから、12月、年末あたりとかどうでしょ」


 純粋に、彼と一緒の旅行なら行ってみたい。


「真冬だね、箱根行こうか」

「箱根?」

「行ったことある?」

「いや、ないです。神奈川は、横浜くらいやな。そんな出かけませんし」


 そういえば、両親は自営業だった。今もそれを続けているし、休みを取っている姿もどこかに出かけに行っている姿も、まるで見たことがなかった。おそらく、自分が極端に休みたがらないのはそのせいかもしれない。彼らは今でも、その生活を続けている。だから、そもそも自分がくつろいでいる光景を考えられないのかもしれない。

 できることなら休みをとって、私もどこかへ遊びに行ってみたい。漠然とした思いだが、どこへでも行けてしまう彼に憧れを抱いている。ここにはいないはずの両親に、私ばかり良い思いをしてと、非難される幻想ばかりを考えてはいけない。その思いがどこへでも行ける彼に、より強い憧れを抱かせているのかもしれない。

 だから、この突拍子もない誘いは、良い意味でも心臓に悪かった。


「じゃあ、やっぱりさ箱根行こっか」

「え、温泉ですか」

「そうそう。なんだったら、そのまま年越しを迎えてもいいし」


 とりあえず、新しく頼んだサングリアに口をつけることにした。驚きすぎてなんの味なのか、まったく分からない。


「手帳……手帳を見ます」

「記帳してるタイプなの?」

「一回アプリで管理していたんですけど、電子だとイマイチ不安で」


 テーブルで控えめに開いた私の手帳には、謙虚さがほとんどなかった。


「予定びっしりだねえ、倒れない?」

「倒れそうかも」

「そしたらどこでも迎えに行くから、俺のこと呼んでね」


 この人は、いつもそういうことを軽々と言う。

 何の気なしに、当たり前のように言う。

 こういう軽口を信じるほうが馬鹿だと言われるかもしれないが、彼なら難なくこなしてしまいそうなので、つい真に迫った何かを感じとってしまう。この言葉は信じるに値する。きっと、間違いじゃない。


「夜も、木曜で終わりにするし」

「本当にやめるの?」

「私も、信用してほしいから」

「あの格好、あれはあれで好きだったけどな。かわいい系もいいけど、セクシー系もありだったな……」

「ダメなんです」

「どうしても?」

「どうしても」

「じゃあ、新しいところが決まったら教えてね」

「あーゆう所で、会いに来ちゃだめだよ……」


 これは恋だと思った。

 はじめて彼を見た瞬間、この人じゃなかったら絶対に後悔すると、直感で感じていた。

 だから、昼も夜もアルバイトをして、泣きそうになるほど忙しくても、貴方に会えるこの短い時間のために頑張ろうと思えていた。

 けれど彼は、あくまでも私を「お店の子」としてみている。

 これは色恋ではないし、営業でもない。

 私が大切にしたくて願わくば実現したい、世界が終わる前にたった一つだけ叶えたい願いだった。


「来週はいつあえる?」


感想やご指摘など貰えると嬉しいです^^

新作の進捗などはこちらのTwitterをチェックしていただけると嬉しいです(@BOSS_0707_)



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