死の淵で見たその光景は。
小説を書いたことがないため読みづらいかもしれません。今の私が出来上がるまでのお話に少しお付き合い頂けると幸いです。
ーー? 痛くない。こんなに血は溢れるのに。
高校1年、冬。保健室。急に身体の痛みを感じることができなくなった私。いじめによる自傷行為。その行為は突然の出来事ではなく何度もあった。ただ、痛みを感じなくなったのは初めてのことだった。
自分の左腕を見る。カッターと剃刀で傷つけた複数の傷に更に画鋲が刺さってる。涙は溢れずただ見つめるだけ。いつからこんな状況になったんだろう。
思い返せば幼稚園の頃、雨の日に砂場に呼び出されてズボンを脱がされお尻丸出しにされた上に靴を隠されたのが始まりだ。親に買ってもらったお気に入りの靴がボロボロに返ってきたのが強く印象に残ってる。住んでた地域が田舎で幼稚園と小学校は東西でふたつ、中学校はひとつ、高校はないストレート式の場所だった。
そのまま地元の小学校にあがり、普通の学校生活を送れると思ってた。気付いたら仲間外れにされたり、給食に雑巾絞られたり、足を故意に踏まれたり、髪を引っ張られたり。日常茶飯事だったけど泣くことができず、唯一解放されるのは塾や習い事の時間だった。おかげで頭は良い方で小学校低学年で中学英語の範囲は全て終え、先生には気に入られるタイプだった。両親は教育熱心で、決していじめに巻き込まれてる子を育てた覚えはなかったのだろう。あの日までは。
小学校に入って初めて友達ができた。休みの日に一緒に遊ぼうって言ってくれた3名。憧れてたプリクラや買い物。ただただついていくのに必死だった。言われるがままにみんなの荷物を持ちプリクラではひとりだけ前になり出来上がったプリクラを見ると私の頭に包丁が刺さってて3人が笑う光景、買い物は気づいたら私だけしてなかった。決め手は帰り道、友人のアパートで遊び場があるというのでついていくと塀の低い屋上。そこで一度死を覚悟する。
ーーードンっ。
背中を押され前のめりにこける。目の前に見えたのは13階から真下に見える交通量の多い道路。一瞬頭が回らなくて、起きあがろうとすると身体半分が出てるのでバランスを崩しそうになり空が見える。「恐怖」という感情を覚えた。後ろからは大きな笑い声。知らない大人の「ここで何してるんだ!立ち入り禁止だぞ!」という声が遠くで聞こえてその人に助けてもらったが、「勝手にこけたんです」と笑いながらさっきまで友達だと思ってた人たちから言われて青ざめた。大人の人が気にかけてくれたけど、この人たちがいないと家に帰れないので、ありがとうございますとだけ伝えて、その日は帰った。
初めての買い物、初めての友達、初めてのプリクラは悲惨な想い出でスタートした。家に帰ると「どうだった?楽しかった?」と聞く母。全て話すと「変な作り話はやめなさい。」と言うので、プリクラを見せたかったけど、そんな勇気は私にはなくて味方がいないまま夜を明けた。
次の日3人は何事もなかったかのように謝りもせずに、プリクラを周りに見せて楽しんでいる。ノリに合わせて私も笑う。何が正解か分からなかった。ここからいじめが更にエスカレートする。横断歩道で信号待ちの時に背中を押されて車に轢かれそうになったり、狭いところに閉じ込められたり、気になる人を暴露されたり。みんな自分がいじめられたくないから助けてくれる人はいない。勉強を教えてほしい時だけ、ノートを見せてほしい時だけ頼ってくる。それでも頼ってくれる時間が嬉しかった。
学校が終わると塾か英会話かピアノの習い事、休みは英検の勉強したりピアノの練習をひたすらしたり、家から出ることはなくなったが、そのおかげで表彰されることが多くなり朝会で注目を浴びるようになってからはいじめの頻度が少なくなった。先輩後輩には好かれる方で、それでもどうしても同級生からはよく思われなかった。
そんな中、私よりもメンタルが弱い弟をどうしても精神的に強くさせたいと親が空手を習わせ始めた。私も遊び半分でよく顔を出してたが、いつのまにか夢中になり一生に学ぶことに。親は反対したが私からやりたい。といったのは初めてだったので様子を見てくれることになった。形ではなく組手専門だったので、すごく発散になって校内マラソン大会でもビリだった私が上位15名に入るほど前向きになった。もう大丈夫だ。と思った。
小学校6年生、最後の年で私をずっといじめてた主犯格のひとりが仲間からいじめを受けてるのを見て、何故か「大丈夫?」と手を差し伸べてしまった。いじめられるのが辛いことを知ってたからただ単純に助けたかった。元の生活には戻りたくなかったが、それよりも見逃すことの方ができなかった。案の定またいじめがぶり返すことに。その時から「傷付けるより傷付く方がいい。辛い思いを他の人にさせるより自分が全部背負った方が1人でも幸せな人が増える。」という考え方になった。
それでもそのままエスカレートするのが怖くて中学は地元ではなく国立の頭の良い人が入れると言う学校へ受験し合格をいただく。もう大丈夫だ。と思った。
某有名中学校へ入学したことで親は鼻が高く、いいふらすこともしばしば。部活動を好きな音楽を極めて吹奏楽に入部するか、苦手な運動を克服する為に一番キツそうな硬式テニス部に入部するかで迷い、克服する方を選択することに。人数が多い分やはり仲間割れはするわけで。それでも打ち込めることがあるのは凄く大きかった。この時のブームでホームページを作ることが流行りで、尊敬する子の1ページを拝借し、みんなに見てほしいからと許可を得に行こうとしたときに事件は起きる。
よくある目立つ怖いグループのひとりの子だったこともあり、仲間の人から詰められそこからターゲットに。許可を得なかった私が断然悪く謝りたくても謝れず、その内どんどん悪い方向へ進み、ネットで叩かれ始める。そして現実でもいじめが始まる。7年間のいじめを耐え続けられたんだから大丈夫だと思い込ませても度が違う。「携帯」「ネット」が普及始めた頃、見たくなくても目に入る、聞きたくなくても耳に入る時代だ。
部活動にもその人達と仲良い人が多く、影響も出始める。初めてのスポーツだからこそ自主練することも多くレギュラーに入らなかった時は先輩方が顧問の先生に抗議に行くほど恵まれたが、よく思わない人ももちろんいて、学校に居場所がなくなり、空手とピアノだけが何もかも忘れられる居場所になった。この2つの習い事がまた自分を守ってくれることになる。朝会で表彰され、廊下で嫌がらせを受けていた時に、大会でよく会う先輩を見つけ、先輩から手を振ってもらう。同じ学校だと思っていなかっただけあって嬉しくて凹んでた顔が嬉しさに変わった時、嫌がらせをしていた子達の顔が曇る。
「なんであんたが先輩のこと知ってるの」という質問に先輩が「俺ら空手友達だから。県2位おめでとう。」と言ってくれた。その人は学校でも有名なヤンキーグループでよりによって目立ってた人だったこともあり、私が知らないところで何度も庇ってくれた。今はどうしてるか全く検討もつかないが中学校を過ごせたのはこの人がいたからだ。インターハイでレギュラーを勝ち取るが結果は出せず敗退。親から勧められた勉学で有名な高校ではなく、文武両道な高校を目指すことに。高校3年生夏期講習から通い始めた塾で友達ができた。そして小学校の頃と同じことが起きる。同じ塾にいじめの主犯格もいて、その子達と仲良くなったことにより、また居場所がなくなる。目の上に5針縫う大怪我もおった。
そこから「友達を作る」ということが苦手になった。
高校へ無事入学し新たに気持ちを入れ替えようと決心つくも父が中学教師ということもあり、高校入学時には「○○先生の娘」で知れ渡る。ネットに敏感な世代なこともあり、小中学校でいじめられていたことも知れ渡る。誰とも話していないのに勝手に高校のスレッドでフルネームで公開され1000件を越える誹謗中傷で溢れ返り見せ物になった1年目。休日にはどこから広まったのか分からないが身元不明のアドレスから殺害予告のメールまで届くようになった。
「ああ、もうこの流れから逃れられないんだろうなぁ」と思ってた時に、友達が3名できて、4名で行動することに。それでも気付いたら3対1になってて「笑うツボが違うから」「一緒にトイレ行かないから」「人の顔色みて話そうとするから」という理由で離れていった。それでもその3名含めた8名がまた友達なろうと言ってくれ9名体制で動くことになったが「8こいち」というのがいつの間にできていた。そこでまた勘づく。9名いるのに8名。「私、邪魔だな。」と思い抜けようと1人になると察してくれたハンドボール部のクラスメイトの男子が「大丈夫?」と声を掛けてくれた途端8名の内のひとりが「なんでそこにいるの?一緒にお弁当食べようよー!」と近寄ってくる。
「あーもう無理だなー。友達って分からない。怖い」そんな感情が生まれ、ひとりでいても複数名といても「私」が消えるような気がした。ネットいじめで自殺のニュースが毎朝流れる中、死ぬ勇気がなかった私はただ羨ましかった。何度も自傷行為を繰り返し、痛みを感じることで「生きてる」と実感するしか居場所を感じれなかった。それなのに。。
ーー? 痛くない。こんなに血は溢れるのに。
高校1年、冬。保健室。急に身体の痛みを感じることができなくなった私。いじめによる自傷行為。その行為は突然の出来事ではなく何度もあった。ただ、痛みを感じなくなったのは初めてのことだった。
自分の左腕を見る。カッターと剃刀で傷つけた複数の傷に更に画鋲が刺さってる。涙は溢れずただ見つめるだけ。ベッドのカーテンの先には、ネットいじめの主犯格の入ってくる声。保健室の先生と盛り上がる声。カーテンを開けるわけにもいかず、カサブタの上から新しい傷を増やす。
声が聞こえなくなって、とりあえず保健室の先生に痛みを感じたい。と伝える為に冬服の制服を捲り上げると「ごめんね、気付いてあげられなくて」と涙を流し始めた。先生は何も悪くないのに。保健室に鍵を閉めふたりっきりになり今までの話をひたすら聴いてくれた。親でも聞いてくれなかった。なんなら今まで誰も聞いてくれなかった。話そうともしなかった。
話し終えた後、先生は「頑張ったね。生きててくれてありがとう。」と抱きしめてくれたんだ。
そこから左腕の痛みを感じ始めて、画鋲を丁寧に抜いてくれて、消毒して包帯巻いてくれて、心理カウンセリングを受けることになった。名前は出さない約束で学校にも掛け合ってくれて主犯格に事情聴取を行ってくれた結果、私だけではなく数名にも同じようにネットいじめや殺害予告を出してることが判明したそうで。私はそのまま精神科に行くことになり告げられた病名は「統合失調症」だった。親は信じきれず気にしたほうが負け、そんな子を育てた覚えはない。と向き合ってくれず一時期は私の分だけ夕ご飯がなかったら会話がなかったり、学校と同じく家でも無視されるようになった。病院が近かったこともあり通院時の先生と話してる時だけが安心できた。
校内合唱コンクールで伴奏を務めることがあったが、練習の時は問題ないのにクラスメイト全員と合わせる時は何て思われるのかが怖くて一気に頭が真っ白になることが多々あり本番でも弾けなくなってしまったことがあった。男子は問題ないよとカバーしてくれたが女子からは他の人に伴奏任せておけばよかった。と言われ今でもその曲を聞くとフラッシュバックするので聴けないが、卒業式の伴奏は他のクラスの生徒が推薦してくれてリベンジを果たすことができた。ただ、恐怖が勝ってしまった為ピアノは高校で辞めるきっかけにもなった。
進路を決める時、音楽の先生か警察官で迷ってた私は、少しでも人の支えになりたい。背中を押してあげたい。包んであげたい。と思うようになり警察官を目指す。
大学は法律を学べる私立を受け合格。警察官の試験を受けるも身長ギリギリ体重全く足りず熱が冷めてきた時にモデルの話が入るようになり東京へ。見事に某有名事務所に合格するも上京資金の問題や大学卒後を絶対とする親、それに自分自身が本当にやりたいことか分からず辞退することに。
そこで大学の入学式の時に初めてみた「ベリーダンス」勇気はいるけど気になってたし1人だけど見学してみようかな。。。と足を運んだ時、ここで未来は変わった。
ーー綺麗。
見学に来ただけなのに涙が溢れ、やりたいと思った。直感だけど自分のなにかを変えれる気がした。ダンスなんて何もやったこともないし自信なんてもってのほか。精神科も通ってるままの自分ができるのだろうか。ストレスで倒れて毎年約2週間入院する自分にできるのだろうか。
そこから始まった新たな世界と、人付き合い。
大学では小中高みたいに女子って感じのグループではなく、ひとりひとり自由な5名が仲良くなり行動するようになった。私が過呼吸おきても引くことせず近くにいてくれた。冗談でふざけあい、初めて男性ともフランクに話せるようになった。気付いたら目立つグループの一員にいた。すごく怖かった。また捨てられないか心配だった。何度も不安を消し去ってくれた。適当でいい。考えすぎなくていい。嫌われたっていい。自分が関わりたい相手だけ好きな人だけに関わればいい。自分らしくあればいい。たくさん教えてくれた。大学生になって初めて外で遊ぶことも覚えた。出掛けるトラウマを徐々に克服していった。
サークルもベリーダンスと目立つ衣装ということもあり学祭となれば観客が入る。その中にいじめっ子のメンバーがいて泣いたこともしばしば。それでも何かあれば絶対守る。と頼もしい先輩方や心友がいたこともあり、少しずつ人前に出ることも克服していった。感想のアンケートに嬉しい言葉がいくつもあり「存在してていいんだ」そんな感情を初めて味わった。そこから曲の世界観、自分の感情を表せるダンスの魅力と団体パフォーマンスで魅せる喜びを知った。言葉で苦しめられてた分、言葉がなくても伝わることがあるんだと知れた。
大学3年目にしてやっと精神科通院が完了。
コロコロ病名が変わり「パニック障害」「自律神経失調症」「躁鬱病」「PTSD」など様々付き合っていたが、やっと「自分」を見つけたことで、20代になってやっと堂々と人と関わること、前を向くことができた。大学4年では学祭で4年代表ソーラン節を最前列任せてもらうまでになった。今までの自分じゃ考えられない目立つ側の存在に気付いたら立っていた。
13年に渡ったいじめは常に死の淵に立たされている先が見えない暗闇だった。乗り越えた今、光がよく見える。きっかけは大学で出逢えた「友達」と「ベリーダンス 」だった。私は今も変わらず「人の支えになり、背中を押してあげられる、包容力のある」人になりたいという夢を、ベリーダンス講師として叶えようと日々前を向いている。
最後まで見てくれた皆様、人生つらいこと沢山ありますよね。生きていればきっとどこかできっかけが落ちていて、そこに足を踏み込むか踏み込まないか。気付けるか、気付かないかだと思っています。
最後に、生きててくれてありがとう。
闇から抜け出せる光への道は、きっとすぐそこにある。
頑張らなくていい。あなたはもう既に、頑張ってます。
ー 完 ー
ここまで目を通してくださり、ありがとうございました。思い出しながら書き綴りましたが、ほとんどがフラッシュバックが辛く思い出せずに書けない部分があり、あくまでも一部分の出来事です。
自ら命を絶つ前に、もう1日だけ生きてみませんか?
きっとあなたのすぐそばにもきっかけが転がっているかもしれません。