通り雨
嫌だなぁ。そろそろ一雨来そうな空模様だ。
どんよりと重たい雨雲から今にも雫が零れ落ちて来そうだ。
怒号が飛び交う仕事現場に間の抜けた音楽が響き渡る。
何度もすみませんと頭を下げ、詫びを入れる私の手の中の携帯画面に浮かぶのは、来月結婚式を挙げる相手の名前。
─会って話がしたい。
いつもはグダグダと能書きを垂れる彼からのlineが、たった一言だった事に眉を顰め、これから起こりそうな嫌な予感を前に天を仰いだ。
何があったのかを聞きたい私の頭の中には、嫌な予感がてんこ盛り状態で阿波踊りを踊っている。
まさかお義父様のことかしら。
すっと頭の中に過ったのは、未来の義理の父となる会長の体調だった。
元来丈夫な人ではなかったけれども、早くに美姫とも称された奥様を亡くされて、仕事に己の全てをかけて来た方。
本人自身もよく、いつお迎えがきても良いと言ってしまうくらい。その度に彼と私で「そんな悲しいことは言わないでください。せめて式まで、いや、孫が生まれるまで生きて欲しい」とお願いしていたほど。
でも、もし義父のことじゃなかったら、なんだろうか。
まさか、あの傍迷惑な男のことじゃないわよね。
彼の叔父ー正彦は彼の祖父が四十を過ぎて出来た末息子で、幼い頃は体が弱く正に乳母日傘で祖父母に溺愛されてきた人。
彼の叔父の正彦と義理の父とは約二回りほど年が違う。ちなみに彼と義叔父は同じ歳。二日ほど誕生日が違うらしい。
義祖父母の死後、兄弟達の面倒を見てきたのが長男である義理父だったと聞いている。
それにしてもこの義叔父には義理父に迷惑をかけない日はなかったと聞いている。今までだって借金、窃盗、恐喝、詐欺、暴行と殺人まではやっていないが大から小まで犯罪をしてきた人だ。幼い頃は義父の両親である祖父母が正彦がやったことの全て庇いだてをしてきたと聞いてる。優しい虐待とは本当によく言ったものだ。祖父母に甘やかされて育って来た私の婚約者の悟もその被害者と言ってもいい。本当にどこまで子供を腐らせる人達なのかしら。
考えるだけでも頭が痛い。十中八九この傍迷惑な叔父さんの事も絡んでいるのかも…。キリキリと痛むこめかみを撫でながら鎮痛剤を口に含んだ。
あまりの私の青い表情に、現場監督の岬先輩まで心配して来た。
「澤村?あなたどうしたの? 来週に式挙げるって言う女の顔じゃないぞ」
岬先輩にポロリと婚約者からの伝言を伝えれば、離婚歴のある彼女もすぐにピンと来たらしく、一緒に仕事現場近くのファミレスで彼と落ち合うことになった。
すっと岬先輩から手渡された茶封筒を受け取り中身を確かめると、私はもう後には引けなくなった。
ファミレス店内には客もまばらしかいない。どうやらランチラッシュがすぎた閑散時なのかもしれない。
彼はまだ来ていない。
ようやく彼が店内に入ってくると、彼の傍には子供を連れた女性が彼の腕に縋り付くように立っていた。
ああ…これって流行りのアレか…。
彼が私達がいるテーブルに来ると開口一言。
「何で一人で来なかったんだよ」
─悟。あなたどこぞの中坊ですか? こういう時ほど第三者がいるんだよ。第三者が。
岬先輩は、軽く手をあげて「あ、私は置物に徹してるから、あなた達は話を続けて良いよ。あ、コーヒーとケーキセットをお願いします」
悟は仕切り直しなのか、すまないと言い出した。その背後でキュルキュルキュルと妙な音も鳴っていたが、それはさておき。一体何がすまないんだろう?
黙って彼の次の出方を待っていると、隣にいる女性が頻りに肘で彼の腕をつつきながらも「私が悪いんです。」そう繰り返していた。
「子供はオレの子だ。既にDNA鑑定もした。結果も見た。美織、君とは結婚できない」
あ、え?本当に彼の子供だったんだ。そっか…これで会長にも孫の顔も見せれるんだから、一応ある意味では親孝行しているんじゃない?
まあ、これを会長が知ったら、どうなるかしらね。先週やっと仮退院になったばかりの会長の心がまたポッキリ折れるわね。それに彼女の子供の出自も知ったら、それこそ、即天国に行っちゃいそうよ。
「……」
彼女の方は、両目をうるうるさせて泣いているけど、涙は出て来ない。
すごい技だな〜と感心してしまう私に、子供の顔が見えるように抱く角度を変えて来た。
「ごめんなさい美織さん、私がこの子を妊娠した時に早く言っていれば、あなたが苦しむことなんてなかったのに…あの時は私が彼の事を信じられなくって逃げちゃったんです。ごめんなさい」
彼女の眦には涙が溜まっているのに、流れない。どこの女優だよ。
「……」
「なんとか言ってくれ、美織。親父にも美織の方から説明してくれないか? 美織は親父のお気に入りだったんだし」
何それ、人の事なんだと思ってんのよ。
しきりにこれ見よがしに震えてる彼女の肩を抱きながら言ってくる台詞は、マジに三文芝居だわ。
こいつ、か弱い彼女を守っているオレ、イケてる!なんて思ってんだろうな、きっと。
「美織がオレを振ったってことにしてくれれば良いから。」
「美織さん、私悪いと思ってたけど、でも…でも…悟さんは美織さんから相手にされていないって寂しがってました。こんなに優しい人をどうして一人にしておくんですか?悟さん言ってましたよ。美織さんが自分のことを本当に愛しているのかさえ判らなくなってきたって。どうして彼にそんな思いをさせてきたんですか?そんなに彼のことを愛していないんだったら、彼をあなたから解放してあげてください」
ー解放ね。犬じゃあるまいし。まあ、ある意味、犬かもね。駄犬だもの。
あら、とうとう本降りになって来たのね。
「……」
一口でカップに残っていたコーヒーを飲み干すとじっと二人を見つめた。
私の隣にいる岬先輩は携帯をポチポチ弄りながら、一応笑顔を貼り付けて入るけど、その背中には夜叉が見えてると思いますよきっと。
さっきから側を通るウェイターやウェイトレスがビビりまくってるよ。
「なあ、美織。どうして美織はさっきから何にも言ってくれないんだよ。俺が悪かったと言ってるだろ?」
「悟さんが悪いんじゃなくって、私が…」
仕方ない子を見るような目で息を吐くと二人とその子供をじっと見つめた。
「そう。あら、あなた達の言い訳はもう終わったの?じゃあ聞くけど、私は彼女の名前も聞いてないのに、彼女は私の名前を知ってるのね。不思議ね。初めてお逢いするんですがね。」
私の指摘にいい詰まったのか、二人とも眉をしかめてる。
─そんな怖い顔をしていたら、子供が怖がるでしょうに。
「では改めまして、私は澤村美織よ。あなたの隣にいる柏田悟の婚約者。さて、小笠原美穂子さん。悟も、一々私からの言葉を聞かないと自分達の愛が確かめられないってことかしら。(おめでたい頭してるわよね。)悟、あなたはすでに覚悟は決めてるってことで良いのよね? 私と別れて彼女達と一緒になるのね」
悟は私の言葉に赤べこかと思うくらい首を縦に振り続けてる。そんなに勢いよく首を振られてもね…。彼の志はどこまで持つかしらね。
再度、悟に本当に彼女の子供は自分の子だと確信しているのかと聞けば、悟はだから遺伝子検査したって言ったろ!の一点張り。
「そう、あなたが納得してるって言うのなら別にいいのよ。後ろの席で私達の会話を聞いている人達の中にあなたの弟とその彼女もいるんだし、こっちに来てもらえばいいじゃない」
斜め後ろの席で耳をダンボにしてるカップルに嫌味たっぷりに微笑んでやった。
さっきからあんたがいるって事は知ってたのよとドヤ顔をしてやれば、舌打ちをしながらこっちにやって来たのは、悟の弟の大学生の譲二だった。ブラコンを拗らせている譲二はウザそうに私達を睨み付けると、どかっと私の正面に座って来ると一枚の紙を広げて来た。
「ほらよ。なら、これ兄貴達が書けばさ〜、もうこの人から何も言われなくてもいいんだろ。だったらさっさと書いちまおうぜ」
私をちらり見して偉そうに含み笑いしながら譲二が出したのは…婚姻届。
──フゥン婚姻届ね…。まさかこの修羅場の時に私にこの二人の証人の欄に名を書けなんて、そんなバカなことは言わないわよね。
何を悟は迷っているのか、私の顔と婚姻届をチラチラと見ている。
この時プツリプツリと何かが音を立てて切れた。
──私はこの人の何を見て来たんだろうか。優しい人だから合理的で理論的な私よりも人と人との和を大事にする素敵な人だと思っていたのに。ただ単に、流されやすい優柔不断な人だったんだね。
目の前の二人が夫となる人、妻となる人のそれぞれの欄に書き込むと何を思ったのか、譲二は私に二人の証人になれと言い出した。
「あんた、やっぱばっかじゃないの?」
「何だとぉ!ゴラァ!」
どこぞのチンピラのように巻き舌でまくし立てて来るけど、周りを見てごらんよ。
ヒソヒソと白い目で見られているのはあんた達だってわかって言ってるのかしら?
自分が連れて来た彼女にでも書かせればいいじゃないと言えば、譲二と悟から「だからお前は可愛くない女なんだ」とハモリで舌打ちして来たよ。
仲良いね!
「譲二くん〜、良いのよ。私たちが悪いんだし。いつも譲二くん達は私や悟のことを心配してくれているんだもん」
仕方無しに、岬先輩がもう一人の証人の欄に名前を書き込んでくれると「譲二くん、お兄さん思いなのね。じゃあ、早めに出してこないとね。お願いしても良いかしら?」年下キラースマイルで悩殺魅了。
鼻息も荒く、譲二がすぐに出して来ると出て行った後、私は小笠原美穂子の子供を見てにっこり微笑んだ。
「ごめんね。大人の会話はいつもつまらないよね。今幾つなの?」
三本指を出して来た子供に、私はよく出来ましたと褒めると店員を呼んで「お昼にしようか」とお子様ランチを頼んだ。
「私は澤村 美織って言うの、お名前聞いても良い?」
最初は捨てられて来た子犬みたいな顔で「おがたわら りつ」ですと蚊の鳴くような声で教えてくれた。
「そう、律くんって言うの〜。可愛いね」
雑談をしているうちに注文したお子様ランチが来ると、子供は目をキラキラさせながら、食べても良いのかと私に聞いて来た。ここに入って来た当初からこの子のお腹の音が鳴っているのに、悟も小笠原美穂子も気づいていなかった。
──自分達のことでいっぱいいっぱいってとこね。こんな小さな子を連れ回して。何を考えてるのやら。
もぐもぐと一心不乱にお子様ランチを頬張っている子供の様子は、殺伐としたこの雰囲気が少し和ませている。
やがてお腹いっぱいになって眠たくなって来たのか、フォークを握りしめたままこくりこくりと舟を漕ぎ出した。
子供はすっかり熟睡している。
「小笠原さん、律くんは悟の子なの?」
「な、何を根拠にそんなひどいことを言うんですか!!」
「お、お前、美穂に謝れ!さっきも言ったが、俺はきちんと科学的に親子の証明をして、事実を明らかにしたんだよ」
私の言葉に顔を真っ赤にさせて来た彼女は目を潤ませて悟を見上げてる。
「そう。悟、結論から言わせてもらうね。悪いけど。律くんはあなたの子じゃないの。正確に言うと、あなたの甥なのよ。あなたと遺伝子が似ててもしょうがないわよ。それにあなたには子種がないから子供は無理なのよ」
「え?」
「だってね、あなたの叔父さん…正彦さんもだけど、悟も先代会長とあなたのお母様との間に生まれた子供なのよ。悟と誕生日が近いのも頷けるでしょ。」
「う、嘘だろ?」
─柏田正彦と悟は共に2月29日生まれ。双子という事をどうにかして隠すために正彦は2月28日、悟は3月1日となっている。
「当時社員だったお義母様が専務の妻の座に座れたのは、不運だったのかもね。お義母さまは人を魅了してならないほどの美女だったと聞いているわ。先代会長はどうしても彼女を手に入れたくて拐かして、出来たのがあなた達兄弟よ」
「嘘だろ!そんなのお祖母様が黙っていないだろ!それに子種がないって…」
「そうよね。一時期は先代会長ご夫婦が離婚の危機に陥ったのは有名よ。あなたのお母様はね、先代会長夫人の姪っ子だったんですって。姪を傷物にされたその責任を息子であるお義父様がお義母様と婚姻することで、相手のご両親も鉾を収めたと聞いているわ。一番の被害者はお義母様よ。彼女早死した原因は、先代会長とのことが原因と言っても過言じゃないでしょ。」
─まだ10代の半ばで婚約者も決まって幸せの絶頂だった方が、まさかご自分が一番慕っていた叔母様の夫に懸想されて、監禁されるなんて思いもしなかっただろうに。
「信じられないでしょうけど、あなたと叔父さまは歴とした実の兄弟。お義父様はね、性に奔放なご両親を観て育ったせいか、女性に対して性的欲求が皆無なの。先代会長夫婦はあなたのお兄様を引き取って育てられたわ。でもあなたはお義父様に人一倍厳しく育てられていたのよね。それはご自分のご両親を反面教師として、あなたにマトモな人間に育って欲しかったからよ。大学の時におたふく風邪にかかったのを覚えているでしょ?たかがおたふくと思うかも知れないけれど、幼児の時にかかるのと大人の時点でかかるのとでは全く違うのよ」
──血は水よりも濃いしとはいうけど、会長の思いはあなたに届かなかったのね。
「叔父…いえもうお義兄さんと言ったほうが早いわね。彼と同棲していたのが小笠原美穂子さん。あなたよ。別れたのは三年前ですってね。DNA検査の事もお義兄さんに入知恵されたんですってね。親切なお友達が教えてくれましたよ。」
美穂子を見れば、顔色を青色を通り越して白色にしている。忙しい人ね。
なんて言ったて、一卵性双生児だもの。
「美穂、嘘だよな」
「お義父様はいつも心配していらしたのよ。『正彦がまた柏田本家に迷惑を掛けるかもしれない。もしかしたら悟をも巻き込んでとんでもないことをしようとしてるかも知れない』あなた達には常に調査員が付いていたの。もうお義父様もあなた達の尻拭いは金輪際しないと言ってらっしゃったから、どうなるのかしらね。」
岬先輩を連れて席を立つと、二人から嘘よと怒鳴ってきた。
そう仰ると思って、これを渡しますねと分厚い茶封筒をテーブルに起き、立ち上がると一つ言い忘れてたわと彼らに笑顔で爆弾を落とした。
「兄さん!婚姻届、出して来たぞ!!もう、これでうるさい連中はいなくなるんだし、万々歳ってやつだ」
丁度その時入れ違いに入って来たのは譲二達。
悟の弟はキラキラ笑顔で私と岬先輩を見て鼻で笑っていたけど。それを聞いた悟は顎を落としたまま、固まっていた。
じゃあこれで、本当にサヨナラねと私達はその場を後にした。
ガラス張りの店内からは飛び交う怒号が外まで漏れてくる。
つい昼前までは降り出して来た雨さえも、上がっている。空には大きな虹が出ている。
「悟との婚約も通り雨のようなものだったわね」
「さあて、これから大変よ。柏田会長からの直々の名指しなんだからね。澤村代表」
優柔不断な悟の性格を見越した会長が跡取りにと決めたのは、息子の悟ではなく私。どんな状況にも冷静沈着に物事を見れるからだと言われているけど。本当の理由は私が彼のパートナーだった男の娘だからだろう。
結局は会長も人の子だったってことよね。自分が愛する人の血を引く人間の手に委ねたかったのだろう。
岬先輩からのキラースマイルを受けた私は、苦笑した。
あの婚約は失敗に終わったけど、良い勉強代だと思えばまた私は上を向いて歩ける。
あの大空にかかる虹を見るために。