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天上の音

作者: 雪月音弥

 古びたピアノ。

 少しだけ音が歪んでいる、そのピアノの前で。

 彼女は僕の音を、とても良い、と言った。

 少し熱のこもった声、顔には満ち足りた笑顔。


 音楽家の両親も、姉も、僕には見込みがないと言いたげだった。

 なにより僕は、自分の音に失望していた。

 父や母、姉の音は、あんなにも澄んで、天高くまで昇りそうなきらめきと、波が空間のすべてを洗い流すような熱情で溢れているのに。

 僕の音は、ぎこちなくて、薄っぺらで、上っ面だけ見せかけているみたいに深みも重みもなくて。

 いつも誰かの目や耳を気にして、小さく縮こまって、みじめな音だった。僕が欲しいと思うような音は、僕の中からは一音も出てはくれなかった。

 だからいつも、誰も来ない旧校舎の音楽室で、ひとり、ひっそりと息を潜めるようにして弾いていた。

 旧校舎は、本校舎からは離れた場所に建っていて、音楽室は奥まった場所にあったから、誰も来なかった。

 静かに弾いているとはいえ、どうしたって音は漏れる。誰かに聴こえているだろうとは理解していたし、自分の音の貧弱さを恥ずかしくも思っていた。

 それでも僕には音楽しかなかったし、音楽しか必要としていなかったから。

 毎日、毎日、弾いていた。ひとり、自分の世界に閉じこもって、ただ、ただ、弾いていた。それが僕の、唯一の愉しみであり、慰みだった。


 あの日も僕は、ピアノを弾いていた。自分の音に不満を感じながらも、僕はそれしか持っていない。

 どうして僕の音は、こんなにも聴くに耐えられない音なのか。

 なぜ、変えたい、変わりたいとどれほど強く願っても変わらないのか。

 天上の音にほんの少し、わずかにこぼれ落ちた音だけでも良いから、この指で触れたいのに。

 どうしても、どうやっても、脆くて繊細な音は、僕の指に触れた瞬間、割れて、粉々になって、台無しになる。潰れて、ひしゃげて、どうにもならない。

 もう、そろそろ、弾くのはやめようかと思ったそのとき、ふと気付いた人の気配。

 振り向くと、彼女が立っていた。

 しばらく僕の顔を眺めて、言った。

「とても良い」

 なんだか嬉しそうに、頬を赤くして。

 緩やかな笑みが浮かんでいた。

 僕は呆然としてしまって。なにひとつ、言葉は出てこなかった。

 僕が黙っていると、彼女は少し顔を傾げた。

「とても良いね、あなたのピアノ」

 彼女はもう一度言って、今度は僕の返事を促すかのように視線を投げかけてきた。それでも僕が言葉を失っていると、続けて話しかけてきた。

「誰かがここで弾いてるの、前から知ってたの。今日も聴こえてきたから、誰かなーと思って」

「……ああ、そう」

 かろうじて出た声は、かすれて小さかった。

「いつも思っていたんだけど、今日もステキだったわ」

「……どうも」

「ねえ、もう一曲弾いて」

「……いや、今日は、もう……」

「えー。残念。……私が来たから、ダメなの?」

 応えないでいると、彼女は、そっか、とガッカリした様子だった。明日も弾く? と訊かれ、それにも僕は応えなかった。

 彼女はため息を吐き、失敗したかな、と呟いた。

「私、あなたの音、好きだよ。なにか、必死に掴もうとしている感じ。求めて止まない心。あなたに足りない何かを、あなたがどれほど必要としているか、伝わってくるもの」

 クルリと振り返り、彼女は教室を後にしようとして。

「あなた、きっと、ピアニストになれるわ」

 ニコリと笑った顔は、清々しく晴々としていて。

 彼女が心の底からそう信じていると告げていた。


 あれから十年が経って。

 僕は、今、また、ピアノの前に座っている。

 丁寧に調律されて、メンテナンスの行き届いた美しいピアノ。

 そっと目を閉じる。

 どうか、僕の音が天上まで届きますように。

 どうか、僕の指が触れても、壊れたりしませんように。

 どうか、僕がもう、僕の音に失望しないですみますように。

 そっと、鍵盤に指を下ろす。

 スポットライトの下、大勢の聴衆が聴いているホールで。

 舞台袖にいる、彼女の視線を感じながら。

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