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鹿翁館のミステリー

作者: 涼格朱銀

 僕が鹿翁館の調査に参加することになったきっかけは、一通のEメールからだった。

 メールの送り主は梶原直樹。史学科のラザロゼミで同期だった男だ。大学を卒業してから会うことはなかったが、ラザロ教授の助手として働いていると聞いていた。

 メールの内容は、要約すると以下のようなものだった。


 ――ラザロ教授が鹿翁館の調査中に失踪した。警察も捜索をしているが、状況からして、考古学の専門家によって調査した方が真実に近づけるのではないかと考えている。同期のよしみで、時間があるなら手伝って欲しい。


 文学部といえば暇人と変人の集う場だが、なかでも史学科は精鋭である。この学科の連中は現代に生きていない。史料や遺跡にしか興味がないのである。

 出版業界にコネのある東京の大学ならともかく、地方の文学部は、無駄に偏差値が高いわりには卒業しても就職する際に何の得にもならないため、よほどの好き者しか来ない。特に史学科はカネにならないだけでなく、カネがかかる。何かの調査をしようとしたら現地に飛ばねばならないし、発掘となると、事前調査だの、土地の所有者や政府の許可だの、機材や人手の確保だのと、それはもう大変である。

 というわけで、史学科にはもともと学生が少ない。私と同期のゼミ生は、私を含めて3人しかいなかった。


 僕は現在、会社員として働く傍らで、隙を見ては近くの発掘調査に参加する日々を送っている。

 何かの工事中にうっかり遺跡や化石が出てしまうことは意外とあるもので、そうなると、ひととおり発掘調査が終わるまで工事の続きができない。そこで工事会社は「カネを出すからとっとと調査してくれ」と、近所の大学などに依頼する。すると、発掘調査の補助員なりボランティアなりが募集されるわけである。

 こういうのは大した報酬が出るわけではないが、自分で発掘調査を指揮する大変さを考えたら、ちょこっと手伝いをして考古学者気分を満喫するくらいが幸せというものである。僕はここ数年で、恐竜の化石だの、陶器の破片だの、いろんなものを土の中から掘り出した。そしてそれらは地元の史料館だので陳列されている。僕の名前が大々的に公表されるわけではないが、そんなことはどうでもいい。


 梶原の誘いはとても魅力的だった。謎の館の調査というだけでもわくわくするが、教授の失踪というサスペンス的な要素まである。しかも、失踪した教授が恩師となれば、人情的な道義もある。

 僕は脊髄反射的に誘いに応じる返事を出し、その後で、会社をどうしようかという現実的な問題に頭を悩ませたのであった。



 というわけで、ある夏の早朝。僕は荷物をまとめて家を出て電車に乗り、懐かしの大学通りでサンドイッチを買って食べ歩きつつ、朝9時ちょうどに大学の正門前に来た。夏休みの時期ということもあって、電車も、通りを歩く学生の数も、かなり少なかった。

 梶原はすでに、正門前で待っていた。こちらに気付くと、手を挙げて合図をした。

 大学を卒業してから5年ほどになるが、梶原の風体は学生時代とは大きく変わっている部分があった。スキンヘッドになっていたのである。なんでも、2年ほど前から頭頂部が寂しくなってきたそうで、だったらいっそ全部剃っちまえ、と思い立ったらしい。

 史学科の学生というと、根暗なひょろ長を想像する人が多いかもしれないが、梶原はジムで身体を鍛えており、肌はフィールドワークで日焼けしていて、ラグビーでもやっていそうに見える。なお、僕は期待通りのひょろ長眼鏡野郎である。

 僕と梶原は正門前でひとしきり旧好を暖めたが、そのせいでもないだろうが、そのうち暑くて居ても立ってもいられなくなってきた。朝からすでにこの暑さとは、酷いもんである。

 というわけで、さっそくクーラーの効いた快適な車に乗り込み、現地に向かうことにした。

 その間に車を運転する梶原から、ざっとした状況を聞いた。


 件の館が発見されたのは数ヶ月ほど前だそうで、自然環境の調査だかで市に雇われた調査員が偶然見つけたらしい。それまでは、存在すら知られていなかった。それから、なんやかやあって、ラザロ教授が館の調査を担当することになった。館を調査して、解体すべきか、保存すべきか、保存するとしたら、どうやって補修したりとかするのか、などを決めるための材料を報告するためである。

 ラザロ教授はゼミ生や助手とともに史料に当たったり、現地に赴いて調査をしたりしていたが、一ヶ月ほど前、館の調査中に突然姿を消した。

 失踪当時、ラザロ教授は助手と二人で館を訪れていた。その助手というのが梶原である。


「ということは、第一容疑者はお前じゃないか、梶原」

 僕はそこで口を挟んだ。梶原は肯定した。

「そうなんだ。だから当然、警察から取り調べを受けたよ」

「で、お前、どうやって教授を殺して死体を隠したんだ?」

 梶原はため息をついた。

「やめてくれよ。俺が埋めて殺したんだったら話は早いさ。そうじゃないから困ってるんだ。……いや、殺して埋めるのかな? どっちでも結果は同じか」

 僕にしても、梶原が教授を殺したと本気で思っているわけではないが、用心はしなければならない。なにしろこれは館ものミステリーなのだ。梶原が旧友を一人ずつ殺すために館に招待した可能性も考えておくべきだろう。

 ……そういえば、ゼミ生、最後の一人はどうしたのだろう。彼女も招待されたのだろうか。聞いてみることにする。

「ところで梶原よ。長家にも連絡を取ったのか? あいつ今、どうしてるんだ?」

「ああ、もう現地にいるよ。長家はフロリダに住んでるらしいんだが、わざわざ日本まで来てくれたんだ」

「フロリダ? なんでまた」

「あっちでマヤ文明の研究をしてるらしい。詳しいことは聞いてないけどな」

 マヤ文明というと、最近、古代都市が今まで想定されていたよりも遙かに大規模なものだったとわかって考古学会を賑わせているホットな研究対象である。それをほっぽり出してまでこっちに来るのだから、彼女はよほど今回の話に魅力を感じたのだろうか。それとも恩師に対する恩義からか。


 話をしている間に、車は狭くて曲がりくねった山道へと入り、森の中をうねうねと進んだ。

 そして唐突に、森のど真ん中で止まった。窓から外を見回しても、館なんかどこにも見当たらない。

「ほい。ここからは歩きだ。超きっついぞ。覚悟しろ」

 そう言いながら梶原は車を降りた。僕も荷物を持って、渋々降りる。

 梶原は道も何もない、木々の生い茂る昇り斜面へと躊躇なく足を踏み入れていく。仕方なく、僕も付いていく。

「おいおい。山歩きさせられるのかよ。聞いてないぞ」

 文句を垂れると、梶原はあっさりと返した。

「言ってないからな」

 それから、続けて言った。

「もともとは館へと続く道はあったらしいんだが、この数十年で崖崩れとかがあって、塞がってしまったらしい。というわけで、危ないところを迂回しつつ、森の中を歩かねばならない。まあ、ほんの一時間ばかりさ」

「それならそうと言っといてくれよ。こっちにだって準備ってもんがあるだろ」

「考古学者たるもの、いつでも山に入る準備ができているものなのさ」

 目茶苦茶なことを言う。しかし、確かにまあ、そういうこともあるかと思って、丈夫な靴を履いてきていたのも事実ではあった。また、ラザロ教授と手伝いの人達が何度も通った道なのだろう。梶原が進んでいく道はある程度、周囲の草木が切り払われ、踏みならされていて、前人未踏の密林に分け入るのに比べれば、ずっと歩きやすかった。

 なにより、山の中が存外涼しくて過ごしやすいのは嬉しかった。実のところ、大学の正門前でずっと喋るくらいなら、ここで山登りする方がずっと快適な気すらする。ただ、あまりそういうことを言うと、梶原の奴に何かとコキ使われるかもしれないので、ぶーたれている振りを続けておくことにした。



 小一時間の楽しい山登りの末、僕らはついに鹿翁館に辿り着いた。

 どんなに不気味でゴスい館なのかと想像していたが、その実態は、いかにも普通なたたずまいだった。戦前までに日本で建てられた西洋風の館としては標準的で、日本家屋の基準からしたら大豪邸かもしれないが、西洋の館としては小さい方。セレブの暮らす邸宅というよりは、日本に出稼ぎに来た西欧人が家族と住んでいた、といった感じの館である。

 館の正面に広がる、芝生を敷き詰めた庭は、当然と言えば当然だが、すっかり荒れ放題でまだらに枯れ、雑草が伸び放題になっている。ただ、道から玄関口に至るまでの道だけは、雑草が刈られて歩きやすくなっていた。たぶん、教授達が簡易に手入れしたのだろう。

 館の外壁は、ところどころ塗装が剥げているが、全体には薄緑色で塗装されている。まあ、なんというか、普通である。長いこと放置されていたので古びて、ところどころ痛んではいるが、それにしても単なる廃屋、といった感じである。悪魔や吸血鬼や怪しい科学者が住んでいるような、ツタが絡まり尖塔に大鴉が留まり、といった大仰で邪悪な感じはない。

 ともかく、梶原の後に続き、館の中に入る。


 館の中も、さほど目を惹くものはなかった。長年放置された普通の洋館。玄関からホールに入ると、二階へ続く階段と、どこかへ続く扉がふたつ見える。梶原が近くの方の扉を開けて中に入るので、続く。

 そこは応接間のようだった。部屋の中央にソファが置かれ、壁際には棚などがあったが、特に目を引いたのは南側が全面窓ガラスになっていて、開放的な作りになっているところだった。そして、その窓ガラス越しに、外の風景を見つめている人影がひとつ。

 その人はこちらに気付くと振り返った。懐かしい顔だ。

「ああ、道村君、お久しぶり」

 そう言って手を差し出してきたのは、長家である。学生時代は髪が肩まであったが、ばっさりと短髪にしている。髪をばっさりやるのが同期の間で流行っているのだろうか。まあ、同期は3人しかいないのだが。

 昔の長家はもっと大人しそうな、いかにも文系な雰囲気の学生だったが、今ではタフそうな印象になっている。動作や言葉もはきはきしていて、いかにも前線で戦う考古学者、といった感じである。

 僕は差し出された手を握り返しながら、言った。

「やあ、長家さん。フロリダにいるんだって? よく来たね」

 長家は笑いながら言った。

「いやあ、アメリカにいるとね、何をするにも移動距離が長いもんだから、日本に来るのもあんまり大変って感覚がなくなっちゃったんだよね。特に私はフロリダとユカタン半島を行ったり来たりしてるわけでさ、国境を越えるのも特別じゃないわけよ」

「そんなものなの? こっちは県をまたくだけで大冒険だよ。まあ、久々に会えて嬉しいよ」

「こちらこそ」

 ひとしきり挨拶が終わったところで、梶原が長家に尋ねる。

「ところで、ざっと見た感じ、どう?」

「うーん、まあ、洋館についてそう詳しいわけじゃないけどさ、見た感じは、戦前の日本で、西洋人が住むために建てた家としては標準的かな。イギリス風の普通のやつだよね。ふたつのことを除いては」

「何?」

「ひとつは立地。なんだってこんな不便な山奥に建てたんだかね。別荘という感じでもないし。もうひとつは裏庭。日本の庭園の真似をしたかったのか、芝生に不規則に岩が置かれていたり、変なところに木が生えていたりしてる」

「なるほど。似たようなことは教授も指摘していたよ」

「まあでも、いま重要なのは、教授がどこに消えたのか、ということだろうけど。今のところ、手掛かりらしいものは見つけてないよ」

「そうか」


 二人の話が一段落した隙を見て、僕は言った。

「梶原。教授が失踪したときの状況をもう少し詳しく教えてくれないか?」

「わかった。俺達がその日、館を訪れたのは朝早くだった。教授は前日、研究室で何やら史料を引っ張り出してきては、手帳にしきりに何か書き込みをしていたんだけど、朝早くに俺を呼び出して、館に向かうと言ってきた。ずいぶん興奮している様子だったよ。あの教授にしては珍しいことだった。わかるだろ? それで、俺が車を運転して、教授と二人で館に来たんだ。時間はよく分からないが、ここに着いたのが朝8時とか、そのくらいだったと思う。えらい早い時間にコンビニでおにぎりを買って、それを食いながらさっきの山道を登ってきたのを覚えている。

 館に着くと、教授は書斎を調べると言い、俺には応接間で待つよう言った。たぶん、一人で邪魔をされずに調査をしたい、ということなんだろうと俺は思い、言われたとおりにここで待つことにした。その間にデスクワークをこなしながらね。学生のレポートの採点をしたりとか」

「書斎というのは?」

「二階だ。案内しよう」

 僕たちは梶原に続き、応接間を出て二階への階段を上る。階段は、僕らが歩く度にきしみをあげる程度には痛んでいたものの、いきなり底が抜ける心配はしなくても良さそうだった。一方で、手すりは下手に体重を預けたりすると危なそうだった。

 階段を上ると、まっすぐに伸びる廊下があって、それに沿って扉が3つ見える。

 きしむ廊下を歩きながら、梶原が説明する。

「手前二つが居間、もしくはゲストルーム。部屋には家具などはなく、空っぽになっているから、どういう使われ方をしていたかは正確には分からないけど、ともかく寛いだり寝たりするところだろうね。気になるなら後で見たらいいよ。で、一番奥が書斎だ」

 梶原はその扉を開けた。中は真っ暗である。梶原は入り口付近でごそごそしていたが、やがて、乾いた音と共に、明かりが点いた。電気は通っているらしい。


 その部屋を覗いた瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。この館にやってきて初めて、言い知れぬ不気味なものを感じた。

 書斎を見るまでの僕は、正直、この館のあまりの平凡さ、つまらなさに失望していたところがあった。これの件は梶原が言うような「専門家」の出る幕はなく、やはり、警察の仕事なのではないか。ただの失踪事件に過ぎないのではないだろうか、と。

 しかし、その書斎を見た瞬間、僕は梶原の言った意味を理解した気がした。


 ただし、書斎が見るからに異常だった、というわけではない。部屋の壁は三面とも本棚となっており、そこには本が詰め込まれ、部屋の中央には机があり、椅子がある、という、書斎としてはごく普通の作りだった。

 あとは、絨毯の上に紙やら本やらが少々散らばっている。これは書斎としては普通じゃないかもしれないが、主人のいない荒れ果てた館としては、そう変でもないだろう。

「お、こりゃボルヘスだね」

 長家が絨毯の上に落ちている一冊を拾い上げた。表題はアルファベットで綴られている。僕は英語ならそこそこ読めるが、その表題は何と書いてあるか読めなかった。

「それ、何語なの? 英語じゃないよね」

「スペイン語だよ。『短くてすんごい物語』ってタイトル。日本語だと何て訳されるのか知らないけど」

 梶原が尋ねた。

「で、そのボルヘスってのは何者なんだ?」

 聞かれた長家は少し考え込んでから言った。

「うーん。まあ、小説家ってことでいいんじゃないかな。もっともらしいウソを書くのがうまい人だよ。この本は古今東西の怪談を集めた本、という体で書かれていて、結構有名なやつ。本当に怪談を集めて作ったのか、それともボルヘスの創作なのかはわからないけどね」

「怪談? グリム童話みたいなやつ? それともラヴクラフトとか?」

「いやあ、私は小説は専門じゃないから、そう聞かれてもねえ。神話や伝承っぽいんだけど、どことなく作り物くさいところがある、というか」

 彼女はページを適当にぱらぱらめくりながら言った。

「俺だって専門じゃないけどさ。しかし、長家がスペイン語を読めるってことなら有り難いよ。正直、何を書いてるのかわからないものが多くてさ」

「わかった。手掛かりになりそうなものがないか、調べてみるよ」

 僕は言った。

「話を戻そう。梶原がさっきの応接間にいる間、教授はここで何かをやっていたって話だったよね。それで?」

 梶原は困ったような表情をした。

「それが、あとはそれっきりなんだ。日が暮れだしたんで、そろそろ帰った方がいいと思い、俺は教授を呼びに行った。しかし、ノックをしても返事がない。それで、ドアのノブをひねってみた。カギはかかっておらず、開けてみたら、誰もいなかったんだよ」

 本をめくりながら、長家が言った。

「基本的なことを2つ聞かせて。まず、教授は本当に書斎に行ったのか。そして、梶原君が知らない間に、ホールから外に出た可能性はないのか」

「教授が書斎に行ったかどうかは、厳密に言うと分からない。俺は二階に行かなかったからね。ただ、朝に館に来たとき、ホールで教授が二階に上がったところは見ている。それを見送ってから応接間に入ったんだ。ただ、二階にはこの書斎以外、見るべきものはないから、書斎に行った可能性が高いとは思うよ。後で他の部屋を見てごらんよ。空っぽで何もないから。

 で、次に、俺が知らない間にホールから外に出た可能性だが、これも、全くないとは言わないけど、まずないと思う。というのは、さっき君らも階段を上ったときに気付いたと思うけど、あの階段は使うと結構派手に音を立てるんだ。応接間からでもそれははっきり聞こえる。そして、二階から一階に降りる術は、あの階段を使う以外にない。まあ、カーテンを縄はしご代わりにして窓から脱出するとか、そういうことは可能かもしれないけど、そうした痕跡は見つからなかった。

 あと、応接間にはでっかい窓があっただろ? 俺は窓の方を向いて仕事をしてたんだけど、となると、仮に教授がひっそりと階段を下りてホールから外に出て、さっきの山道に行こうとしたら、歩く人影が視界に入ったはずなんだ。これも絶対的な証拠とは言えないけどね」

「じゃあ僕からも質問しよう。仮に教授がこっそり外へ出たとして、徒歩でどこかに行くとしたら、考えられるアテはあるの?」

「この山には他に何もないから、行くとすれば、さっき通ってきた道を戻って、人里まで行くしかないだろうと思う。教授は運転免許を持ってないし、その日乗ってきた車はそのままあったから、車でどこかに行った可能性はない。さっきの道を徒歩でとなると、無理じゃないけどすんごい大変だろうね。だいたい、そんなことをする理由がないと思う。町に戻りたいなら俺に言えば済むことだろ? なんで大変な思いをしてまで徒歩でこっそり帰るのさ」

 僕はいつの間にか腕組みをしていた。梶原の言ったことを頭の中で整理して、それで、もう一つ質問が浮かぶ。

「じゃあ、警察はどう考えてるの?」

「警察は、この館についてはさほど調べていない。争った形跡や血痕などの、ここで事件があったことを示すものがないかは調べていたけど、何も出なかったらしい。あと、この山の中もボランティアと共に数日間捜索していたけど、同じく何も見つからなかった。もちろん、さっき通った道には教授を含む複数の足跡があったけど、特に不審な点はなかったらしい。要するに死体を引きずった跡とか、そういうのはなかったってこと。

 あとは、教授の家族や交友関係とかを当たって、トラブルに巻き込まれていなかったかを調べたり、教授の行きそうな場所を中心に、教授を見かけなかったか聞き込みをしている。それはそれで現実的なやり方だろうから、文句はない。ただ、俺はどうも、この館そのものに答えが隠されていると感じるんだ」

 不意にそこで、会話が途切れた。長家が無意味に本のページをめくる音だけが、室内に規則的に響く。


 やがて長家は、ぱたん、と本を閉じた。

「まあ、本当に教授の消息の手掛かりが出るかはわからないけど、せっかく来たんだから調査をはじめようよ。手順はどうするの?」

「うん。俺は今のところ、3つの方面から調査できると考えている。ひとつはこの館の歴史的事実を紐解くこと。これはラザロゼミのゼミ生に図書館などで調べてもらっている。次に、この館の構造や地質の調査。正直あまり期待していないけど、地面に何か埋まっているとか、隠し部屋があるとか、そういうものを探す。最後に、この書斎の調査。本やメモ片を調べて情報を見つける。ああ、あと、ラザロ教授の研究室での手掛かり探しも、ゼミ生を中心にやってもらっているよ。まだ成果はあがっていないけどね。何か意見はある?」

 梶原は僕と長家を交互に見る。二人とも何も言わないのを確認すると、頷いて、扉の方へと向かう。

「じゃあ、まずは二人で書斎を調べ始めてもらえないかな。俺はゼミ生の様子を見てこなきゃならないんだ。できるだけすぐ帰るよ」

 長家と僕はうなずき、それから、代表で僕が言った。

「わかった。とにかく、やってみないことにはわからんからね」

「ありがとう。じゃあ、俺は行くよ。また後で」

 そう言うと、梶原は書斎から出て行った。


 残された僕と長家は、しかし、すぐには作業を始めずに、二人して息を殺してその場で突っ立っていた。

 しばらくすると、階段のきしみ音が規則正しく聞こえてくる。

 長家が、感心したように頷きながら言った。

「なるほど。確かにけっこう、音がするね」

「それに、さっきの話だと、仮にこっそり外に出たとしても、行く場所がないってことだったからなあ。しかし、だとすると、教授はここで蒸発したことになる。そんなことってあるのかな?」

「さあね。ところで、道村君はどう思う?」

 長家はイタズラっぽい笑みを浮かべる。

「何が?」

「梶原君が、どうやって教授を殺して埋めたか」

 僕は真顔で言った。

「あいつが犯人だったら、話は簡単なんだよな。その可能性は否定できないよ」

 長家も、真面目な表情に戻って言った。

「まあね」

 それから、気分を変えようとしたのか、ひとつ咳払いをし、いつもより少し明るめの声で言った。

「ところで、道村君はまだこの館をひととおり見てないんじゃなかった?」

「ああ、来たばかりだからね」

「じゃあ、仕事にかかる前に、ざっと案内するよ。館のことを調べるなら、まずはここの概略を把握しておくべきでしょ」

 言われてみたらその通りなので、僕はお願いすることにした。

 いや、実際のところは単に、この書斎にいたくなかっただけかもしれない。どうもここには居心地の悪さを感じる。



 長家と僕は書斎を出ると、まずは書斎の隣の扉を開けた。

 そこは先ほど梶原が言っていたように、空き部屋になっていた。ただ、絨毯に残っている跡や、壁紙の日焼けの度合いの違いなどから、そこがかつて寝室か何かだったことがわかる。

 部屋の南側には窓がある。一応、そこから下に降りられるのか確かめようと側に寄ってみたが、かなり高さがある上、ここから降りると正面の庭に出てしまう。庭は応接間から丸見えだから、こっそり抜け出すには不都合である。

 その隣の部屋も同じ間取りの空き部屋だった。寝室として使われていたらしい痕跡があるのも同じ。二階はこれでおしまい。


 階段をきしませて一階に下りる。館に来たときは、玄関口から右手にある手前の扉から入って、そこが応接間だったわけだが、今度は、階段の奥にある扉を開ける。その先はさらに廊下になっていて、左右に扉がある。左手がトイレと浴室。右手がキッチンになっていた。

 キッチンには、最近使われた形跡がある。館の調査中に教授達が利用したことがあるのだろう。

 キッチンには、食堂に続く扉と、裏庭に出る勝手口がある。


 まずは食堂の方に出てみる。食堂には長いテーブルが置かれ、テーブルクロスがかけられている。そして、一定間隔で燭台が置かれている。ただ、長年使われていないのは明らかで、燭台は錆付き、テーブルや椅子のニスはすっかり劣化して剥がれている。

 主人が座る席の後ろには暖炉がある。この暖炉も長いこと使われた形跡がない。そして暖炉の上には、木製の雄鹿の仮面が飾ってあった。立派な角を生やし、厳めしい顔つきをした鹿である。

「鹿翁館という名前の由来はこれなのかな?」

 僕は仮面を見上げながら言った。長家も同じように仮面を見上げながら、首を傾げる。

「さあ。私はむしろ、鹿翁館という名前だから、この仮面を飾ってみたんじゃないかと思ってたんだけど」

「なんでそう思うの?」

 僕が尋ねると、長家は仮面を指さして言った。

「見た感じ、これって結構新しいもののような気がしない? 館の年季の入り方と比べると浮いて見えるというか。館と一緒に年を取ったんじゃなくて、途中から後付けされたもののように見えるんだよね。まあ、実際のところはわからないけど」

「なるほど」

 言われてみると、仮面は痛みが少ない。それは、表面に塗られたニスが劣化していないことからも明らかだった。日常的に使用されるテーブルや椅子と、直射日光が差し込まない壁に掛けられた仮面とを単純に比較することはできないが、それにしても彼女が「浮いている」と評した感じは確かにあった。


 キッチンに戻り、今度は勝手口から外に出る。外には使用人が住んでいたと思われる小屋と、物置があった。そして、その先は裏庭になっている。

 裏庭は、長家がさきほど奇妙だ、みたいなことを言っていたような気がするが、確かに奇妙な庭だった。表と同じく芝を敷き詰めているのだが(そしてやはり表と同じように、今となっては芝生は荒れているのだが)、その中に大きな岩が無造作にいくつか置かれていたりする。そして、ある岩の隣には、これまた樫の木が一本、でんと植わっている。もともと生えていたのではなく、わざわざ植えたのであろう。そんなものを植えたせいで、木の陰になる部分だけ、せっかくの芝生がはげ上がって、土が露出している。

 この館の主が何をしたかったのかは分からないが、かなり変なセンスの持ち主だったようである。


 裏庭はそのくらいにして、使用人の小屋を覗く。本館とは比べるまでもなく質素な作りだが、それでも学生のアパート暮らしよりは遙かに広々としている。いずれにせよ、小屋の中は片付いており、何も無かった。また、埃の積もり方からしても、長年使われていないことが窺える。比較的新しい足跡がいくつかあったが、これは館の調査の時に付いたものだろう。失踪事件とは関係なさそうである。

 物置には、スコップやバケツなど、主に庭の手入れ用と思われるものが収納されている。目に付いたもので興味深かったのは、年代物の自動芝刈り機である。ちょっと埃を払って動かしてみたい気分になったが、何十年も使われていなかったわけだから、本気で動かそうとしたらエンジンの分解清掃は絶対に必須だろう。そんなことをしている場合ではない。


 といったところで、館の見学ツアーは終わりである。帰り道に、長家が尋ねてきた。

「どう、何か気になったところはある?」

「うん。まあ、はっきり言って平凡な洋館だよね。裏庭のセンスは変だし、なんでこんなところに建っているのか、という謎はあるけど、ごく普通に使われてきた、ごく普通のお家に見える」

「けどさ、こうなると圧倒的に変じゃない?」

 長家の含みのある言葉に、僕は首を傾げた。そう言われても、思い当たることがない。なので、素直に訊いてみた。

「何が」

 長家は言った。

「書斎だけが片付いてないってこと」

 僕は思わず身震いした。心底書斎に戻りたくなくなってきた。



 ものすごく重い足取りではあったが、僕らは結局、書斎に戻ってきた。もともとこの書斎にはなぜだか嫌な感じがしていたのに、さらに長家が脅かすものだから、僕の気の重さと言ったらなかった。

 一方、長家の方はというと、僕を怖がらせて愉しんでいるのかと思いきや、そうでもなかった。怖がっている風ではなかったが、妙に真剣な表情をしていた。

「さて。ともかく仕事を始めましょうか。まず、私はざっと本棚をチェックしてみる」

「わかった。じゃあ、僕は片付けからやろうか。床に散らばっているのを集めて整理しよう」

 長家は鉛筆を使ってメモ帳に書き込みをしたり、スマホで撮影をしつつ、本を本棚から抜いたり、開いてみたりする下で、僕は床に這いつくばって、散らばっている紙切れを集め始めた。

 そのついでに、何か事件を臭わせるものがないかにも、一応気をつけておく。そういうことはすでに警察がやった後だそうだから、素人が適当に探しても意味はなさそうだが、こっちも言うなれば探し物の専門家ではある。何か見つけるかもしれない。


 ……そう勢い込んで、名探偵よろしく這いずり回ってみたものの、やはりそう都合良く発見があるわけもなかった。ただ、片付けは順調に進み、僕は散らばった本と紙片をすべて回収し、机の上に置いた。

 結局、落ちていた本は17冊あった。そのほとんどは表題の読めない本だったが、いくつか英語で書かれたものもあった。

 その中で特に目を惹いたのはプラトンの『ティマイオス』だった。この本は考古学に興味がある者なら誰でも知っているだろう。アトランティス大陸について言及された書物である。僕は子供の頃、ことあるごとにこの本を読書感想文の題材に選んでは、アトランティス大陸についての妄想を延々と書き綴ったものである。もちろん、読んでいたのは日本語訳版だったが。

 あとは、グノーシス派に影響を受けていると思しき、本格的にイッちゃってる怪しい魔術書が一冊と、さきほどちょっと話題に上っていたラヴクラフトの小説が数冊。この書斎の主はオカルト好きなのだろうか。

 紙片は、大きさも紙質も状態もまちまちで、上等そうな紙をきっちり何等分かに切ったものもあれば、ノートか何かを破ったものもある。共通していたのは、程度の差こそあれ、そのどれもが変色していたことと、あと、おそらく書いた人は1人だろうということ。ある紙片には、僕には読めないアルファベットと思しき羅列が雑な字で書かれており、ある紙片には偏執的に数字がびっしり書き込まれていたりしたが、そのどれもが羽ペンと思しき物を使って、青みがかったインクで書かれており、ぱっと見た感じでは、そのどれもが同じような筆跡をしていた。


「しっかし、なんか変なんだよね。この本棚のラインナップ」

 スマホをいじくりながら、長家が言った。

「英語の本の多くは辞書とかの実用的なものの他にはブレイクとかワーズワースとかが主流で、これらは本の傷みが激しいんだけど、スペイン語のやつは歴史書やキリスト教の外典的なやつとか、オカルトなものが多くて、痛みも少なめなんだわ。これってさ、どこかのタイミングでこの部屋の持ち主が変わったんじゃないの?」

 そう言われて僕は、本の傷み具合については気を払っていないことに気付いた。それで、自分の近くに積んでいた本の小口をざっと見ながら、言った。

「床に落ちてるものについては、ほとんど英語じゃないものだけど、英語で書かれているものの中には魔術書とかオカルト的なのもあったよ。けど、言われてみると、オカルト本は辞書とかよりも劣化が少ないね。紙質の問題かもしれないから簡単には言い切れないけど」

 そしてついでに、付け加えて言う。

「それと、紙に書かれた文字については、全部英語じゃない」

「ほう。どれどれ」

 長家は手を休めて、僕が机の上に積んでおいた紙束をいくつか手に取った。

「うーん。基本、スペイン語で書かれてるみたいだけど、字が汚い上に崩されすぎていて、ほとんど読めないねえ。綴りが変な単語があるし、もしかすると暗号化されてるのかもしれない。読めるやつは『やった!』とか『これじゃない』とか、読めたところで大して役に立たない心の叫びばかりだね」

 それから今度は、数字がびっしり書き込まれた紙を持ち上げる。

「うーん。私の知り合いに暗号の専門家がいるから、スマホで撮って送って意見を聞いてみたいね。梶原君に許可を取ってからの話になるけど」

「そういうことなら、梶原に連絡してみよう」

 僕はそう言ってスマホを取り出し、梶原に電話をかけてみた。一瞬、こんな山奥で通じるのかという疑問がよぎったが、あっさりと繋がった。梶原は是非意見を聞きたいと言った。そして、これからコンビニで昼飯を買って戻ろうと思っているが、リクエストはあるかと訊いてきた。

 長家はシーチキンと梅のおにぎりを所望した。僕は丼物、と言おうとしたが、ここに電子レンジがないことを思い出し、のり弁とかそんな感じのもの、と言っておいた。弁当なら温めなくてもそこそこ食えるだろう。

 通話を切り、ついでに時間を見る。ちょうどお昼時の12時だったが、梶原がここに戻るには少なくとも1時間半はかかるだろうから、昼飯は少し遅めになりそうである。

 長家は早速、机の上に紙片を並べて、スマホでひとつずつ撮影しては、写り具合を確認している。

「フロリダは深夜だから、たぶんすぐ返事が来ると思うよ」

 スマホをいじりながら、長家が言う。

「え、なに、その人夜行性なの?」

「それは知らないけど、いつメールしても、返信は深夜から明け方にしか来ない。日中ならツイッターの方が捕まえやすいね。なぜか知らないけど」

 それも変な話である。メールの確認はしないけど、ツイッターは確認するのだろうか。まあ、長家の知り合いの生態の謎は、いま解明すべき課題ではない。


 メールの返事と昼飯の到着を待つ間、長家は本棚の調査を続行することにした。長家は一冊ずつ抜き取っては、ざっとページをめくったりしている。今のところ他にすることもないので、僕もそれを手伝おうと重い、長家の作業している反対側の本棚の前まで行ったが、そこでふと、机に引き出しがあるんじゃないか、と思いついた。それで、椅子のある方に回り込んでみると、やはり、引き出しが左右2つずつある。さっそくそれらを開けてみることにした。

 まず、左右の下の段はカギがかかっていて開けることができなかった。右上段の引き出しは、すっかり中のインクが乾ききって使い物にならなくなっているインクつぼがいくつかと、万年筆、文鎮、ペーパーナイフ。左上段の引き出しには、変色した白紙の紙束が入っていた。どうやら例のメモ片のいくらかは、この紙を使ったものらしい。

 僕は紙束を取り出すと、机の上に置き、指先でそっと表面をなでてみた。確かシャーロック・ホームズだったと思うが、こういうものには筆跡が凹みとして残っていたりするとか言っていたことを思い出したのである。だが、残念ながら、紙は真っ平らだった。

 ついでに、紙束をぜんぶ繰ってみて、何か書かれている物がないか確かめてみたが、それも空振り。引き出しに戻した。


 そのとき、長家が何やら雄叫びをあげた。

「どうかしたの?」

 僕は最初、虫かなんかがいたんじゃないかと思ったのだが、そういうわけではなさそうだった。長家は一冊の本を手に、こっちにやってくる。

「来たよ、来た来た。ようやくソレっぽい展開がやって来たわけよ」

「まあまあ。わかった、わかったから、具体的な話をしてよ」

 僕はなんとか長家をなだめようとする。そのおかげかどうかはともかく、長家は少し落ち着きを取り戻すと、自慢げにその、手に持っていた本の背表紙を見せた。

「見てよこれ。ブリタニカ百科事典、第11版の19巻目!」

「貴重な本なの?」

「知らん」

 僕は思わずずっこけそうになった。いや、こんなところでコントをしてもしょうがないのだが。

 長家は僕のリアクションには構わず、話を続ける。

「問題は、同じ本が2冊あるってこと。まあ、間違って2冊買っちゃったなんてことは日常茶飯事だけど、何か違和感を覚えたわけよ」

「ああ、うん、それで?」

「そうたら、どうよ、これ」

 長家は本を開いた。一瞬、長家が何を見せたかったのか理解できなかったが、よく見ると、本の一部が小さくくり抜かれているのを、見つけた。穴のサイズはクレジットカードの半分くらいの小さいもので、適当にページをめくっただけでは、案外見落としてしまうかもしれないサイズだった。

 その発見は大した物だが、肝心なのは、そこに何があるかである。僕は穴を覗き込んでみる。しかし、そこには何も無かった。

 僕はもう一度、穴の中をじっくりと眺め回し、それから、長家の方を向いた。

「……で?」

 長家は満面の笑みを浮かべ、もったいぶりながら何かを差し出した。受け取ってみると、それは小さなカギだった。家のカギにしては小さくて簡素すぎる。

「……机の引き出しかな?」

 僕はさきほど開けられなかった机の引き出しにあるカギ穴に、そのカギを差し込んでみた。ひねってみると、中で引っかかってうまく回らない。変に力を入れるとカギを壊してしまうかもしれず、あまり強引にやりたくない。

「たぶんここのカギなのは間違いないけど、油か何か挿さないとダメかも」

「ああ、油は止めといた方がいいよ。かえってとどめを刺すことがある」

「そうなの?」

「ちょい貸して」

 言われるまま、僕は長家にカギを渡す。すると、長家はカギに鉛筆を使い、芯を塗り込むようにしはじめた。

「え、そんなのでうまくいくの?」

 僕は驚きの声をあげた。

「応急処置だけどね。うまくいけばラッキー、くらいに思っといて」

 長家は、カギに鉛筆の芯を塗ってはカギ穴に挿して様子をみる、といった作業を何回か繰り返した。果たして、何度目かの挑戦の後、カギはきちんと回り、ロックが外れる音がした。

「おお、すごい」

「じゃ、私はもうひとつの方を開けるから、そっちの中身を確認しといて」

「わかった」

 僕はそう言うと、長家と場所を入れ替わり、引き出しを開けた。……しかし長家って、せっかくカギを見つけて、苦労して開けた引き出しの中身を真っ先に見たいと思わないのだろうか。

 引き出しの中には書類らしき紙束と、缶箱が入っていた。缶箱を開けると、何枚かの証券らしきものが入っていた。当時としては貴重品だったかもしれないが、今となっては無効だろう。

 書類の方も、当時の事務的な内容のものばかり。歴史的には興味深いかもしれないが、教授の失踪とは関係なさそうである。

 そのうち、隣の引き出しも開いたらしくて、ロックの外れる音がした。

「うわ。こっちは何も入ってないわ。超骨折り損」

 長家の声に、僕はそっちの引き出しを覗き込んでみる。本当に何も入っていなかった。

「そっちはどうだったの?」

「こっちは書類と、缶の中に証券が入ってたよ。どうかな。何か役に立つ?」

 僕は長家に場所を開けた。長家は書類を取り出して、一枚ずつ確かめる。

 全部確認し終えたところで、長家はひと息つき、それから、引き出しに書類を全て戻した。

「大した役には立たないけど、わかることもあるね」

「何?」

「ひとつは、この書類の日付が1912年から29年のものだということ。ここからこの家の持ち主が住んでいた時期がわかるんじゃないかな。もうひとつは署名」

「ああ、フィル・アダムスだったっけ?」

「名前は名前で役に立つかもだけど、今は筆跡の方が重要かな。私は筆跡鑑定の専門家じゃないけど、部屋に散らばっていたメモ書きとは明らかに筆跡が違っていたと思うよ」

「ああ、なるほど」

 となると、途中で家の主人が変わったという、長家の説を支持する材料にはなりそうである。

 と、そのとき、玄関の扉が開く音がした。つづいて、階段のきしむ音。

「帰ってきたか。じゃ、ひとまず休憩するかね」

 そう言って僕は立ち上がった。長家も、鉛筆やメモ帳をしまい込むなどして、仕事の切り上げの準備にかかる。

 そうするうち、書斎の扉が開いた。

「いや、長いこと外して済まなかったね。とりあえず下で昼飯にしよう」

 梶原が、コンビニの袋を持ち上げて見せながら言った。



 僕らは応接間の窓際に座り込んで、コンビニ弁当やペットボトルのお茶を広げた。よく考えたら食堂のテーブルを使う手もあったが、誰もそうした提案をする者はなく、当然のようにみんなしてここに来て座り込んでしまった。

「まず、こっちでわかったことを報告しておくよ」

 サンドイッチを片手に、梶原が言った。

「この館は1912年に、イギリスの貿易商、フィリップ・アダムスという人の家として建てられたものらしい。登記上の名前はアダムス邸で、この時点では鹿翁館なんて呼び方はされていない。アダムス氏は1930年まで日本にいたけど、その後帰国して、ここは空き家になった」

 と、ここで梶原はサンドイッチをかじり、紙パックの牛乳に口を付ける。

「その後、この館がどうなったかという公式記録はない。どうも、戦争が始まってごたごたしている内に存在を忘れられちまったらしいな。ただ、ちょっと面白い記事を学生が見つけてくれたよ。1940年に発行された地元の超ローカル紙に、この山に鹿の霊が現れたという記事が載ってるんだ」

「鹿の霊?」

「ああ。山に芝刈りに来たおっさんが、森の中で自分を呼ぶような声がして、行ってみると霧が出てきて、白くてでかい雄鹿に出会ったらしい。おっさんは山から逃げ出して無事だったそうで、取材を受けた専門家は、それをウェンディゴだと断定したそうな」

 長家が言った。

「ウェンディゴって、カナダの精霊じゃなかった?」

 梶原は頷き、それから補足した。

「クトゥルフ神話にも出てくるよ。カナダやアメリカの先住民に伝わるウェンディゴと、クトゥルフのやつは大きく性格が異なるけどね」

 長家は渋い顔をする。

「クトゥルフというのは? どこの神話なの?」

「そうか。ラヴクラフトを読んだことがないんだっけ? 昔から伝わる神話じゃなくて、『指輪物語』みたいに近現代になって小説が基になって作られたタイプの神話だよ。ラヴクラフトという人の小説が基になって作られたんだ」

「ふーん」

「まあともかく。これが直接この館と関係あるかわからないけど、もしかするとこうした話から、この館が鹿翁館と呼ばれるようになったのかもね」

 僕はなるほどと頷いた。だが、そうしておきながら、何か引っかかるものを感じた。

「それで、そっちの方はどうだった? 床がきれいになったのはわかったけど」

 僕はのり弁を食べながら、書斎での調査結果についてざっと説明した。僕らの調査は、数時間の作業のわりには順調に進んだかもしれないが、肝心の教授の失踪の手掛かりという点では皆無だった。このアプローチで本当に何か発見できるかは怪しくなりつつある。

 しかし、僕の報告を聞いた梶原は、特に失望した様子もなく、熱心に聞いていた。梶原は言った。

「今日の午前だけでも結構な進展があったな。長家の知り合いからの返事によっては、決定的なことがわかるかもな」

 なかなかポジティブな発言である。しかし、このくらい楽観的でないと、歴史研究なんてやってられないとも言える。


 その時、食堂で物音がした。何かが床に落ちたような音。三人は、各々飯を食う手を止めて、お互いの顔を見合う。

 そして、誰ともなく立ち上がり、応接間から食堂へ通じる扉へと向かう。

 座っていた位置の関係から、自然と僕が先頭になり、僕がノブをひねって扉を開ける。

 そして、入り口からざっと見回してみたが、特に何か異常があるようでもなかった。窓は閉まったままだし、テーブルや椅子、燭台なども、前に見たとおりに見える。

 と、僕が入り口の前に突っ立っていて二人の邪魔になっているのに気付き、数歩、食堂内へ入った。二人も中へと入り、周囲を見回す。

 書斎で本でも倒れたのを聞き間違えたのかな? と思い始めたとき、僕はようやく物音の正体に気付いた。僕は暖炉の方を指さして言った。

「ああ、あれか」

 そして、暖炉に近づく。その時には二人とも、原因に気付いたようで、僕に付いてきた。

 暖炉の下には、木製の鹿の仮面が転がっていた。その付近にはよく見ると、錆びて途中で折れた釘と、紐が落ちている。どうやらこの仮面は、釘と紐を使って壁に掛けられていたが、ついに限界を迎えたらしい。

 僕は仮面を手に取り、いろんな角度から鹿の厳めしい面を確認してみた。どうやら落ちた際に割れたり、傷付いたり、といったことはなかったらしい。

「どうする? これ」

 僕が尋ねる。梶原はしばらく唸った後、言った。

「まあ、その辺のテーブルに置いといてくれ」

 僕は言われたとおり、仮面をテーブルに置こうとした。

 と、その時、鹿の目が光ったような気がした。僕は思わず仮面を取り落としてしまった。仮面は再び、床に転がる。

「おいおい。大事に扱ってくれよ。貴重品かどうかはわからんけどさ」

 梶原は努めて冗談めいた声で言った。

 僕は再び、仮面を拾い上げながら弁解する。

「いや、悪い。いやなんというか、鹿の目が光った気がしてさ」

 そう言うと笑われるかと思ったが、意外にも笑い声は全くあがらなかった。代わりに梶原が言った。

「変な錯覚を見ることもあるさ」

 そう言われて、ふと、僕は、さっきのが本当に錯覚だったのか、それとも本当に何かが光ったのかを確かめる必要があるような気がした。それで思い切って、鹿の瞳を直視してみることにする。

 するとやはり、鹿の右目が光った。

「あれ、ちょっと待ってくれよ」

 僕はそう言いながら、二人の間を避けて、窓際の方へと早足で向かった。遅れて二人も付いてくる。

「おいおい、どうした、道村」

 梶原の問いに答えるのも煩わしい。僕は窓際の、日の当たるところに来ると、日光の中に仮面をかざし、鹿の右目を見た。

 鹿の右目にはなにやら、レンズのようなものが嵌まっていた。眼鏡のようなものではなく、カメラや顕微鏡のようなやつだ。

「二人とも、鹿の右目を見てくれ」

 僕はそう言って、二人に見えやすいように鹿の仮面をかざして見せた。二人はそれぞれに驚きの声をあげた。

「なんだこりゃ。仮面の片目になんでこんなものが嵌まってるんだ?」

 梶原は素直に感想を口にした。一方、長家は少し考えるようにして、それから、恐る恐る、といった感じで口を開いた。

「あの、それって、仮面を付けたとき、レンズ越しに何か見える仕組みになって……るんじゃ……」

 言い澱んだ理由はよくわかる。僕だってこのレンズを見た瞬間、それは思いついた。問題は、こんな不気味なものを、誰が付けるか、ということだ。

 三人は鹿の面を見ながら、しばらく沈黙した。

「……中に針が仕込まれていて、頭に刺さって死んだり……しないよな」

 梶原が言う。僕は仮面を裏返して、一応確認しながら、言った。

「あれって確かアステカの遺物じゃなかったか? これはどう見ても日本製だろ。その点は心配ないと思うが……ウェンディゴってのはヤバいのか?」

「人を惑わすだけで実害はないとする説もあるし、ウェンディゴに取り憑かれると人肉を欲するようになるという話もある」

「じゃあ、吸血鬼になるのと大差ないじゃんかさ……うん。見た感じ、レンズ以外に仕掛けらしい仕掛けはない」

「そうか。それは良かったが……どうするかな」

 おそらく三人とも、迷信の類いを信じてはいないはずだった。しかし、この手の歴史的研究には、死者の呪いだのなんだのという話はつきものである。呪いで死んだとされる考古学者は大勢いる。それに、現に三人の恩師はこの館で失踪しているのである。となると、どうしても心情的に、こんな不気味な仮面を付けて大丈夫なのか、ということは、考えずにはいられなかった。

 だが、いくら考えても始まらないのも事実である。

「よし、じゃあ僕が付けよう」

 言ってからすごく後悔したが、もう遅い。二人は心配気にこちらを見ながらも、頷いた。

 梶原が言った。

「わかった。何も無いとは思うが、万一何かあったら、即座に救出する」

「もし吸血鬼になるようだったら……いや、その場合は大丈夫か。すでに日光が当たっているし」

 そう言って僕は笑ったが、笑ったと言うよりは引きつっただけな感じになってしまった。


 僕は一応、吸血鬼対策として日光の良く当たる窓際に、窓側を向いて立つと、深呼吸して、それからゆっくりと仮面を付け……ようとした。

 ……眼鏡が邪魔で付けにくい。

 僕は眼鏡を外して胸ポケットに収めると、再び仮面を付けてみた。

「……どうだ?」

 梶原が問う。……しかし、なんとも答えようがなかった。

 僕は仮面を付けたまま、食堂の中をゆっくりと歩き、周囲を見回してみる。

 黙っていて二人を心配させるのもなんなので、とにかく喋ってみる。

「まず、今のところ何かに取り憑かれたりした感じはないし、仮面が外れなくなったということもない。呪い的な症状はないよ。ただ、特に何もない。レンズ越しの風景は少し拡大されて、若干歪んで見えるけど、それだけだ」

 だが、ふと、暖炉の上の、この仮面が掛かっていた場所を見上げたとき、変化があった。

「おっ」

「どうした?」

「そこの、この仮面が掛かっていたところ」

 僕が指さすと、二人ともそちらを見る。

「そこに、レンズ越しだと何か見える。白い線で仮面のあたりを囲っている」

「ほう。それで? 他には何か見えるか?」

「えーと……」

 僕はもっと近づいてみた。すると、白線の囲いの中に、何か文字が見えた。

「何か書かれているよ。えー、V、I、E、J、O……C、I……」

「Viejo Ciervo。老いた鹿って意味」

 長家が言った。

「ちょっ、ちょっと待てよ。じゃあ、その仮面を使って館内を見て回ったら……」

 興奮気味に梶原が言い出したその時、やけに古めかしい、ベルの呼び出し音が食堂に響き渡った。

「あっ、例の専門家からだよ」

 長家はそう言ってスマホを取り出し、通話を始める。さすがにあっちに住んでいるだけあって、流暢な英語だった。

「隣に行こう」

 梶原は小声で言い、僕は頷いた。そして、二人でそっと応接間に戻った。


 応接間に戻ると、僕たちは昼飯の残りに手を付けるのも時間が惜しいとばかりに、立ったまま今後の相談を始めた。

「さっきも言いかけたけど、とりあえずその仮面を付けて、館中を一度確認した方がいいと思う。他にも何かメッセージなりがあるんじゃないか?」

 梶原の提案に、僕は頷いた。

「もちろんそうすべきだと思う。ただ、ひとつ問題がある」

「なんだ?」

 僕は、胸ポケットから眼鏡を取り出して、かけ直した。

「これだよ。眼鏡を掛けたまま仮面を付けるわけにはいかないし、裸眼で仮面を掛けると見えにくい。さっきの文字も、僕が近視かつ乱視じゃなかったら、もっと遠くからでも読めたはずなんだ。だから……」

「わかった。仮面は俺がつけるよ」

「いや、本人が嫌がらなければだが、長家さんがつけた方がいいと思う」

「なぜ?」

「さっきのでわかったろ? 仮面越しに見えるメッセージはスペイン語で書かれていたっぽいじゃないか。僕らには読めないじゃん」

「なるほど。じゃあ、一応掛け合ってみよう。もちろん嫌がるようだったら……」

「ああ、無理強いはしないさ」

 僕はそう言ったが、たぶん長家は何の躊躇もなく仮面を付けるだろうとも思っていた。


 ほどなくして、長家も応接間に戻ってきた。長家は入ってくるなり、言った。

「まだあのメモの内容が完全に解明されたわけじゃないけど、わかったことはいくつかあったよ」

 そう言いながら、長家はスマホの画面を見せた。例のメモを撮った画像が表示されている。数字がびっしり書かれているやつだ。

「暗号の専門家にこれらのメモを見せて意見を求めたんだけど、これは暗号ではなく、数秘術の一種なんだってさ。ゲマトリアを用いて、六芒星数について計算しているらしい。数秘術とかゲマトリアとかの説明は必要?」

 僕と梶原は首を横に振った。数秘術は、文字を数字に置き換えて、数字に何らかの意味を付加しようとする試みの一種で、占いや、聖書の解読でよく使われる。666が悪魔の数字とか言われたりするのがこれ。ゲマトリアはヘブライ文字による数字の表記法で、ゲマトリアを用いた数秘術は聖書解読の定番である。要するにオカルトの極みと言える。

「細かい話は省くとして、このメモで何を計算しているかというと、六芒星のそれぞれの頂点に対応させる数字を決めようとしているんだってさ。6つの数字を合計するだかなんだかしたときに、888になる数字の組み合わせを作りたがっているとか。888というのはイエス・キリストを指す数字だとされるけど、復活を意味する数字でもあって、おそらくこの筆者は重い病気か何かで、数秘術を用いて永遠の命か何かを求めようとしたんじゃないか、とのこと」

「しかし、そうだとしたら、この館にもっとオカルティックな雰囲気があるべきじゃないかと思うんだけどな」

 梶原が納得のいかない表情で言った。

「それは私も思うけど、その点は鹿の仮面が教えてくれるかもね」

 長家は、僕の手にある鹿の仮面を見た。

「あ、そうそう。この仮面なんだけど……」

 僕が言いかけると、長家は手を差し出していった。

「私が付けろってことでしょ。いいよ」

「いいの?」

 僕は、仮面を差し出しながらも、念のため訊いた。長家はそれを受け取って、表、裏とひっくり返して眺めながら、言った。

「まあ、私が付けるのが一番手っ取り早そうだしね。ただ、吸血鬼になりそうだったらさっさと退治してね」

 吸血鬼のくだりはもちろん冗談だろうが、あまりに普通に言ったので、本気なんじゃないかと心配になってしまいそうになる。

 仮面を調べ終えると、長家は仮面を付け、辺りを見回した。しばらくそうやってきょろきょろしていたが、やがて、仮面を外して、言った。

「ここには何も無いね。やっぱり書斎が一番怪しいと思うから、とりあえず、それを片付けたら行ってみようか」

 長家が目線で指したのは、食べかけの昼食だった。



 昼飯の後、僕たちは再び、書斎にやってきた。

 ここに来るまでに一応、長家が仮面を付けてホールや廊下、二階の部屋もチェックしたが、食堂のような仕掛けは見つからなかった。やはりこの館の謎は、書斎に集中しているらしい。

 僕が床を掃除したおかげで、雑然とした感じはなくなったものの、やはりどうも、この部屋は不気味である。

 長家は一呼吸置くと、意を決して仮面を付けた。そして、周囲を見回す。その間、僕は仮面を見ていた。長家に何かあるとは思っていなかったが、それでもなんとなく、目を離すべきではない気がしたのだ。ちらっと横目で見ると、梶原も難しそうな顔をしつつ長家を見ていた。

 部屋の真ん中、机のそばから部屋中を見回していた長家は、今度は本棚の回りをゆっくりと歩きながら、本棚を調べ始める。僕と梶原はその場に残り、視線だけ長家を追う。

「今のところ、何も見つかっていない」

 本棚を半分ほど見終えたところで、長家が言った。そして、残りの半分を歩き終えても、結局何も見つからなかったようである。

 長家はその場で一旦仮面を外して、しばらく考え込んでいた。僕らも黙ってそれを見ている。やがて、何か思いついたらしくて、僕らの方に寄ってきた。

 いや、用があったのは僕らじゃなくて、机だったらしい。長家は仮面を付けると、机の表面をじっと見る。置かれてある本やメモ片を避けてたりもしたが、空振りだったらしい。

 すると今度は、引き出しを開けて、中のものを出し始めた。

「なるほど。引き出しの中に謎のメッセージが隠されてるってのは、あるかもしれないな」

 僕は呟いた。

 だが、それも成果なしだった。長家は床に寝転がるようにして、引き出しや机の天井まで確認していたが、それでも何もなかったようである。長家は仮面を外すと机の上に置き、引き出しを元通りにすると、服の埃を払うようにしながら、ため息をついた。

 そして、言った。

「ここまで来て、何もないってこと、ある?」

「まあ、調査が空振りに終わるのは考古学者の宿命とも言えるけどな」

 梶原は乾いた笑いを含んで言った。

 長家は納得がいかない様子で、椅子に飛び込むようにして座る。そして、深刻そうに考え込みながら、言った。

「この椅子、すんごい座り心地いい。持って帰りたいくらい」

「え、そうなの? 座ったことない」

 梶原が食いついた。長家は椅子から立ち上がり、梶原に勧める。

 梶原は勧められるまま椅子に座ると、背もたれに身体を預け、座席を左右に振った。

「おお、こりゃいいね。事務机の椅子なんて安物でいいやと思ってたけど、こういうのっていくらするのかね。むしろ作ってるところがあるのかな?」

「さあね。手頃な値段であるなら、私も仕事場に導入したいね」

 長家が言った。

 梶原はその椅子がよほど気に入ったと見えて、背もたれに身体を預けた姿勢のまま、ぼーっと天井を見上げた。

 そして、ふと、言った。

「天井は見た?」

「見たよ。特に何も無かったけど」

 長家が即答する。

 梶原はなおも天井を見上げ続けていたが、ふと、身体を起こして、机の上の仮面を手に取った。そして、付けてみて、また天井を見上げる。

「おお。このレンズ、そもそも変な映り方するんだね。光がプリズム分光されてるっていうか。というかプリズム分光って正しい言い方なの? なんか変?」

「いや、知らない」

「知らん」

 僕と長家が同時に言う。

 梶原はしばらくそうやって、仮面越しに天井を眺めていたが、我に返ったのか、身体を起こした。

「おおおっ?」

 そして、なにやら声をあげる。

「どうした?」

 僕が聞くが、梶原はすぐに答えなかった。ただ、仮面越しに入り口の辺りをじっと見ている。

 それから無言で仮面を外すと、長家にそれを差し出した。長家がそれを受け取る、梶原は席を立って言う。

「座って、ドアの上の辺りを見てくれ」

 長家は言われたとおり、椅子に座ると、仮面を付け、ドアの辺りを見てみた。

「……ドアの上辺りに白い囲みが見えるね。遠目だからわかりにくいけど、たぶん食堂と同じように、老いた鹿と書かれている」

 僕と梶原は、入り口の扉の側まで寄って、間近で問題の箇所を見上げた。すると、そこには何かを掛けるフックのようなものがあった。

「何か掛けるようなものがある。鹿の仮面を掛けるのかな」

 梶原が長家に向かって言った。

 長家は席を立つと、仮面を外してこちらにやってきた。そして、問題のフックを見上げながら、言った。

「紐か何かある? このままじゃ引っかけられないけど」

「あ、さっきその仮面と一緒に拾ったのがある」

 僕はそう言うと、胸ポケットから紐を取り出した。変色しているが、ほつれているわけでもないから、一応使えるだろう。

 長家は紐を受け取ると、仮面にある2つの穴に紐を通してくくった。そしてそれを、梶原に差し出す。身長的な理由で、僕や長家ではフックまで手が届かないから、この行動は的確だと言える。

 梶原は仮面を受け取ると、フックに仮面を掛けた。

「さて、どうなる?」

 梶原が呟く。

 ……だが、仮面を掛けてしばらく待っても、特に何も変化は起きなかった。僕らは仮面の側を離れ、それぞれ思い思いのところに行って見回してみたが、やはり何もない。

「……どういうこと?」

 梶原が言った。

「ここまで思わせぶりにやっといて、何もありませんでしたはなくない?」

「仕掛けが壊れていたりして」

 長家が言った。……机のカギ穴のことを考えると、それはあり得る気がする。だが、梶原はあの時いなかったからか、納得がいかなかったらしい。

「そんな馬鹿な。いくらボロ屋敷だからって、そんなのありかよ!」

 梶原の心の叫びが、虚しく響く。


 と、その時。梶原の魂の声に呼応したのか、それとも単なる偶然か、何かが動く音がした。そして、カギが外れたときのような乾いた音が書斎に響く。

「お?」

 梶原が忙しく首を振って辺りを見る。

 だが、それから数秒間は、それ以上何も起きなかった。結局思わせぶりなだけで何もないのか? と僕が思い始めたとき、再び何かが動く音が聞こえた。部屋の入り口から向かって左の壁だ。

 見ると、本棚の一部が壁の中へと引っ込んでいく。そして、ある一定のところまで来ると、今度は横にスライドした。

 僕の位置からは、本棚がどいた奥に何があるのかは見えなかったが、少なくともそこから、自然光が漏れているのはわかった。

「おお、すげえ、隠し部屋だ!」

 梶原が叫んだ。そして、真っ先にその奥へと入っていく。

 しばらくして長家が、それに続いて僕もそこへと入っていった。


 その隠し部屋は、ひとつの部屋を本棚で仕切ることによって作られたものだった。書斎よりは縦長で狭いものの、窓が2箇所もあって、息詰まるような書斎よりも開放的だった。隠し部屋のくせに。また、ふたつの窓は開け放たれていて、山の心地良い風が入ってきていた。ただし、その窓は長年開け放たれていたらしく、その間に風雨にさらされていたため、窓枠は腐ってカビが生え、その下の絨毯にも染みとカビが生えている。あまり近づきたくはない。

 ただ、それよりも重要なのは、床の絨毯に散らばっているものだろう。床には鷹の羽根のようなものと、獣の毛のようなものが散乱している。そして、例のオカルト的な計算をしたメモ片。あとは、何かの木片も。とにかくいろんなものが散らばっている。

「あっ、これは……」

 梶原が何かに気付き、床から拾い上げた。どうやら手帳らしい。

 手帳をぱらぱらと繰って、梶原は言った。

「これはラザロ教授の手帳だ」

 それを聞いて、長家が独り言のように言った。

「つまり、教授はこの中に入ったわけか……」

 梶原が手帳を調べている間、僕は床をもう少しよく観察してみることにした。

 しかし、それにしても汚い。書斎の方は、まあ、本や紙片を拾うだけでもなんとかなったが、ここは毛やらなんやらが絨毯に絡まっていてどうにもならない。掃除機が必要なレベルである。

 長家は獣毛を掴んで窓からの明かりに照らしながら、言った。

「何かここで飼ってたのかね? 変な話だけど」

「これだけ広い庭があるんだから、何を飼うにせよ、屋外で飼えばいい気はするけどね」

 と、そのとき、僕は、メモ片のひとつが絨毯の端に挟まっているのに気付いた。カビカビの絨毯を触るのは気が引けたが、めくれるのかどうか、試してる価値はありそうである。

 僕が部屋の角に行き、絨毯に手を掛けるのを見て、長家は僕がやろうとしていることを察したらしい。反対側の角に行って、こちらに合わせながら絨毯をめくってくれた。梶原は手帳から目を離さなかったが、邪魔にならないところへと退避してはくれた。


 その結果は、なかなかに衝撃的だった。絨毯の下から出てきたのは、床に直接、何やら赤黒いもので描かれた魔法陣だった。単純に円を描いて星を描いているだけのものではなく、相当精緻に細かい意匠が施されている。これを描いた奴の本気度が窺える。

 それぞれの頂点には蝋の垂れた跡があり、床にはところどころ焦げた痕が見られることから、ここで実際に儀式が行われたらしい。

 僕と長家は黙りこくって、しばし魔法陣を見下ろしていた。その間、梶原はさすがに魔法陣をチラ見したときは驚いた様子を見せていたが、すぐに教授の手帳を調べる作業へと戻っていた。

「まあ、これで、メモ片の謎は解けたかもね」

 やがて、長家が素っ気なく言った。呆れているのか、圧倒されているのか、心情までは読み取れなかった。

「とはいえ、肝心なことはわかってないよな。教授はこの隠し部屋に入って、それから結局どうしたんだろう」

「その点はわからないが、ある程度、教授の行動について、わかったことがある」

 手帳に目を落としたまま、梶原が言った。僕らは梶原に注目する。

「まず、教授は、当初はこの館を、できれば保存する方向で進めたいと考えていたようだ。館までの道を整備して、記念館にするとか、旅館にするとか、そうした案についていろいろ書いている。その考えが変わってきたのは、例の食堂に飾ってある仮面を調べてからのようだ。あれの出自についていくつかの機関に鑑定を依頼したものの、芳しい返事が返ってこなかったらしいんだが、オカルトに詳しい知人にたまたま見せたところ、それが悪魔崇拝的な代物だということを知ったらしい。そして書斎を調べていくうち、ある本の一冊からメモ片が出てきて、それが例の、秘数術のものだった」

「いやまて。てことは、あのメモ片はもともと書斎には散らばってなかったってことか?」

 僕は思わず口を挟んだ。

「ああ、そうらしいな。……すまんな。そんな気はしてたんだが、確証がなくて言いそびれてた」

 あれだけ部屋に散らばっていたメモ片が、以前からあったかどうかすらうろ覚えだったとは、梶原は探偵には向かないようである。まあ、今となってはどうでもいいことか。

 梶原は続けた。

「教授は、あの館には後ろ暗い秘密があるのかどうかを確認する必要があると考えた。もし、悪魔的な何かがあるなら、もちろん保存なんてもっての他だし、誰にも知られないうちに取り壊してしまおうと考えたようだ。で、どうやら、一人でこっそり書斎を調べる必要が出てきたわけだな」

「なるほど。それで教授の動機はわかった。ただ、結局、なぜ消えてしまったかはわからないな」

 僕は言った。それをきっかけに、三人とも黙りこくってしまう。僕と長家は魔法陣を見下ろし、梶原はメモ帳を呆然と見つめる。

 その時、ふと、僕は思い付きを口にした。

「ところでここって、仮面を持ち込めるのかな」

「え?」

 梶原が聞き返す。

「いや、ここって仮面を掛けたら入れるんでしょ」

「ああ」

「あれを外して、この部屋に持ってこれるのかなって。下手したら閉じ込められる?」

「うーん。外からしか開け閉めできない隠し部屋って、何にしても危なくないか? たぶんあるんじゃないの、中から開け閉めできる仕組みが」

 梶原はそう言うと、書斎から言うところの本棚の裏側にあたる壁を調べ始めた。長家もそれに倣って、先ほど動いた本棚や、その下を調べる。

「ああ、ロック機構みたいなのがあるよ。これを押したら動きが止まるんじゃないかな」

 長家が動いた本棚の足下を指さす。見ると確かに、足で踏むタイプの、車輪止めのようなレバーだかボタンだか、そういうようなものが付いていた。

「じゃあ、試しにそれをセットしてみて。それで、梶原は仮面を外してみてくれ。あ、もちろんみんな書斎に戻っといてね。閉じ込められると良くない」

 二人は言われたとおりにした。長家はロックらしきものをセットして書斎に戻り、長家と僕が書斎にいるのを確かめてから、梶原は仮面をフックから外した。

 しばらく待ってみたが、何も起きない。どうやらロックは成功したようである。

「それで、どうするんだ?」

 梶原が僕に聞く。答えたのは長家だった。

「もちろん、仮面越しに隠し部屋をチェックするんでしょ」

 そう言って、梶原の手から仮面を取り、仮面を付けて隠し部屋へと戻っていく。

 長家は隠し部屋を床から天井まで隅々までじっくりと確認し、それから、魔法陣も角度を変えて何度も見ていた。それから、仮面を外してため息をついた。

「残念。何もない」

 そう言って、僕に仮面を手渡した。

 僕はたぶん、不思議そうな顔をしたのだと思う。長家が言った。

「さっきも私は見落としがあったから、ダブルチェックするに越したことはないでしょ」

 なるほどと重い、僕は眼鏡を外して、仮面を付けてみる。そして、魔法陣や、毛や羽が散らばる床や、窓など、気になっていたところを中心に見てみる。

「確かに何もなさそうだな。……なんかあっても良さそうなもんだと思ったんだが」

「発想は悪くなかったよね」

 僕は梶原にもチェックしてもらおうと思い、梶原を探した。だが、隠し部屋には居なかった。まだ書斎にいるらしい。

 書斎に戻ると、梶原は教授の手帳を繰っていた。

「どうだ、梶原、お前もチェックするか?」

「ん? いや、いいよ。お前らが見て何もないというなら、それを信用するさ」

 梶原は気のない返事をした。

「なんだ。……手帳にまだ、何か気になることがあるのか?」

「いや、今のところ何もないんだけど、何かあるんじゃないかと思えてなあ」

「ふうん」

 僕は何気に手を差し出していた。梶原も、なんとなく僕に手帳を差し出す。

 僕は手帳をざっとめくって、最後に書かれたページを探した。れをやりながら、仮面を付けていたことに気付く。眼鏡がないから、文字がよく見えない。

 ……と、そのとき、メモ帳の空白に、何やら白いものが浮かび上がっているのに気付いた。

 僕は驚きの声をあげ、手帳を梶原に押しつけた。

「どうした?」

 梶原が尋ねる。僕の声を聞きつけて、長家も書斎にやってきた。

 僕は急いで仮面を外すと、長家にそれを渡した。

「仮面越しに見たら、手帳に何か書いているかもしれない」

「わかった」

 長家は仮面を付けると、梶原から手帳を受け取った。そして、ページを繰っていく。そして、何も書かれてない空白のページで手が止まった。

「ああ、確かに。何か書いてある」

 僕と梶原は黙って、そのページを見つめる。もちろん、何も見えない。

「殴り書きされてるけど、これは……ラテン語かな?」

 長家は仮面を外し、それを手帳を僕に手渡した。そして、空いた手でスマホを取り出し、素早く検索を始める。

「ああ、やっぱりラテン語だ。庭の岩って書いてある」

「庭の岩……裏庭のアレか」

 梶原がぼそりと言った。



 僕らはキッチンの勝手口から、裏庭へとやってきた。先ほど来たときより日は高いところにあったが、この時間帯における地上の灼熱地獄っぷりを考えると、ここはずっと過ごしやすい。アダムス氏とやらがここに家を建てたのも、実はこんなところが理由なのかもしれない、などと、僕はふと思った。

「さて、裏庭にやってきたものの……どうする?」

 梶原が裏庭を見渡しながら言った。その意味はわかる。この庭には無造作に置かれた岩が6つある。このうち、どれが正解なのか、ということだろう。

「そりゃもちろん、鹿の翁に聞くべきじゃないの? あ、こいつ悪魔なんだっけ? 山羊ならわかるけど、鹿の悪魔ってのもどうなんだか」

 長家はなにやらぶつぶつ言いながら、仮面を付けた。

「あー、ここからじゃわからん。とりあえずいっこずつ確認しよう」

 そう言って、仮面を付けたまま庭を歩き出した。僕らも付いていく。

 一つ目、二つ目は空振りだった。三つ目は唯一木の下にあるやつで、見た目からすると本命っぽかったが、これもダメ。

「ああ、これだ」

 長家の反応があったのは四つ目だった。それは平べったくて大きい岩で、三人がかりでもとても動かせそうにない岩だった。これの裏に何かあるということなら、どうにもならない。

「矢印が書いてあって、21とある。この場合の21ってのは何かな。メートルじゃないだろうけど」

 長家は、僕らには見えない矢印が指している方角なのだろう、北北西に腕を伸ばしながら言った。

「こういう場合は、だいたい歩数なんじゃないの?」

 梶原が言う。僕は長家に尋ねた。

「旧約聖書の時代には、どういう単位を使ってたの?」

「えーと、まあ、調べた方が早いか」

 長家はスマホを取り出して調べる。

「キュビットだってさ。1キュビット0.444メートル。てことは、21かける0.4で……9メートルってとこ?」

「しかし残念なことに、我々にはいま、メートルで正確に測量する方法がないのだよ。結局、歩幅で行くしかないと思わないかい? どうせ1キュビットって、だいたい1歩に近いしさ」

 梶原は芝居がかった調子で言う。その態度は気に入らないが、言っていることには一理あった。

 結局、長家が矢印の方角に向かって、少し飛び跳ねるような形で21歩進んでみることになった。そこは、荒れ果てた芝生のど真ん中だった。特に何の変哲もないが、誤差のことも考えて、その前後を三人で調べてみる。長家は仮面を付けて探した。

 僕はその周囲の枯れた芝生を、靴の裏で擦っていた。たいがいはそうしたところで何の変化もなかったが、あるとき唐突に、明らかに人工的な、直線の割れ目が芝生に走っているのを見つけた。

「たぶんここだ」

 僕が声を掛けると、二人とも集まってきた。そして、三人がかりでその周辺の枯れ草や土をどけてみる。

 現れたのは、だいたい一辺2キュビットくらいの正方形の切れ目だった。見るからに地下室だか地下通路だか、あるいは排水溝か何かへの入り口の蓋に見えるが、それにしても大きい。

「どうやって開ける? さっきみたいに仮面を置いたら自動で開いたりしないかね?」

 長家は一応、鹿の仮面を通して蓋の周辺を見たが、何も無かったらしい。仮面を外して、言った。

「そこの物置にスコップがなかった? あれを使うしかないかもね」

 他に案もないので、僕が物置まで行って、スコップを取りに行くことにした。スコップは錆び付いているが、まあ、使えないこともないだろう。2つあったので、2つとも持っていき、1つは梶原に渡す。そして、お互い、平行となる辺にの隙間にスコップを差し入れると、同時に持ち上げようとしてみる。

 何回目かの挑戦で、蓋は開いた。中は真っ暗でよく見えないが、奥へと降りるためのはしごが見えた。

「懐中電灯か何か欲しいな」

 中を覗き込みながら、僕が言う。すると、呆れたような声で梶原が言った。

「はあ? 持ってるだろ」

「持ってるのか? 用意がいいな」

 僕は穴から目を離し、梶原を見上げた。

 すると、梶原は無言で、自分のスマホを取り出し、突きつけた。

「ボケてるんじゃないよ。スマホは人類史上類を見ない超高級懐中電灯だろうが。ついでに通話や撮影も出来るぞ」

 僕は2秒ほど、突きつけられた梶原のスマホを見つめていた。が、やがて、言われたことを理解し、おおと声をあげた。

「そうか。写真撮影の時のストロボがライトになるのか。そりゃ便利だな」

「マジかよこいつ。本当に現代人かよ」

 いや、真面目な話、スマホが懐中電灯になるなんて、今まで一度も考えたことがなかった。

 僕は早速自分のスマホを取り出すと、懐中電灯モードをオンにして、穴の中にかざしてみた。穴の中はコンクリートか何かできっちり塗り固められていて、丈夫そうな造りだった。穴の底は、目測で5メートルほど。スマホのライトなんてそんなに役に立つのか疑問だったが、意外と明るく照らせるもんである。ただ、光の直進性が強いので、広い範囲は照らせない。

「そのままその辺を照らしておいてくれないか。まず俺が降りる」

 梶原がそう言って、はしごに足を掛けようとした。僕は邪魔にならないように位置を変えつつも、はしごで降りた先の地面の辺りを照らし続ける。

 梶原は足の位置を確かめながら、慎重に中へと降りていく。そして、穴の中に付くと、自分のスマホで中を照らし始めた。だが、僕の位置からでは、中がどうなっているのかは全く見えない。

「危険がないか確認する。少し待っててくれ」

 そう言うと、梶原は穴の中へと消えてしまった。断続的に足音や物音だけが聞こえる。

 と、その時、息を呑む音が聞こえた。

「おいおい、大丈夫か?」

 反射的に僕は言っていた。

「あ、ああ。大丈夫だ。ちょっとアレだが、おそらく危険はないよ。幽霊も悪魔もいない。怪物は……うーん」

 いや、そこで言い淀まれると心配になるんだが。

「まあ、たぶん降りてきて大丈夫だよ。ただ、無理強いはしない。嫌だったら待っていてくれ」

「よし。行く」

 梶原の言葉が終わらない内に、長家はさっさとはしごを降り始めてしまった。

 僕は……穴の中に入ること自体はどうとも思わなかったが、万一の時、地上に一人いた方がいいんじゃないか? ということは少し思った。

 ただ、よく考えると、それは過剰に心配しすぎな気もした。この穴の入り口はかなり大きいから、いきなり土砂が崩れてきて入り口が埋まるということはまずないだろう。だいたい、崩れそうな土砂もない。かなり広い、枯れた芝生の真ん中である。入り口を塞いでいた落とし蓋についても完全にどけてあるから、何かの拍子で閉まってしまう心配もない。

 そう自分に言い聞かせて、はしごを下りることにする。しかし、下りながらも、やっぱり安全確保の人員が必要なんじゃないか? という心配は、ずっと頭から離れなかった。


 下りてみると、そこは、コンクリートで塗り固められた、地下壕のようなところだった。実際に見たことはないが、テレビ番組か何かで見たナチスの地下壕と雰囲気が似ている。天井の高さは十分にあるし、下りた先にあった通路も、人がすれ違える程度には広い。通路を数歩進むと、部屋らしきところに出るようである。梶原と長家は、その中にいた。

 スマホで足下を照らしながら、僕もその部屋に入ってみる。そして、梶原が息を呑んだものの正体を見た。


 その地下部屋は四畳半くらいの、地下の空間としては結構広いスペースを持った、コンクリートの部屋だった。天井付近の壁を見ると、通気口なんかもきちんと作ってある。

 しかし問題なのは、床の方だった。コンクリートの床には、先ほど隠し部屋で見たような魔法陣が描かれ、星の頂点にはそれぞれ、小さくなった蝋燭が立っている。

 そして、その魔法陣の中には、四本足の動物の骨が横たわっていた。頭部の骨はなく、代わりに、背中のあたりに翼と思しき骨が散らばっている。そしてその周囲には、おびただしい量の獣毛と、大きな羽根。それからその周辺には、何やら灰のようなものが積もっていた。

 また、床や壁には、何かで引っ掻いたような跡や、赤黒いものがこびりついている。

 僕らはしばし、無言でそれらを見続けた。

 と、思い出したように長家が仮面を取り出し、仮面を通して部屋を探る。

「……どうする?」

 僕は言った。梶原が答えた。

「……まあ、警察に連絡するのは、ここから人間の血液やら骨やらが検出されてからでいいと思う。動物の争った痕跡が見つかったと大騒ぎされても、あっちも困るだろうし。まずは、ここの骨やらなんやらを採取して、検査機関に調べてもらうとしよう」

 梶原は穴の入り口の方へと向かった。

「道具を取ってくるよ。その後、悪いけど、サンプル採取を手伝ってくれ」

「いいさ。そのために来たんだしさ」

 梶原ははしごを登っていった。僕はそれを見送ると、改めてスマホをかざして、部屋を眺める。


 部屋を見た感じの印象としては、この四本足の翼の生えた動物が、この部屋で暴れたように見える。また、骨の状態からすると、死体のまま放置されたわけではなく、焼かれて骨だけになったようである。散らばっている灰は、その時のものなのかもしれない。

 しかし、仮にこの部屋できれいに骨だけ残るほど高温で焼かれたのだとしたら、床や壁、天井に、焼かれた跡や煤が残っていないのはおかしい。

 あと、もうひとつ、肝心なことは、教授がどうなったか、である。教授はここに来たのだろうか。来たとして、何をしたのだろう。この動物と戦ったのか。あるいは、まさかとは思うが、こいつを召喚でもしたのか。いずれにしても、教授の痕跡らしきものは何もなかった。

 ふと、長家の方を見ると、彼女はまだ仮面を被って、スマホで部屋の壁や天井を照らしながら見回していた。

「長家さん、何かあった?」

 僕が声を掛けると、長家は仮面を外して、首を横に振った。



 その後、僕らは日が傾くまで働いて、獣毛や羽根、灰、こびりついた赤黒いものなどを採取した。

 そして、暗くなる前に館を引き上げて、大学前で解散した。

 一週間後、採取したサンプルの簡易検査結果が出たということで、梶原からメールがあった。壁などに付着していた赤黒いものは血液だったが、骨になっていた動物のものと断定された。灰に関しても同様。つまり、ラザロ教授があそこで謎の動物相手に血まみれの乱闘をした末に灰になるまで焼かれた、というわけではなかった、ということらしい。

 骨になっていた動物については、シカ科の動物だろうとされたが、詳細は不明とされた。翼と思しき骨や羽根についてはイヌワシの一種だろうとされたが、詳細は不明。

 あとは、隠し部屋にあった獣毛と地下室の獣毛を比較したところ、DNAがほぼ一致したということで、詳細は分からないが、隠し部屋で毛をまき散らしていた動物が、どういうわけか地下室に行って死んだらしい、ということだった。

 また、地下室の獣毛からは、二匹分のDNAが検出されたらしい。つまり、あの地下室には、少なくとも二匹のシカ科がいたらしい、ということになる。


 結局のところ、僕らが一日かけてごちゃごちゃ調べた結果は、まあ、館の秘められた一側面を暴くという成果はあったものの、肝心の教授の消息についてはさっぱりわからないまま、というものだった。まあ、素人探偵のやることなんか、こんな程度だろうと言える。

 僕はしおしおと日常に戻り、長家もフロリダへと帰っていった。


 ただ、この件が全くの無意味だった、ということもなかった。僕は長家の言っていたボルヘスとかいう名前に興味を惹かれ、休日に図書館に行って彼の作品を読んでみた。もちろん日本語訳で、であるが。

 すると、なかなか僕と波長の合う作風だったようで、気に入って何冊もAmazonで取り寄せてしまった。中でもピエール・メナール版「ドン・キホーテ」の評論はお気に入りで、何度も読んでは笑わせてもらっている。ウソを書くのがうまい人、という長家の評はなかなか当を得ている。


 ちょっと面白かったのは、彼の著作に『幻獣辞典』というのがあって、これがまた、本当に神話に登場する幻獣なんだか、それともボルヘスによる創作なんだかわからない、ウソくさい内容なわけだが、その中でペリュトンという幻獣が紹介されていた。アトランティス大陸に住んでいたとされる幻獣で、旅先で死んだ旅人が幻獣となった姿だそうなのだが、これが、鹿と鳥を合わせたような姿だそうなのである。

 地下室の骨は、イギリスからはるばるやってきて客死したアダムス一家の誰かの化身だったのだろうか。それとも、ラザロ教授がペリュトンに変化した姿だったのだろうか。そうやって想像を膨らませると、なかなか興味深いが、それが真相かと言われたら、卑しくも史学の学士の称号を持つ者としては、その証拠はない、と言うしかない。

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[良い点]  他のサイトで、お題に基づいて書いた作品との紹介がありましたので、それを踏まえて読ませて頂きました。  館全体と各部屋の描写はかなり細密ですが、登場人物の思考や反応、それと表情の変化の描…
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