応仁の乱1
「義視様が謀反をたくらんだ……?」
私はその話に耳を疑って聞き返した。
「そうだ。伊勢貞親の話によると、義視が細川や斯波と組んで将軍家を乗っ取ろうとしているらしい」
義政様は憮然とした表情で言った。
「しかし何のために……?そんなことをしなくとも義視様は将軍家の後継ではありませんか」
「私にもわからん。だが伊勢貞親の話によるとそうらしいのだ。証拠も挙がっているというので義視と細川を呼んで尋問することになった」
義政様はこう言うものの、私には全く話が見えない。この様子だと伊勢殿が言っているというだけで証拠が示されているわけでもなさそうだ。
「何か誤解されているだけなのでは?私が兄から聞いたところによると義視様と伊勢殿は仲が悪いそうなので何か行き違いがあったのでは?」
私は妙な争いごとになりそうな予感がしたので、義政様にそっとくぎを刺しておくことにした。
義視様は生真面目な方で、金目のことを汚い仕事だと思っていらっしゃるらしく、倉役人をなさっており、土倉を使って蓄財をなさっているという噂の絶えない伊勢殿を、大変嫌っているらしい、……という話を聞いたことがあった。そして伊勢殿が義視様にいつも冷淡な態度をとられて困っていらっしゃるらしいということも。だから伊勢殿が耐えられなくなって何か企んだのかもしれない。
「まあ、そうかもしれんな。どちらにしろ二人から話を聞けば判ることだ」
義政様は先ほどより少し落ち着いた様子で言った。これなら冷静に尋問できそうだ。
そして義政様が山名殿や細川殿を尋問したところによると、やはりこれは伊勢殿の謀のようだという結論になったようだ。
「貞親は私に偽りを吹き込んで、その上斯波義敏の兵を義視に差し向けさせ殺そうとしていたらしい。気が付いた義視が細川の許に逃げ込んだので事無きを得たようだ」
「やはりそうでしたか」
義政様は淡々と事の顛末を話した。
「貞親は仲間の奉公衆と一緒に近江に逃げて行った。誤解も解け、貞親もいなくなったのだから戻ってくるように義視に言っているのだが……義視は細川邸から出てこようとしないのだ」
義視様の無実は証明されたものの、義政様にあまりに簡単に疑いをかけられた上、呼び出しまで受けたことに義視様は不信感を抱いているのだろう……。やはり面倒なことになっているらしかった。
義視様は義政様には従順で良い弟なのだろうが、他の方に対してはなかなか手厳しいところのある方だ。そして実はなかなかの計略家でいらっしゃり、義政様の後継でありながら、それ以上になろうとする野心もあるようだった。
今回の伊勢殿の起こした騒動は、最近大名たちの勢力を凌駕しつつある義政様の右腕である側近たちを大名達が排除するため、義視様と大名たちが結託し、それに危機感を覚えた伊勢殿が暴発してしまった……というのが真相のようだ。そうだとすると義視様は義政様に顔を合わせづらいだろう。
「困ったことですね……本当に」
全ては義視様を自身の後継に決めた、義政様のまいた種としか思えないので、私は淡々と対応した。まあ頑張って義視様を操縦なさると良い。ご自分で将軍をなさった方が楽だった、なんていうことにならなければ良いのだけれど。どちらにしろ私には他人事だ。私の仕事は可愛い息子を立派に育てることだけなのだから。
私はそんな風に他人事のように騒動を見守っていたのだが、事態はどんどん混迷を深め、悪化していくこととなった。
足利将軍家を支えるのは第一に管領家であり、足利の傍流である斯波、細川、畠山の三家がそれであった。管領は将軍に各方面からの訴えごとを伝え、将軍の命令を各方面に披露するのがその役割だ。幕府にとって最も重要な大名たちであった。
その下に山名、一色、土岐、赤松、京極、上杉、伊勢という大名七家があり、大名家の中でも山名、一色、赤松、京極が交代での京都奉行などを務めていた。その下にさらに各国の守護となる大名家があり、これらが足利将軍家を支えることになっていた。
しかし、このころ将軍家を支える大名家は各々相続争いを抱えていた。大名家の相続は家を継ぐのに最もふさわしい、力のある者が継ぐというのが決まりだった。そしてその力を見極め、跡取りを任命するのが将軍の役割だった。だからまず、我こそは跡取りにふさわしいと、力を示すために相続争いが始まるのだ。
義政様の父、義教様はこの将軍の権力を大名家を弱らせるために使った。……だから暗殺されてしまったのだが。義教将軍の失敗を繰り返さないように、義政様は温厚で従順な子になるよう、育てられた。温厚なのは良かったのだろうが、上に立つべき将軍が従順であるのは、困ったことだった。義政様は人の意見に左右されやすい人物になってしまった。決断が遅いうえ、ころころとその決断を替えてしまうのである。その結果、管領の斯波、畠山家をはじめとして、各国の守護大名家においても相続争いが生じてしまっていた。
それをさらにあおったのが細川と山名の争いだった。
山名は細川からすると格下の家柄だったが、当主宗全が義教将軍を暗殺した赤松家の当主を打ち取るなど、実力で中国地方を手中にし、大きな勢力を誇っていた。そして細川は当主勝元がまだ若かったころに家を相続したので、後ろ盾を欲し、山名にそれを頼んだのだった。しかし細川は山名の領地の半分ほどをかつて支配していた赤松家を再興させる手助けをするなど、山名を怒らせてしまった。それをきっかけに、細川と山名は事あるごとに対立するようになってしまったのだ。
細川と山名の争いは各国の相続争いにも影響を与えた。相続権を争うものが、幕府の実力者である二人のどちらかに属して、目的を達成しようとしたからである。将軍家は大名や公家を取り持ち、争いごとを裁定するのが役割なのだから、どちらかに与するわけにはいかないのだが……義政様は気が合う細川殿の肩を持とうとすることが多かった。時期将軍となる義視様の後見を細川殿に頼んだのも、細川殿の力が時期将軍の許でも同じように保たれるようにするためでもあったのだろう。
伊勢殿の起こした騒動は大名に敵視された伊勢殿が追い詰められて起こしたものだった。伊勢殿を追い詰める際には大名たちは結束していたのだが、共通の敵がいなくなってしまった大名たちは、再び分裂し、激しく争うようになった。そしてそれに私も義政様も巻き込まれていくことになってしまった。