明応の政変
しかし義稙殿が河内で畠山基家討伐を行っていた明応二年(1493)四月、京都で大事件が起こった。
「進めーっ!」
幕府一の実力者となっていた細川政元殿が京で兵を挙げたのだ。将軍義稙殿の追放し新たな将軍として義稙殿の従弟にあたる清晃殿を迎えるのが目的だった。
「清晃様、諸国の大名は、うち続く外征に苦しんでおります。今こそ、あなた様が新たな将軍となっていただきたい」
「そんな……私はただの僧侶だ。政治のことなどわからないぞ」
「いいえ、ご心配には及びません。全ては我ら細川家が補佐いたします」
戸惑う清晃殿を細川殿は説き伏せて、新将軍として朝廷に推薦した。
清晃殿は堀川公方足利政知の息子で、このときは足利氏とゆかりの深い天竜寺香厳院の住持となっていた。この時十四歳。この後、還俗して足利義澄と名乗った。
細川政元殿は義澄殿の身柄を押さえると共に、京にいる義稙殿の関係者や親族の館を次々と襲撃した。これらの者は応仁の乱において西軍にいた者たちで、政元殿は以前より排除をもくろんでいたのだ。
細川政元殿が京で兵を挙げたという知らせは、すぐに河内に外征中の義稙殿のもとに伝えらたものの……多くの大名は、義稙殿を見捨てたのだった。義稙殿に味方したのは畿内の畠山政長殿のほか、わずかな者だった。こんなにも義稙殿が大名たちから支持されなかったのは、義稙殿は将軍といっても長く美濃で生活していたのであり、上洛してわずかに三年しかたっておらず、殆どの大名たちは義稙殿に対して別段の恩義を感じていなかったからだ。その上、近江の六角氏討伐に続き、河内の畠山討伐と、うち続く遠征に、嫌気がさしている者も多かった。これらの軍備にかかる金はもちろんそれぞれの大名の持ち出しであり……莫大な費用を強いるものだった。かつてのような権威もない将軍であり、個人的な恩義もない義稙に誰がそんな義理立てを好んでするだろうか。
しかも六角高頼殿の討伐は寺社本所領の返還という大義名分のあるものだったが、河内の畠山討伐に関しては、大名家内の抗争に将軍自ら出陣して介入するものに他ならなかった。つまり、どの大名家も義稙殿の気持ち次第で討伐の対象となりうるのだ。実際、義稙殿は河内の征伐の後には、越前の朝倉殿を征伐する計画も立てていたのだから、大名たちの懸念は杞憂ではなかった。義稙殿の率いた軍勢は壮大なものだったが、それ故に大名達を畏怖させるものだったのだ。自らを害するかもしれない将軍を支持する大名はいない。義政様の父上、義教将軍が恐怖政治を行った末に暗殺されたように、義稙殿も大名たちを害するかもしれないところを見せてしまったために、大名たちから背かれてしまったのである。
味方がほとんどいなくなった義稙殿と畠山政長殿たちを細川政元の軍勢四万が京都から河内へ攻め寄せます。
「こうなったら徹底抗戦する!!」
義稙殿と畠山政長殿は正覚寺に立てこもり、畠山政長殿の領地である紀州からの援軍を待った。しかし次第にに食料も尽き、その上、頼みにしていた紀州からの援軍は、細川方に阻まれ、到着できなかった。
「もはやこれまで…」
紀州軍の敗北を聞いた畠山政長殿は絶望して自害したという。
観念した義稙殿はわずかな供回りとともに正覚寺を出て、細川方に降参した。捕らえられた義稙殿はまず四天王寺に押し込められ、翌月の明暦二年(1493)五月、京都に護送され、北山の龍安寺に幽閉されることになった。
その後すぐ、義稙殿は夕食に毒を盛られて、死にかけたという。しかし薬を飲んで一命をとりとめた。細川殿は当然、誰が毒を盛ったか調べ、食事係を問い詰めた。
「御台様に、命じられました…」
「なんと!御台所さまが…!?」
細川殿は絶句したという。義稙殿を美濃から上洛させ、将軍に推薦した私が、今度は当の義稙殿を毒殺しようとした。にわかには信じがたいことだっただろう。
だが私は今回の計画を細川政元殿と伊勢貞宗殿から聞かされ、賛同した時にもう決めていたのである。義稙殿を亡き者にすることを。細川殿や伊勢殿がそうするならもちろん賛成するつもりであったし、もし細川殿や伊勢殿が義稙殿を生かそうとするならば、自らの手で亡き者にするつもりだったのである。
「何故ですか御台様……」
細川殿は直ちに私のところへやってきた。細川殿は私と違って義稙殿の命を取るつもりはなかったようだ。生かしておいて、どうするつもりだったのだろう?
「お前たちは甘いのです」
私は細川殿を見据えて言い放った。
「あれを生かしておいてはなりません。義澄殿と義稙殿は将軍として血筋は同等のものであるし、長く京以外のところで育ち、後ろ盾もなく、将軍としての知識もないのだから将軍としての器量も大して変わらない。あれが生きている限り必ず義澄殿の対抗馬として利用され、将軍家は二つに分かれてしまうでしょう。そうなれば天下の太平はもはや望めない。のちの憂はここで断ち切っておくべきです」
しかし私の意見に細川殿は真っ向から反対した。
「私にとって義稙様は旧主です。これを殺すのは人の道に背くものです……。とても私には……肯是られません」
「だから私が采配したのではないですか。あれが私の主人だったことは無いのですから」
私がこういっても細川殿は頑なだった。
「……ですがもう失敗したのですからこれでもう終わりにしていただけませんか……。御台様がどうしても義稙様を殺そうというのならば……私にも考えがございます」
細川殿がそこまで反対するならば、私に最早打つ手はなかった。私は素直に白旗を上げた。
「お前がそこまでそう言うならばもういいでしょう……。これからの幕府はお前達が担っていくのですから。苦労するのも自身の選んだこと。仕方ありません。しかしもう……足利将軍家は終ったも同然でしょうね」
この後の世の中を担うべき細川殿が望むならもう私はこれ以上何もう言うまい。どちらにしろ義稙殿を殺すことを細川殿が阻むなら私にはどうすることもできない。どうなろうが後は……後の世の者がどうにかするが良い。私の役目はもうこれで終わったのだ。
私は義稙殿がこれ以上暴走して足利将軍家を壊していくのを見たくなかった。だから細川殿に協力したのだ。義覚も義尚も失い、私は自分の後に子孫を残すことはできなくなってしまった。私に残されていたのは足利将軍家だけだったのだ。私が自分を押し殺して四十年を超える歳月の間支え続けてきた足利家を……今まで何の貢献もしてこなかった義稙殿が好き勝手に壊していくなど……到底認めることなどできなかった。
細川殿の計画を伊勢殿から聞かされ、協力を求められたのは……義稙殿が将軍に就任してから間もなくのことだった。細川殿も伊勢殿も義稙殿が将軍になるのはどうしても認められなかったのだ。だから義稙殿が将軍にならないよう、義澄殿を将軍として推していたし、義稙殿が将軍になってしまうことが決まってしまった後でも、義稙殿を追い落とすための策略を練っていたようだ。
これに義稙殿もまったく無策でいたわけではない。義稙殿は細川殿の力を削ぐべく、河内と紀州に分かれてしまっていた畠山家の統一に力を課そうとしたり、朝倉家に脅かされつつあった斯波殿に助力しようとしていた。畠山家と斯波家はもともと細川家と共に足利家の分家として代々管領を務める家柄だったからだ。その上、義稙殿は細川政元殿の京兆細川本家の分家である阿波細川家の細川義春を寵愛して見せたりした。
おそらく細川の分家に力を持たせることで細川家の分断を図ったのだろう。
しかし義稙殿のこの行動も細川政元殿や伊勢貞宗殿の意思を固くさせるものでしかなかったようだ。
伊勢殿は河内の畠山基家殿と通じ、各大名家にも調略の書状を送り、寝返りを促した。細川殿は義稙殿が畠山討伐に向かい、京を留守にしてしまったところで京を制圧し、河内の畠山基家殿と共に義稙殿を挟撃して追い詰めたのだ。
私は義澄殿を自分の養子にして、支持することを表明した。そして朝廷に向けても自分が義澄殿を支持することを伝えた。私だけでなく、長く幕府において有力者としての地位にあった伊勢貞宗殿も同じく義澄殿を支持することを表明した。この事も義稙殿に背く大きな理由となり、幕府の主要な者は全て義澄殿を支持することを決めたのだ。ここで義稙殿の敗北は決まったのだった。
この後細川方は義稙殿の身柄を龍安寺から細川政元の重臣・上原元秀の屋敷に移した。食事の管理も以前にまして徹底させたという。念入りなことである。
上原元秀の屋敷で、義稙殿はそれなりの敬意をもって待遇されたらしい。酒の差し入れなどもあり、数人の臣下を従えることも許された。細川政元殿は、旧主にあたる義稙殿に対してそれなりの礼儀は尽くすつもりでした。ひどい扱をするつもりはなかったのだ。
ところが、義稙殿の今後の処遇について『小豆島に流されるらしい』との噂を耳にすると、義稙殿は直ちに動いた。
明応二年(1493)六月二十九日。激しい嵐の夜、義稙殿は夜陰にまぎれて上原邸を抜け出し、数人の家臣だけを連れて、姿を消してしまったのだ。義稙殿が向かった先は、越中だった。
越中は、かつて義稙殿に協力して最終的には自殺した畠山政長の本拠地であり、この地には畠山政長の重臣であった神保長誠殿がいた。義稙殿はこの神保長誠殿を頼んで、越中放生津に入ったのだった。
私の予想した通りだった。殺さなかった義稙殿はやはり新たな火種となってしまった。義稙殿は北陸の大名たちに呼びかけ、自分を将軍として自分に忠誠を誓うことを求めた。細川殿は越中に兵を送って義稙殿達を討とうとしたが、そこは義稙殿達の勢力圏である。一人の生存者もないほど細川殿の兵は打ち負かされてしまった。そして義稙殿は勢いに乗って神保殿の館で旗揚げ式を行い、再び将軍として返り咲くべく、京に上洛し、足利義澄と細川政元を打倒することを宣言したのである。これにより、再び二人の将軍による戦が始まってしまったのだ。しかも応仁の乱のときと違い、将軍として掲げられた二人は血筋においては正当性において全く同格といってよい二人だった。だから朝廷は細川殿の推す義澄殿の将軍職就任をしぶしぶ認めつつも、いったん将軍として認めた義稙殿の権威を完全に否定することも無かった。その後も二人の将軍は相手を打ち負かす決定打のないまま対立を続けていったのだ。足利将軍家はこれにより完全に機能不全に陥ってしまった。……もう足利将軍家は終ったも同然だった。
明応の政変の後、私はしばらくの間義政様の残した東山の山荘で過ごしていた。まだいくばくかの金が手元に残っていたので、義政様の残したこの山荘を完成させようと思っていたのである。それが私にできる義政様への供養だと思っていた。
義政様と私は一度も心を通わせることのなかった夫婦だった。私は一度も義政様の内面を理解できなかったし、義政様もそうではないだろうか。だが、長く夫婦であり、家族であることは間違いなかった。義政様の死んでしまった今、もう憎しみはない。今はただ義政様が安らかに眠れることを祈っている。家族としての情愛のようなものだろうか。
義政様がこだわり抜いた山荘だけに、この山荘は書画等の内装のこだわりもさることながら、東山の自然と調和したその外観も見事なものだった。幕府の財政が破綻状態にあったために、幕府からこの山荘のための費用を出すのは困難だったが、もう一人の尼となった私が個人としてこの山荘の為に金を出すのは私の自由だ。そう思って私はここでのんびりと余生を過ごすつもりだったのだが。
「こちらの山荘は義澄様が義政様から相続されております。立ち退きいただきますよう」
幕府の役人がやってきて、私に立ち退きを求めてきたのだった。義澄殿の命令だというが……実際は細川政元殿の意向だろう。義稙殿を暗殺しようとして以来、細川殿は私を警戒していた。私が京に住まうこと自体が目障りなのかもしれない。私は義澄殿や細川殿の思いどおりになるような人間ではないから、まあ警戒するのも当然だろうか。
東山から立ち退くことになり、とりあえず私はお母さまから相続した屋敷で暮らしていた。しばらくしてそこに赤松政則殿が訊ねてきたのだった。
「お久しぶりにございます」
壮齢となり、すっかり立派な大名然とした赤松殿は、依然と変わりなく、私に礼儀正しく挨拶をした。
「赤松殿、こちらこそお久しぶりですね」
挨拶を交わした後、近況など他愛のない話をしばらくした後、赤松殿は本題に入った。
「御台様にはこちらのお住まいでは手狭でございましょう。……私の備中にある屋敷に移られませんか?御台様の為に心を尽くして用意いたしました」
赤松殿は私の身柄を引き受けに来たのだった。細川殿の命令だろう。私が京に住まうのがよほど嫌なようだ。
「よろしいですよ。参りましょう。楽しみにしております」
私は赤松殿の提案に快諾した。体の良い流刑のようなものかもしれないが、もう私は誰とも争う気はなかった。私の戦いは……もう終わったのだ。
赤松殿の用意してくれた屋敷は……少し東山の山荘に似ていた。赤松殿もなかなかの文化人であるから、内装はこだわった書画が飾られ、こじんまりとしているものの、趣味の良い内装が施されており、外観は備中の自然に溶け込み、見事な調和をなしていた。
私はここに義政様と義尚の供養塔を建て、冥福を祈る毎日を送っている。ここにはただ一人生き残った私の娘が時々訪ねてきてくれる。娘は生まれ落ちた時から尼になることが決まっており、今は大慈院の住持を務めている。子孫を残すことも許されず、ただ無為な人生を送ることが産まれた時から決まっているなど、哀れな娘だと思っていた。しかし将軍御台となった私の人生も結局無為なものに終わるのだから、人生は分からないものだ。
今でも土倉や酒屋の者が私のところへ運用した金を持ってきてくれるので、私はそれなりに豊かな生活を送っている。だから帝や生活に困っている公家たちへは今でも季節の贈り物を欠かさずしている。おかげで時々内裏へ伺った時にはまるで今でも将軍御台だった頃のように丁重にもてなしていただける。私が生きている限りは帝達への援助は惜しまないつもりだが、さすがに私の死後はどうなるかわからない。義澄殿がちゃんと帝達の面倒を見てくれると良いのだが。
健康そのものだった私もさすがに年には勝てず、最近は寝込むことも多くなった。私の人生ももうすぐ終わりを迎えるだろう。おそらくこのまま私の人生は何も残らず、何も変えられなかった無為なものに終わるのだろう。だが私は私なりに自分の与えられた役割をちゃんと果たして生きてきた。後悔はない。しかし力を出し尽くし、後悔はないものの、私はこの世において敗者である事には変わりがない。おそらく私の死んだあとは、今以上に私は悪く言われるだろう。しかしだからといってそれが何だろうか。自分の死んだ後のことなど、子孫の残らない私にとってはどうでも良いことである。
私は力を尽くして生きた。確かにそう言い切れる。それで十分である。
日野富子は生真面目な優等生的な性格だったのかな?と想像してお話を作りました。対して足利義政は鵺のような性格だったのかな?と。一見やる気のない遊び人と見せながら、強権的な政策を実行し、生涯に渡って弟にも息子にも実権を渡そうとはしなかった人ですので。
それにしても、足利家は現在も続いているのに驚きました……。将軍家の分家の方のようですが……。