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終戦後4


 葬儀の3日後、今度は義政様が中風の発作で倒れたという知らせを受けた。義尚が呼んだのだろうか?私ではなく父親である義政様を。




 しかし結局その時義政様は死ななかった。半身の付随は残っていたものの、依然と変わらず話もでき、箸も持てた。




 「依然とそれ程お変わりないようで、ようございました」




 私は義政様のところへお見舞いに伺った。もちろん義政様の様子をうかがうためもあるのだが、義尚の後継について決定しなければならなかったからだ。




 「義尚の後継についてなのですが」




 私が言いかけると、義政様はそれをさえぎって言った。




 「政務は私が行う」




 「はあ?しかし義政様はすでに隠居されているのではありませんか?」




 私は義政様の意外な発言に驚いてしまった。義政様は驚く私にさらに畳みかけるようにつづけた。




 「隠居のみでも執政することは可能だ。4代将軍義持様などの例もある。既に朝廷に問い合わせて問題ないことは確認している」




 「そうですか……」




 そこまで言われるならばもう私に申し上げることは無い。




 「それでは早くお元気になりませんといけませんね……。お大事になさってください」






 私はすでに美濃から京に来ていた義視様と義稙殿の親子を、私の住まいである、小川御所に招いていた。なんと言ったらよいのやら。困惑しながら御所に戻った。




 「はじめてお目にかかります」




 そういって私に挨拶するのは義視様と私の妹良子の息子である義稙殿だった。




 「ええ。あなたは母上に似ておいでなのですね」




 横に並ぶ生真面目な顔の義視様にはあまり似ていない。人懐っこそうな青年だった。




 「将軍には……義政様が自らなられるとおっしゃられているので……。そのうち義政様との対面の席を設けますから、それまでごゆるりとお過ごしくださいね……」




 私がそういうと二人は何とも言えない顔をしたが……どうしようもないことは理解したようだ。




 「わかりました……。よろしくお伝えください」




 そういって二人は義視様の娘の住む、通玄寺に戻って行った。




 義政様はこの後何度か中風の発作を起こしながらも、自ら政務をとり続けた。義政様はご自身が生きておられる限り誰にも権力を渡す気はないのだろう……。何しろ義尚にも渡そうとしなかったくらいなのだから。


 だが義政様の命はもうそんなに長くないように思われた。何しろもう三度も発作を起こしているのだ。


 どうやら義政様は義視様が義稙殿の背後で権力を握るのが気に食わないらしい。そこで義視様は自身の応仁の乱での行動が義政様にまだわだかまりを待たれていることを感じられたのか、髪を下して出家なさり、権力欲のないところを示そうとされた。それでもなお頑なに義政様は義視様と義稙殿にはなかなか会おうとしなかった。しかし、四度目の激しい発作を起こした後はとうとう面会した。




 「会っていただきはしたのですが……一言もお話しくださいませんでした……」




 義稙殿は苦笑いしていた。しかしもう義政様の命が短いことを確信したのだろう、余裕のある表情だった。


 その三月後にとうとう義政様は中風の激しい発作を起こし、亡くなった。義政様は最後まで自身の権力を手放さなかった。自分の弟や息子にさえも。義政様はどうしてあんなに権力にこだわっていたのだろう……。義政様は一見穏やかで大人しく誰にでも優し気な方だったが……その実、人を人とも思わないような、冷酷なところがある方だった。義政様は私を愛したことがないのはもちろんだが、ひょっとしたら自分以外誰のことも愛したことがなかったのではないだろうか? 




 義政様の葬儀の後、私は髪を下して出家した。足利家の家督は義稙殿が承継すると朝廷には私から伝えた。これで私の将軍家での役目はもう終わりである。私はもう俗世間からは離れて自由に生きるつもりでいたので、御台として長く住んでいた小川御所も元の持ち主である、細川殿に返そうと思った。




 「いいえ、将軍様が二代にわたって使われた御所を返していただくなど、恐れおおいことです。義政様が可愛がっておられた清晃殿へ譲られてはいかがですか?」




 細川殿にはそう言って小川御所の返却を断られた。それもよいかもしれないと思って、私は小川御所を清晃殿に譲ることを伝え、引継ぎの準備をしていたのだが。






 「御台様!!大変でございます!!」




 御所の女房が慌てて私を呼びに来たのだ。




 「一体どうした?」




 普段見ることがないくらい慌てたその様子に驚いて私は訊ねた。その直後、御所の床が激しく振動し、不審に思って廊下に出てみると、すぐ近くでバキバキと何かを破壊している音が響き渡っていた。




 「何をしているのです!!」




 音にしている方に向かえば、大勢の男たちがまさに小川御所を斧や金槌で打ち壊しているところだった。




 「義視様のご命令です」




 男たちは私を見下ろし、あざ笑いながら答えた。そしてそのまま私たちに構わず小川御所を破壊し続けたのだった。




 「……どういうつもりなのか……」




 私はあまりの仕打ちに怒りで頭が真っ白になる思いだった。すぐに義視様と義稙殿へ抗議の使者を差し向けた。




 「時期将軍とその父として争いの元となる小川御所は差し押さえ、打ち壊すことになったと。そしてそれに逆らった日野富子の所領は差し押さえるとのお答えでした……」




 使者は困惑しながら私に伝えた。私は彼らとそれなりに良好な関係を築いていたと思っていたのだが、義視様と義稙殿はそう思っていなかったようだ。私が小川御所を清晃殿に差し上げようとしているのが気に食わなかったらしい。清晃殿を時期将軍として推す動きに私が加わったとでも思ってしまったようだ。私は一貫して義稙殿を推していたのだし、彼らもちゃんと理解していると思っていたのだが、そうではなかったようだ。


 しかし……そうだとしてもこのような突然の乱暴な仕打ちは許しがたい。義視様は若いころから思い込みがが激しいところがあった。そして、敵だと思ったものを徹底的に排除しようとするところも。どうやら今もあまり変わっておられなかったようだ。そして義稙殿も似たような人物なのだろう。




 不愉快な思いをしたので、気分を変えたいので、私は猿楽を楽しもうと思った。義政様のひいきしていた猿楽師たちに話をして演者や演目を決め、懇意にしている公家や大名も招いて講演を行おうとしていたのだが。




 「申し訳ありません……。演者の多くが来られなくなってしまったようで」




 会場の整理を頼んでおいた役人の一人が困惑した様子で言った。


 話を詳しく聞いてみると、どうやら義視様に猿楽師たちが呼び出され、圧力をかけられ、来られなくなってしまったようだった。会場にはお招きした公家や大名の方々がすでにいらっしゃっており、不穏な様子に困惑しておられた。私のささやかな楽しみさへ奪おうとするとは……なんという横暴さだろう。元から確かにこんな方だとは知っていたが……ここまであからさまに嫌がらせをするなど……なんという下衆な男だろう……。


 私は仕方なく、無駄足を運んでいただいてしまった公家や大名の方々に謝罪し、お土産を渡して帰っていただいた。……これで新将軍達と私が不仲であることが天下に知れることになってしまった。私に赤恥を書かせて、義視様は溜飲を下げておられることだろう……。不愉快極まりない。ここまでされるのならば私はもう一切あの者たちに係わることはやめよう。もう髪を下して一尼になったのだし、名実ともに尼として過ごすことにさせていただこう。


 そう考えて、私は義政様の政務をお手伝いするために付けられていた家来たちに暇を出した。母から相続した家を自宅とし、身の周りの世話をする使用人だけを残して、使用人のほとんどにも暇を出した。その後私は一切義視様にも義稙殿にも関わらなかった。そして私は自宅にこもり、義政様と義尚の冥福を祈り、殆ど外出しない生活を送っていた。








 延徳二年七月、義稙殿は正式に朝廷から将軍に任命され、義視様も准三宮の地位を与えられ、義稙殿を新将軍としての体制が始まった。義稙殿の将軍就任と同時に古参の奉公衆たちはほとんどが職を辞した。ほとんどの者が応仁の乱の前後で義視様と何らかの遺恨があり、勤めづらかったのだろう。父上が東軍の対象であった細川政元殿も、儀式のため管領に就任したが、すぐに職を辞して領地に戻った。義視様や義稙殿と深くかかわる気持ちはない様だ。


 そしてそれに代わって将軍を支える役職に就いたのは応仁の乱において西軍についた者たちだった。彼らは義視様と共に戦った仲であり、お互いに親近感があったのだろう。このように新しい体制では義視様が大きな力を持って政治を動かしていた。義稙殿は幼い頃より長く美濃で暮らしておられ、将軍の仕事については全く知識がない。一方で義視様はかつて御所で将軍の仕事をしたこともあったので、義稙殿は義視様を大いに頼りにしているようだ。しばらくは父子による二頭体制が続くのだろうか。


 だが、十一月に義視様が腫物を患い、体調を崩した。義稙殿は義視様の為に、良い医師や薬師と聞けば遠くの者でも召し出して、義視様の治療に当たらせていた。そんな必死の看病も虚しく、義視様は延徳三年(1491年)正月に死去した。将軍就任から一年もたたない義稙殿にとって、大乱中に西軍の盟主として政治的経験を積んできた義視様は頼もしい存在であった。しかも義稙殿は長く美濃で暮らしておられ、京にはほとんど知り合いがいなかった。義視様は義稙殿の強力な、唯一の後ろ盾であった。それを失ったのだから、義稙殿は自身の政治的立場を固めるため何らかの方策を考えざるを得ないだろう。……一体どうするつもりだろうか?私は助力する気はない。……だとすれば……討伐だろうか?義尚が行ったように幕府の方針に反するものに対して……例えば六角高頼殿あたりを軍事攻撃するのが手っ取り早いだろう。




そして予想どおり、義視様が亡くなった三月後、義稙殿は外征を発表し、大名たちに従軍するよう、大号令を出した。やはり義稙殿は軍事で功を上げることによって自身の求心力を上げることにしたようだ。




「かつて九代将軍義尚に征伐を受けた近江の六角高頼が勢威を盛り返してきたのでこれを征伐する。大名たちもこれに参加するように」




 この命令を受けて各地の大名たちが今日に集結した。細川政元殿をはじめとして畠山政長殿、斯波義寛殿、赤松正則殿など、足利将軍家の麾下にあるほとんどすべての大名が参陣した。義稙殿から出陣命令を受けたものはもちろん、直接はうけなかったものも続々と参陣したのである。近江に向けて出陣した軍勢は義尚が出陣した時の百倍にも見えたという大軍となっていた。


 この圧倒的な軍勢の前には六角殿もあっという間に蹴散らされ、敗走した。そして義稙殿は明応元年(1492)十一月には京に凱旋し、将軍の権威を世に示したのである。




 この勝利に飽き足らず、義稙殿は明応二年正月には河内の畠山基家殿を征伐を発表し、再び大名たちに従軍するよう、大号令を出した。そして明応二年二月に再び外征に出発したのである。この時の軍勢も先の六角征伐と同程度の大軍であった。


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