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終戦後1

 乱が終わってすぐのことである。乱の最中には焼かれることのなかった室町御所の近所で火事が起きた。そしてとうとう室町御所に延焼したのだ。その上御所にはまだ帝達が滞在しておられた。皆で慌てふためきながら三種の神器を慌てて持ち出して逃げ出した。それから、とりあえず他に思いつかなかったので、帝達と共に義政様のいる小川の屋敷に避難しようとしたのだが。




 「帝が来られるにはこちらでは手狭です。困ります」




 義政様ににべもなく断られてしまったのだ。仕方ないので帝には私の母の実家をご提供することにした。帝のお住まいには手狭なところなのだが、仕方がない。


 義尚は丁度良い機会だったので、養育係になる予定だった伊勢家に預けることにした。今までは乱の最中だったので私と一緒に御所にいたのだが、独り立ちする良い機会になると思ったのだ。


 私はとりあえず義政様のいる小川の屋敷の一部を使わせていただくことにした。義政様は早速私と別居すべく、同じ敷地の隣にまた屋敷を建てさせ始めた。私と顔を合わせるのがよほど嫌なのだろう……。まあ義政様は建築が趣味なのだから好きにすればよい。


 私が同じ敷地に住むようになると、義政様へ書類の決裁や面会の取次ぎをお願いされたりすることがまた多くなってしまった。皆相変わらず義政様がなかなか決済してくださらないので困っていたのだ。義政様は乱が終わるまでは熱心に政務を行っていたのだが、乱が終わってからまた政務が面倒になってしまっているらしかった。


 特に義政様が苦手な財政に関することはほとんど伊勢殿に丸投げされていた。新たに税をかけるときなど、重要な判断が必要な時は義政様に相談しなければならないのだが、なかなか話を聞いてくださらないらしく、伊勢殿に泣きつかれることも度々だった。仕方なしに義政様に取次ぎに行くと、義政様はめんどくさそうに言い放った。




 「金のことなどどうでも良いから、もう伊勢に相談して勝手に決めればよい」




 「……私が政に係わるのは嫌だったのではないのですか?」




 後から文句を言われるのは御免なので、確認してみたのだが、義政様の返事は同じだった。




 「金のことはもともと伊勢に任せている。勝手にするがいい」




 義政様にとって政治とは裁判のことらしい。そんなわけで幕府の財政を私と伊勢殿とで担うことになってしまったのだった。


 伊勢殿は代々将軍家の奉公衆として財政や御所の管理に当たっているお家柄なこともあって、大変財政に詳しい方だった。父上である、伊勢貞親殿も義政さまのお若い頃に様々な財政再建策を講じられ、義政様を支えておられた方であった。義政様の治世に十三年間も滞ったままだった土御門内裏の建造が完成したのも貞親殿のご尽力によるものだったと言う。そんな父上をお持ちなだけあって、貞宗殿も様々な再建策を提案してくださった。頼りになる方である。


 幕府の財政は戦乱で流通が滞り、領地からの年貢は届かず、京の住民からの税も、荒廃して住人が元の一割くらいしかいない今はほとんど入らず、崩壊寸前で、問題は山積していた。私は伊勢殿の提案の元、新たに作って税を徴収したり、幕府の倉の金子を投資で増やしてみたりしたのだが……いろいろやってみるたびに反発を呼び、守銭奴やら金の亡者やらという非難を浴びた。しかし私たちが投げ出してしまったら……幕府はどうなってしまうのだろうか?


 乱が終わり、京には平穏が戻りつつあった。京の半分は焼けてしまっていたが、町に町人が戻り、家を建て直して商いを始めたり、少しづつ賑わいが戻りつつあった。しかし屋敷が焼けてしまった公家は金に余裕がなければ戻ってくるのは難しかった。公家の収入は地方の荘園からの年貢と、行事の時に振舞われる金だった。しかし荘園からの収入は実力によって地方の武家にとられてしまうことが多く、公家の数が少ない今は行事を行うことも難しかったのだ。


 しかし私は京が元の姿を取り戻すためには、行事を行うことが必要だと思った。そこで私は今まで蓄財してきた自分の金を使って、応仁の乱後、除目叙任や春日祭、五山の送り火など戦乱で中断していた朝廷や寺社の祭礼を復活させた。これらの行事には行事そのものの用意にかかる金やに係わる人々に振舞う金が必要だった。莫大な金額だったが、京に元の賑わいが戻るよう、惜しみなく金を使った。そうすることにより、戦乱の京から避難していた公家や自社の僧侶が少しづつではあるが京に戻ってくるようになった。戻ってきた後も彼らは元のように年貢が届かず困窮していたので、事あるごとに贈り物をし、行事のたびに金を振舞い、彼らを支援し続けた。京が文化の中心であるためには彼らは必要な存在だからだ。帝の生活も困窮しておられた。朝廷にも禁裏領からの年貢は届かないし、戦乱で京から公家がいなくなってしまったため公家からの上納金も得られないからだ。私は季節ごとに朝廷に各地の名物の新物をお届けしたり、帝の妹君の降嫁の際の費用を負担して差し上げたり……何かと支援して差し上げていたのだが、なかなか元のとおりとはいかないのだ。帝は不満を募らせて、事あるごとに親王殿下への位を口になさるのだが……。実は譲位にも莫大な金が必要なのだ。おおよそ5千貫文(5億円くらい)ほどの費用が掛かるだろうか。もちろん日々の暮らしにも困っていらっしゃるような状態ではとてもそんな金は用意できない。それなので、もう何十回も上位を口になさっていらっしゃる後土御門帝ではいらっしゃるが、未だに譲位はできないままなのだった。


 そして帝の譲位以前に、お住まいである内裏が戦乱のため痛みが激しく、壁や床のいたるところに穴が開いていて、修復が必要な状態なのだった。大工に見積もってもらったところ、どうやら一万二千貫文(12億円くらい)以上はかかるだろうということだった。幕府の金はとっくに底をついていたので、何とか新たに金を作らなくてはならない。伊勢殿と一緒に必死に方策を考えた。


 まずは文明十(1478)年から、総奉行を置いて諸国から段銭(田畑の一段((一反))あたりに課せられる臨時税のことである)の徴収をしようとした。しかし諸国はこの段銭の徴収になかなか応じず、思ったように費用が集まらなかった。もう足利将軍家の命に諾々と従う者などいなかったのである。そのためやむを得ず、新たに京の七口に関所を設け、通行税を取ることにした。もはや将軍の威光は衰え、おひざ元である京でしか税をとることができなかったのだ。もちろん京都やその周辺の住民は猛反発し、関を打ち壊す一揆が起きた。幕府としては、全国から税を取れないので、京都近郊でより多くを取るしかなかったのだ。応仁の乱で、荒廃した内裏の修造費用を捻出するためという名目であったが、京の民衆の不満を抑えることはできなかった。


 こういう訳でなかなか内裏の修復に取り掛かることができなかったのだが、それに帝がしびれを切らしてしまった。帝は当初室町御所から避難した際移った私の母の実家では手狭だったので、私の甥、兄様の息子の邸宅に移っておられた。それでも帝は仮住まいに不満を募らせておられ、度々私を日野邸に呼び出しては不満をぶつけられた。




 「内裏の修復はまだ始まらないのか?」




 「修復費用が用意できないのです」




 事実なので私はこう答えるしかない。すると帝はいつも私に怒りをぶつけるのだ。




 「……内裏の修復だというのに皆協力しないというのか?誰も彼も私をないがしろにしておる……!!私は我慢ならん!!譲位する!!」






 こんな会話を何回繰り返しただろうか。




 仕方なく、私は不足分の金子を土倉から金を借り、内裏の修復を始めてもらった。そしてこの後は通行税をこの借金の返済に充てていたのだが、人々は内裏の修復が始まったのでもう金は十分集まったものと思い込んでしまったようで、余計に不満を爆発させるようになり、関所は何度も打ちこわしにあった。




  「通行税は内裏修造費用に使われていない。日野富子が自分のものにした」




 そんな悪口が京のいたるところでささやかれていた。私が真実を訴えたところで信じるものなどいなかった。皆自分の信じたいことを信じるのだ。関所が不満だから、すべて私が悪いことにしたいのだ。皆にとって真実などどうでも良いことなのだと、私は痛感していた。

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