応仁の乱3
長く続く戦の中で、多くの人が御所に詰め込まれて、御所の中は重苦しい空気に包まれていた。そんな中で義政様は毎日酒宴を開いていた。私のところには義政様の判断を仰いだ方がよさそうな案件も時々持ち込まれるのだが、義政様は仕事の話を殊のほか嫌った。仕事の相談をしようとすると、目を合わせようともしないのだ。そこで臨時に私が仮の決済をして当座をしのぐことにした。私は以前から義政様の政務を手伝うことがあったので、義政様のするであろう決済は大体想像できたのだ。……しかし義政様は私のこの行動を不快に思っているようだった。だんだん私が近くに行くことがあっても、目も合わさず口もきかないことが多くなった。
そんなときである、帝が私のいる寝所に忍んできているという噂が立ったのは。
「御台様と帝が……?」
「お年も同じくらいだものね!」
「上様だけではなく御台様まで……乱れているわね?」
御所の女房達がひそひそと楽しそうに噂し合っているのが耳に入ってきた。不愉快極まりない。思わず噂話をしている女房達を冷たく見据えてしまう。自分たちを見る私の目が冷たく座っているのに気が付くと皆縮こまって黙り込むのだが……噂は御所中にあっという間に広まっていった。
噂が聞こえ始めてしばらくたった後、義政様が細川殿の小川にある別邸に黙って出て行ってしまった。この別邸は細川殿から最近義政様が譲り受けて、義政様の好みに工事していたのだった。
「上様が出て行ってしまわれたって……!」
「ではやはり御台様と帝の噂は本当だったのね!!」
女房達はさらに噂話に花を咲かせていた。この様子にさすがに心配になったのだろうか、帝からお話がある旨伝えられた。私が帝の寝殿に赴くと、帝は心配そうに話しかけてきた。
「妙な噂が流れて、そなたに迷惑が掛かっているとか聞いたのだが」
「お気遣いありがとうございます。陛下のお心を煩わすようなことではございません。ただの女房達の暇つぶしの噂話です故」
「だが義政が誤解して出て行ってしまったとかいうではないか。世話になっているというのに、この上そなたたちの夫婦仲を壊してしまっては申し訳ない。私が話をして義政の誤解を解こう」
帝はこのようにおっしゃられて、義政様や他の御所にいる者たちに噂話が事実無根であると主張して回らせたのだが、そんなことで噂話が消えることは無かった。
「皆様……!どうか聞いてくださいませ!!」
御所にいる女房達が集まっている前で、私の侍女の一人、花山院妙子が緊張に顔を青ざめさせながら話し始めた。
「皆様の噂話は事実無根なのです!陛下のお相手は御台様ではなく……私なのです!!」
皆の前で緊張に声を震わせながら、花山院妙子は告白したのだった。
「ええ??本当に??」
「花山院家と言えば公家の中でも左大臣まで出している名門の家のはずですけど……」
「今はただの侍女なのでしょう?」
……本当にそれが真実なのだが、私が帝のお相手出なければ面白くないのか、女房達は彼女の必死の告白をあまり本気にしなかったのである。この噂話は御所の中だけでなく、畿内に広まっていたようで、御所に出入りする遠くからくる商人なども女房達と噂話に花を咲かせていた。
だがさすがに半年たって花山院妙子のお腹が大きくなってくると、彼女の話が真実だと皆が認識するようになった。そしてそれを誰かかから聞いたのか、義政様は小川に自分で建てた御所から室町御所に戻ってきたのだった。
「帝にずいぶんご心配をおかけしたようなのでな」
義政様はそう言って早速帝の許へ赴いて、帝に謝罪した。
「ただいま戻ってまいりました。私と御台のことでずいぶんご心労をおかけしまして、申し訳ありません」
「いや、この度のことは私の不徳の致すところでお前たちに迷惑をかけてしまった。こちらこそ申し訳なかった。詫びに私は髪をおろして出家しよう」
帝がまたそんなことを言うので私と義政様で必死にお止めしたのだった。
帝の前では殊勝だった義政様だったが、私に対しては……目も合わさず、一言も口もきかなかった。……私が悪いとでも言いたいのだろうか?勝手に誤解して私に事実を問いただすことも無く勝手に出て行ってしまったのは義政様だというのに?義政様に謝れとは言わないけれど、私が責められるのはあまりに理不尽だ。
この時から私と義政様はほとんど口を利かなくなった。一応夫婦なので形式として必要な時は夫婦として振舞うけれど、必要なければ口もきかなければ目も合わさないようになったのだった。
もう少し仲良くできなかったのだろうかと思わなくもない。しかし政略結婚で愛し合っていたことなどひと時もないのに……私は義政様の愛を乞おうとは思えなかった。おそらく義政様は犬のように自分に懐き、従い、愛を乞うような女を好んでいる。これまで義政様が寵愛しておられた女たち……今参局や大館佐子などもそんな女だった。私も大人しく従順に振舞っているときは義政様に優しくされていたと思う。……しかし今は……そんな可愛い女の演技をしてまで義政様の愛を得たいとは思えないのだ。私は義政様のどこまでも自分本位で冷酷な面を知ってしまった。あんなに寵愛していた今参局も、比較的仲の良い兄弟だった義視様も簡単に切り捨てる義政様である。政略結婚で結びついたに過ぎない私など……都合が悪くなればどのように扱われるのか想像に難くない。それを思うと私は心が冷えて、義政様の関心を引く演技などする気になれないのだった。
家庭内でこんなくだらない争いが続いている中、外でも泥沼の争いが続いていた。大名が表立って矢面に立つ大きな戦はもうほとんどなかったが、大名に属する足軽たちがいたるところで小競り合いを繰り広げていた。足軽達というのは、地方で食い詰めて京に集まってきてしまった農家の次男や三男であるものが殆どで、侍ではないので、戦い方がとにかく汚かった。少数を多数が叩き、不利と見れば脇目も降らずに逃げる。そして戦うついでに他人の屋敷に押し入り、金目の物を奪っては火をつけるのだ。こんな戦だか略奪だか解らないことが京の至るところで繰り広げられていた。
始まった頃は細川殿も山名殿も短期で戦が終わると見込んで大兵力を投入して始まった戦だったようなのだが、あまりに戦力が拮抗しすぎていて短期に終わらなかった。短期に終わらないことが分かった時点で細川殿と山名殿は手打ちにしたかったようなのだが……配下の大名たちがそれぞれの利益を守るために休戦に反対したのだ。畠山義就殿はは畠山家の家督を守るため、赤松政則殿は山名殿から奪い返した旧領を確保するため、大内政弘殿は所領と官位を得たいがため戦を続けたがったそうだ。何度も話し合いは行われたものの、まとまることは無く……戦はもう始まってから5年を過ぎようとしていた。そのうち休戦の話がまとまらない責任を取ろうとして細川殿は髻を切って出家しようとしたとか、山名殿は切腹しようとしたとかいう話まで聞こえてきたのだが、休戦の話はそれでもまとまらなかったのだった。
そして乱が始まって七年経った文明五年(1473年)のこと、両軍の大将、山名宗全殿と細川勝元殿が相次いで亡くなった。これを機に、細川家を継いだ政元殿……政元殿はまだ八歳なので細川の分家の当主であり、政元殿の後見人である政国殿と山名家を継いだ政豊殿が文明六年四月(1474年)、和議を結んだ。二人はこれ以上無意味な争いをすることに嫌気が差していたのだろう。
しかしこの和議は主戦派である赤松殿や畠山義就殿や大内殿には秘密で行われたのだ。彼らは依然として戦をやめる気はなかった。それなので、京都の町は依然として武将たちが兵を止めており、再び衝突が起きる危険をはらんでいた。中でも西軍の有力武将の畠山義就殿は徹底的に戦う姿勢を崩してはいなかった。
そんな中で文明五年の一二月、九歳で元服した私の息子義煕が名を義尚に改め、義政様から将軍の座を継いだのだった。
元服の儀式は室町御所で行われた。加冠(烏帽子をかぶせる役)は義政様が、理髪(髪を結う役)は朝廷の記録係である広光殿がなされた。帝より義尚の名を賜り、正五位下、左中将、征夷大将軍に任じられたのだった。戦の最中であり、京に在住の公家も少ない。しかも公家は兵力がないので、戦の中年貢を取り立てに行くこともできず、困窮して、儀式の装束も用意できないような有様だった。それでも参仕してくださるのだから、私は装束代として千疋(現在の100万円くらい)を差し上げた。儀式は人も少なく、質素なものとなってしまったのだが、私は息子のため、できる限り立派な元服の儀式となるよう、計らったのだった。義煕改め義尚はまだ幼さが残るものの、黒髪が美しい、顔の整った凛々しい姿をしていた。私は義尚が立派な将軍となるよう、できる限りのことをしようと、改めて心に誓ったのだった。