幼少期
「お前は将軍の妻になるのだ」
私が物心ついてから、繰り返し兄様にそういわれていた。
私の生家は日野家と言って、足利三代将軍義満様のころから将軍の正室を出している家だ。我が家は日野裏松家という分家だったのだが、私が幼いころ本家が没落してしまったので、今は我が家が本家の扱いを受けている。そしてその我が家は中流の公家であって、武家ではない。それが武家の連立政権である足利将軍家には都合の良い存在だったらしい。まあ、そればかりではなく、兄様が繰り返し私に刷り込んでいたように、日野家は将軍の妻を出すために様々な努力をし続けていたらしい。その甲斐あって、日野家は公家の中では中流でありながら裕福な家だった。
しかし私が幼いころ、日野家は困窮していた。元の当主が元将軍義教様に嫌われ、閉門され、自宅謹慎することを命じられたのち、暗殺されてしまったからである。その後を継いだ私の父正光も将軍には遠ざけられたままで、所領も次々に取り上げられてしまった。私が産まれた頃は、屋敷はそのままの物を使っていたものの、修繕もできないので荒れつつあり、使用人たちも減らさなければ暮らしていけないような状況だった。
そんな状況が変わったのは元将軍義教様が暗殺されてからだ。元将軍義教様は自分がくじで決まった将軍であったのを気にしていたのか、自分の気に入らない人間を次から次に註していた。そして恐怖政治をしていた彼は、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまった、赤松家の当主に暗殺されてしまったのだ。その当時、我が日野家は義教様に冷遇されていたものの、少しづつ元の権利を回復していた。そして義教様の死後は我が家の当主も元どおりに扱われるようになったのだった。新に当主となった兄様は努力の末、朝廷と幕府を取り持つ立場になった。その為日野家は所領も回復され、安定した収入が得られるようになったのである。
安定した暮らしとなった後でも兄様は収入を増やす努力を怠らなかった。幕府の倉奉行や土倉の人とも付き合ってためたお金を利殖にまわして増やす努力をしていた。そしてさらに力を得るため望んだのが私の将軍との結婚であった。
公家の娘は普通は公家の嫁となるのだが、なれなかったものは宮中に仕える女官となるか、尼になるしかなかった。……というより尼になるものが殆どだ。そんな中で将軍の妻になるというのは最高の立場だった。他の公家ももちろん娘を将軍の妻にしたい。だから兄様は積極的に私を将軍の妻にすべく、方々に働きかけてもいたようだ。何しろそうすれば自分も出世できるのだから。しかし私は将軍の妻になるのは嫌だった。なぜなら一度叔母様のところで現在の将軍に面会したことがあったからだ。
「何だこの乳臭い娘は?この娘が日野家の娘?これが私の妻になるなど……母上冗談も程々にしてください。私の妻はお今がいるので十分です」
叔母様に紹介された私を見て義政様はこう言い放ってあっという間に立ち去って行った。一緒にいた兄様も私も唖然としていた。
「せっかく来ていただいたのに……申し訳ない」
叔母様は苦虫を噛み潰したような顔をして私たちに謝罪した。
「いえ、叔母様のせいではありませんから。気にしておりませんよ、大丈夫です」
叔母様に謝罪され、やっと驚きから覚めて私は返事をした。
叔母様は現在の将軍義政様とその亡きお兄様の生母で、元将軍義教様の側室の一人だった。叔母様は日野家の出身であるから、日野家の為にまた将軍家に日野家の娘を嫁がせるのが叔母様の希望だった。だから私が将軍に面会できるよう、取り計らってくださったのだが、逆効果だったようだ。将軍はどうやら年上好みらしい。将軍がお今と呼んでおられた、今参局という将軍より10以上年上の女に夢中で、言いなりになっているという噂は本当だったようだ。兄様も叔母様もそれでも私を将軍の妻にしたいようだったが、私は全く気乗りしなかった。
「お母様、宮中で働いている方とお知り合いなのでしょう?どんな仕事なのかお話が聞きたいです」
社交的な母は知り合いがたくさんいるので、頼んでみた。将軍の妻にならないのだったら宮中で働くしかない。きっと他の公家の方との結婚はさせてもらえないだろうし、尼になるのもまだ気が進まない。残る選択肢はこれしかないのだ。思い立ったが吉日で将軍と面会したその日にお母さまにお願いした。どうせなら出世したいので、どんな仕事でどんな教養が必要なのか、働いている方から直接聞いてみたい。私は即座に切り替えて行動した。夢のような幸せなお姫様になるのは夢だったけれど、相手があの将軍では叶うまい。
「そうねえ、何人かいらっしゃるわよ。今度お招きしてみましょうか」
母はにこやかに答えた。母の実家は今小路家で、代々女官になる方が多い家で、母の知り合いにも女官になった方が多い。こうして私は母のもとに訪れる女官の方から宮中の様子や儀式の様子など伺ってみた。
宮中の女官の教養としては和歌や一般的な学問の知識が広く浅くあればよいらしい。そして宮中で最も憧れの女官は『大納言典侍局』というもので、天皇の勅旨を伝えたり下々の者の請願を天皇に伝えたりする役目をしている方なのだそうだ。様々なお話ををうまく要約して伝える役割で、多岐にわたる知識が必要なのだそうだ。私は人の話を聞いていろんな知識を得るのは楽しいから、『大納言典侍局』は私に向いているかもしれない。
幸い私の家は様々な人が訪れる家であった。兄様の知り合いである幕府の役人や、土倉を営むもの、母の知り合いの公家の女性や宮中の女官などいろいろな方からいろいろな話を聞くことができた。世の中の様々な知識を蓄えれば女官としてとても役に立つだろう。私はそう思っていろいろな方々がお話をしているのを聞いていろいろな知識を蓄えてみた。しかし私の女官になって出世してみたいという夢はすぐに打ち砕かれた。
「叔母様のところに行って、将軍にまた顔を見せてこい」
兄様にまた将軍と面会することを命じられたのだった。前に面会した時から5年は経っただろうか。しかし何度会っても私のことを気に入るとは思えないのだけれど。しかし兄様の命令は絶対なので逆らえない。仕方ないので叔母様のところに向かった。
「今日義政殿が私に会いに来るから、富子殿は義政殿にお菓子を出しに来なさい」
叔母様は私に給仕の女に紛れて顔を見せようとしているらしい。きっと『日野の娘を連れてきた』と言うとあってくれないに違いない。なにしろ将軍は年上好みなのだからしょうがない。私が年下なのは一生変わらないのだから好みの女には一生なれないだろう。しかし兄様と叔母様の命令なので面会しなければならない。本当に面倒だ。
私は叔母様の言うとおり、将軍と叔母様がお話されているときにお菓子を出しに出て行った。将軍は私の顔を一瞬凝視したようだったが、気にせず給仕の女らしくにこやかに無関心を装って折り目正しく振舞った。
将軍義政様はもう20歳になったころだろうか、どことなく雅な雰囲気を持った青年になっておられた。しかし深酒と女漁りが激しいという噂はおそらく本当なのだろう、どことなく不健康な様子で、お年寄りずっと老けて見えた。私はそんな風に将軍を観察しつつ、どうか私に気を留められませんように、と祈っていた。
「今度は将軍が我が家にやってくる。お前は小袿を着て用意しておけ」
叔母様のところで将軍にさりげなく顔をお見せした何日か後、兄様が言った。日野家に将軍がやってくるということらしい。ということは、どうやら将軍は実母である叔母様や遠い親戚である兄様に押されて私を迎えるつもりでいるらしい。将軍のお気に入りの側室たちは身分が高くないらしく、御台所にはなれないので、お飾りの御台所に私を迎える気なのだろうか。気に留めてほしくなかった私の祈りは通じなかったようだ。
将軍の正室である御台所は公式行事に将軍と共に参加する以外は側室と何ら変わらない。男子を産み落とすのだけが役割であり、政治的に権力を持ったり家政の権能を持ったりすることもない。ただ将軍の愛を他の女と奪い合って子供をなすことだけが仕事なのだ。将軍が好ましい男性でぜひ愛を勝ち取りたいと思うような方だったらそれも本望なことかもしれないけれど……母親代わりの乳母だった女性を側室にして夢中になっているというあの将軍では……。
私は憂鬱な気分のまま小袿に着替えた。公家の女性の正装である小袿は平安絵巻に描かれる貴族女性の裳唐衣を簡単にしたもので、小袖の上に美しい色合わせになるように、袿を幾重にも重ねて着る。袿を着たら髪を長く垂らして丹念に梳かし、椿油を塗って美しいつやを出すのだ。
このように着飾って用意が終わった丁度そのころ、兄様がやってきた。
「将軍がいらっしゃったからご挨拶に出るんだ。余計なことはしゃべらず、聞かれたことだけに応えるようにしろ」
「わかりました」
兄様の言うことに素直に従って、少し後ろを大人しく歩いていくことにした。将軍の御台所になりたくはないけれど、兄様に養われている以上兄様の言うことには逆らえない。私の意思など関係ないのだ。
「勝光殿の妹御か?」
兄様に連れてこられた私を見て将軍が言った。人定質問だろうか?以前あったことがあるのを忘れているのだろうか?
「はい」
聞かれたので、兄様にいわれたとおり、簡潔に答えてみた。
「以前あったことがあるはずだが……ずいぶん大人びたな。……いくつになられた?」
どうやら将軍は面会したこと自体は覚えていたらしい。五年ほど前の事なので顔を覚えていなかったのだろうか。
「十六になりました」
これもまた簡潔に答えてみた。横では兄様が渋い顔をしている。余計なことをしゃべるなといったのはあなたなのだから不満そうにしないでほしい。
将軍に年を答えた後は兄様と将軍の雑談が始まったので私は黙って聞いていた。どうやら将軍はお母さまである叔母様だけでなく、管領の方々などにも御台所を娶るよう、言われているらしい。将軍は女の子供はすでに何人もいるのだが、まだ後継者たる男児は生まれていない。そして今ある側室たちは家格の高くない方々であるばかりでなく、全て将軍より年上なので、早く後継者を作ってほしい部下の方々にはこのままでは不満があったのだ。私なら家格も年齢も誰も異論がないらしく、あとは将軍が受け入れるかどうかの問題だけであったようだ。
「では、話を進めてくれ。後は頼んだ」
いろいろな雑談の後、将軍はこう言って我が家を後にした。
「富子よくやった。将軍は従順で自分の意見など言わない女が良いらしい。うまく取り繕えたな」
兄様は機嫌よく私をほめた。何だろうそれは。本来の私の性質であれば好みではないということではないか。私はただ黙っていただけだというのに。こんなことでごまかされるなんてあの方は大丈夫なのだろうか?
私の不安や不満は一切無視され、こうして私の将軍家への嫁入りが決まったのだった。