03
恐る恐る目を開けば、世界は柔らかな光で満ちていた。
光の魂たちが、さざなみのような微かな話し声を響かせて、ひとつまたひとつと、溶けるようにして消えていく。
「全てを忘れる頃に、君達はここから消える。そうして新しい命に生まれ変わる。本当にここでの時間が、君の今生で最後の時だ。ここにいれば自然と記憶は薄れていくが、誰かに話すことで自分から記憶を置いて行くこともできるが……君はどうする?」
「僕の話を、聞いてくれる?」
迷わず問い掛けた僕に、どうしてか彼は驚いたような顔をした。全く、変なところで鈍いカミサマだと、ちょっとだけおかしく思った。
「私で、いいのか」
「他に誰がいるの。それに、あなたが良いんだ」
「……そうか、ならば聞こうか。君の話を」
僕たちは遥か高く遠く、空の見える場所に並んで腰かけて、沢山の話をした。と言っても、話したのはほとんど僕で、彼はそれに頷きながら時折口を挟んだだけ。
彼は優秀な聞き手だったし、僕も思いつく限りの話をした。そして、話す度に一つずつ、僕の中から思い出が溶けるように消えていった。
母さんに聞かされた、僕の生まれた時の話。幼稚園の時の初恋の女の子。小さい時の夢の話。誕生日パーティーでケーキを食べすぎて気持ち悪くなったこと。小学生の時に飼い猫が死んで悲しかったこと。初めての恋人との甘酸っぱい時間。受験に落ちて泣いたこと。猛勉強して次の年、志望校に受かった達成感。サークルの友達と朝まで自分の夢を語り明かしたこと。
色々後悔もしたけど、きっと僕は幸せな人生だったこと。
「……うん。僕は、幸せだったよ」
「ああ。愛されて、いたな」
「うん。僕は愛されていたんだ、沢山の人から。生きてる時は、気付かなかったみたいだけど」
また一つ、何か大切だったはずの思い出が、僕の胸から零れ落ちて消えた。それでももう、怖くはなかった。
「話は、尽きたか」
「うん、これで全部。これが、僕の全部だ」
「そうか」
あの優しい笑みを浮かべて、彼は頷いた。
これで、本当に最後なのだと感じた。
「……ここで、お別れ?」
「ああ……そんな不安そうな顔をするな。君はもう、大丈夫だろう」
「ううん。僕のことじゃなくて、あなたの心配だよ。カミサマ」
「私の、こと」
意外そうな顔をして瞬きをする彼に、僕はちょっぴり呆れて笑ってしまう。
「あなたは、ここで独りになっちゃうのかな、って思って」
「ああ。私に思い出を話して時間を過ごそうとする奇特者は、後にも先にも君だけだろうからな」
「寂しく、ないの?」
「さびしい、か……」
彼は舌の上で言葉の感覚を確かめるように呟いて、瞳を閉じた。
「私は、生まれ出た時から独りきりだった。ただ、人の世界を眺めているだけで、誰かと会話するということも知識としてしか知らなんだ」
「うん」
「……だが、君と出会って、他人の感情に満たされることを知った。他人の温もりを、知った。だから、それが失われる今この時」
淡い空色の瞳が僕を優しく見詰めた。僕は頷いて、彼の言葉を受け容れた。
「この瞬間に溢れる感情が、きっと『さびしい』と言うのだろう」
そっと落とされた言葉を、抱き締めて。
僕と同じ場所で、僕と向き合って話してくれた彼との時間が、こんなにも愛おしかった。
「ここに留まる、などとバカなことは考えるなよ?」
「そんなこと、しないよ。あなたが背中を押してくれるんだもの。でも、それでも、名残惜しいね?」
「……君の一生など、神の時間に照らせば瞬きのようなものだ。また君が、船に乗る時が来たら、私が迎えに行ってやる」
「そっか。それは心強いね」
顔を見合わせて、普通の友達みたいに笑い合って。ああ、これが本当に『最後』なんだと理解した。
「僕、あなたに出会えて、同じ船に乗れて良かった」
「ああ。私も、君と出会えて良かった。楽しい旅路だった」
もう一度だけ、視線を交わして。もう、歩き出さなくては。新しい僕の人生を。
「それじゃあ、いってきます」
「ああ」
君の旅路に、幸あれ
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