第一話
迷宮を出たヒイロが最優先としたのは資金調達である。なにしろ無一文の素寒貧だった。
先立つ物がない以上、冒険者としてやっていく前にそもそも生活が成り立たない。
それでもヒイロは一式の装備が、鎧と剣があるだけまだマシと言える。拾われてなかったらどうなってたことだろう。ある意味、悩まずに済むのであればあそこで凍死するなり、殺された方が楽に済んだのかもしれない。
卑屈な考え方だ。失ったものばかり数えてどうするのだろう。足るを知れ。切り替えてあるものを数えればいい。
少なくとも、最初から一人迷宮を彷徨うことになるよりは、よほど良い状況から始められるのだ。感謝しても仕切れない。
他の異邦人はどうしてるのだろう。異世界人というべきか。帝国の外から来たことは間違いないが、外国人と同じような扱いを受けることには違和感がある。
ともあれ、異世界人は迷宮より訪れる。自力で上がるか、助けられるか、殺されるか、野垂れ死ぬかはそれぞれ。
運良く地上へと出ることができたとしても、社会的な地位が保証された後ろ盾はない。そんなわけで義勇兵として身を立てる。
異世界人という言葉は、帝国の人間も受け入れている。変な言い方だが、他に世界があるということには抵抗がないようだ。
ヒイロとしては、世界地図が生まれていないのではないのかと疑っている。彼らにとっては帝国が世界であって、どうあれ他の国は異世界のような括りであるのかもしれない。
迷宮では魔物が生まれる。彼ら異邦人の正体は魔人ではないかなんて、眉唾の説もあるくらいだ。
そんな中で異世界人が排斥されないのは、金のために迷宮へと入るからで、そうして迷宮より出てきた品を外で売ると儲かる。
なんとも現金な話だが、そのおかげで暮らしの目処が立つのだから、ありがたく便乗させてもらおう。
「それでも絡んでくる馬鹿はいる。冒険者という言葉にあまり反応するな」
「俺からすると、迷宮に潜るのは探索者なんじゃないかって思うんだけど」
「知るか。どっちでも同じだ。……これを頼む」エドの知り合いの商人へと、ヒイロの身元証明である衣服を売却する。
「ふうん、なかなか悪くない」異世界人の服は、それなりに高額で取引されるらしい。
「誰が買うんだ、そんな服」仕方がないとしても、元の世界の思い出の品である。手放したくなくて悪態をつく。
「これが売れるんだよねぇ。お貴族様なんかにはウケが悪いんだが、都の方に持っていけば金貨一枚ってとこだ」銀貨二十枚を出しながら、悪びれもせずに告げられてしまう。
「私が銀貨三十で買うのになぁ」ミミリリに買われるのならヒイロとしても、気恥ずかしいこと以外はありがたいのだが。
「それはヒイロのためになりません」ニーナは甘やかしてくれるばかりではない。
硬貨に彫られた絵で価値が変わるが、銅貨の百倍、金貨の百分の一の価値を持つのが銀貨で、一日で使う量が、食費だけでも銅貨で十枚、仮住まいというか、部屋を借りるので更に銅貨五枚。
少なくとも百日は暮らしていける計算になる。まあ、生活の質はだいぶ落ちるんですけどね。
病気や怪我のことも考えたり、装備品の手入れなども考えるとそこまでの余裕もない。
例えばだが、怪我をした時に神官がいれば回復してもらえるが、そうでなければ売られている水薬を買うしかない。
水薬が一つ銅貨五十枚。あまり頻繁に使いたいとは思えない。実際に治したこともないために、信用も低い。
水薬も日が経つことで効果が落ちるため、探索前に購入が必要になる。早々に自分がいくらくらい稼げるか試さなくては、水薬だけで赤字になりかねない。
「当面の目標は銀貨二十枚。義勇兵団の団章を買う為に必要な金額でもあります。団章を持つことで身分証となり、迷宮都市以外にも行動範囲が広がることでしょう」
「それまでは見習いも良いとこってことだよ雑魚」チンピラのいうことは笑ってやり過ごす。笑ってやり過ごせるか、舌打ちを返されるかは運だ。
目標が決まり、当面の資金も得られてた。
紹介された宿は、エド達が新人の頃に利用していたもので、義勇兵でなければ泊まれない場所で、今晩は一人で過ごすことが確定しているようだ。
正直、あまりいい部屋ではない。鍵こそあるものの、ひどく頼りない扉だ。寝られるだろうか。寝るしかないんだけどさ。明日からエドとの訓練が始まるわけだし。
* * * * *
「お前はまず、基礎体力を鍛えるべきだ」
エドの訓練はとにかくこの一言に集約された。
剣の使い方がどうこう以前に、身体作りが出来ていないと言われてしまえば、そうですねという他にない。
カッコいい剣の型とかを教えてもらえるのだと思っていたヒイロとしては肩透かしな話である。
とにかく鎧を着て、剣を持って走る。疲れたら歩いても良い。立ち止まることだけを禁止されているが、のんびりしていると後ろからアルフが剣の腹で殴りつけてくる。エドもこれに何も言わない。
「甘ったれたてんじゃねえよ。何もかも人頼みのくせして、よくもまあ自分は不幸ですみたいな顔ができるもんだぜ」ここぞとばかりに不満をぶつけてくるアルフの表情は、それはもう輝いていた。
弱いものいじめが好きなんだろう。そうなると弱いものはヒイロということになるので、いじめられてばかりではいられない。
最初こそ確かになぁ、などと受け入れていたヒイロだが、それで大人しくなることはなく、寧ろ燃料投下とばかりに叩く力は苛烈に、言葉は棘を増していく。
「ミミリリはなぁ、お前みたいな妙ちきりんなヤローを可哀想だって思ってるのかもしれないけど、勘違いしてんじゃねえぞタコ。お前が来てから俺たちの探索の時間は減るわ、パーティで飯を食おうとしたら目障りな蝿がチラチラ視界に映ってはミミリリが構いにいくもんだから俺との時間が取れねえだろうが。迷惑料を払いやがれ蝿野郎。自分がデカい蝿であることを自覚しろ。飯が不味くなんだろうが」いつかこいつは殺そう。
義勇兵として身を立てる。強くなるという当面の目標が曖昧なものであったヒイロだが、訓練の時間が経つにつれてアルフをいつか殺すことへいつしか明確に変わっていた。
「殺す殺す殺す殺す殺すコロスコロスコロスコロスコロスころすころすころすころすころす」
ヒイロが殺意に目覚めたのはいうまでもないし、言い訳もせずアルフはいずれ殺すつもりだが、壊れたラジオみたいに同じことを唱えるのはこうでもしないとまともにアルフの言葉が聞こえて来て我慢が出来ないからである。
決定的となったのはヒイロが疲労と怒りの両方が限界を迎えて倒れた時である。
意識が朦朧とした状態のヒイロを、こともあろうに兜に向けて剣を連打してくるのである。
水を飲むような休憩の時でさえ構わず叩き続ける畜生のせいでヒイロは鎧を濡らさずに水分を取ることが不可能であり怒り心頭であったが、倒れ込んでまでしばき倒すというカス外道な行いに、ヒイロは激怒した。あまりにも邪智暴虐が過ぎる。
これを見逃している。というか意図して向かわせているエドにまでも怒りの矛先が向かう勢いである。
「死ねよやぁ!!!」死ねやコラァという言葉がもはや意味をなさない勢いだった。
渾身の力を込めた反撃は、なんでもないように打ち払われて、そのまま返す形で殴られる。
兜で返されたヒイロの表情はハプルポッカそのものであり、叫び声は二足歩行のマーモットのそれである。
もはや人であることを諦めた男の怒りは、ついぞ届くことなく鎧の上から殴られ続けた。
体力が着いたというより、身体の使い方を染み込まされたりという方が正しい。
最初はとにかく呼吸が乱れた。身体は重たく、息は荒い、足は一歩も踏み出せないときだってある。
とにかく一本化されてない。
変な話だが、身体がバラバラに動いているようにさえ感じる。
足は踏み出したい、肺は呼吸したい。
この二つの動作が、同じ身体の中で喧嘩をしているようだ。
息を吸い込めば肺は膨らむ。足を着地させれば身体は揺れる。
この衝撃のタイミングで、呼吸が阻害される、身体の酸素がじわじわと失われて行くように感じる。
最初は、俺に体力がないだけだと感じていたが、アルフへの怒りを募らせて、叫びながら踏み出した一歩が、いやに力強く踏み込まれて転倒した。
まさかと思い、踏み込みを利用して吐き出す、吸い込むを繰り返してみると、身体にようやく、走るという動作が馴染んだ。
武器を振るとかいう以前に、身体を動かすことが下手だったことを遅れて理解させられた。
(……いや、口で伝えてくれよやぁ〜)
エドの指導の、とりあえず身体で覚えろ感は異常。失敗すると吐きかねない。一歩間違えたら酸欠で死ぬんじゃないかと、恨みがましくも思った。
そんな日々が一週間も続ければ、『エドの鍛えた剣士ヒイロ』としての評判が上がっており、ちらほらとだが新人義勇兵のヒイロにもパーティの勧誘が来るようになった。
(剣なんて未だに教えてもらえていないに等しいのに……)
迷宮都市は広いが、迷宮の近くに拠点を構える義勇兵のコミュニティは狭い。
故に、お互いが顔見知りとまではいかずとも、どこに誰がいて、どんな実力をしているか、という評判が耳に届くようになり、名前を聞く回数が多い人はとりあえず強く、ヒイロは食事の際に、エドの名前を数回と聞いており、続きヒイロも探るような目を向けられる。
それは新人冒険者からも同様で、ヒイロは現在、特別何かを成した訳でもないのに期待を寄せられる、なかなかに居心地が悪いような気分でいた。
運が良いのか、悪いのか。
「ひひひっ」 ヒイロの小さな溜息を耳にして、意地悪そうにミミリリは嗤う。
ヒイロが生活する場所はエドのパーティは把握していて、特別ミミリリは様子を見にくる。
アルフにはこれがムカつくらしいから、あいつへの嫌がらせの手札としてはこれが一番においている。
そうすることでヒイロの評判は捩じくれ曲がるのだが、ミミリリはその評判を聞くたびに面白がってヒイロへと耳打ちする。
「ヒイロ、ミミリリみたいな良い女を捕まえて、良い身分だなってさ! ひひっ」
笑えない。笑いどころが分からない。アルフへの揶揄いが含まれた噂のせいで、やつの攻撃がより苛烈になったことを考えると、噂の出所へ文句のひとつくらいは聞かせてやりたい。
「可哀想だと思うなら、距離を開けてくれ……」と言えば、ミミリリは寧ろ近づいて来る。気分は良いけれど、評判は悪化する。複雑な気持ちになる。
「ヒイロ、まだどこのパーティに入るか決めてないんでしょう? うちにおいでよ」という勧誘の言葉ももう何度目かになるが、ヒイロは首を振った。
「流石に、実力が見合わない。後衛ならともかく、エドのパーティに入って生き残れると思うほど、俺は自分を信じきれない」
実際ヒイロも考えなかった訳ではない。けれど、今のままでは足を引っ張るのは明白である。いつかアルフを血祭りにあげたとき、その席を奪いたいとは思うくらいだ。
それまでは、別のパーティで動くべきとさえ思っている。優しさにばかり、甘えていられない。
だからといって、エドありきのヒイロの評価に乗っかっておくことは間違いだとは思わない。
使えるものは使っていくべきだし、誰かと仲良くなりやすい。舐められないと言うのが、力を中心とした社会の中でどれくらい生きやすいかを実感している。
それに、良いことばかりでもない。
エドの知り合いだという話で、むしろ喧嘩を売ろうとしてくる人間も、中にはいる。理解し難い世界だが、自分の方が強いという挑発に使おうという噂まで立っている。
いざ迷宮で計画的に襲われでもしたら、今のヒイロにどこまで抵抗できるだろう。
そうなるくらいなら、自分一人で迷宮探索した方がいい。
「ーーだから、同じ新人で探してる」
結論を話すと、ミミリリは笑みを深めてこちらに向ける。背が小さく、顔立ちが幼いミミリリだが、纏う空気は老獪な魔女にも見える。
「ひひひ」という笑い声に含まれる感情が、特別上機嫌なことを感じ取ってヒイロは見透かされているような居心地の悪さを覚えた。
「いいね、すごくいいよヒイロは。冒険者してる」どうも、子供扱いされているようにしか思えない。
「……そうかな」曖昧な返事で濁すとミミリリは嬉しそうに身を寄せて来る。
ヒイロは別の意味で頭が真っ白になりそうになった。正直、すごく怖い。そして色っぽい。……艶っぽい? それでいて、少しだけ離れ難い。
これではアルフの言う勘違い野郎も否定できないではないか。
ミミリリの距離感に、悪い気はしない。寧ろ嬉しいくらいだが、深みに嵌れば戻ってこれなさそうだ。
酒とか、煙草とか、麻薬とか、そういう退廃的な物と同じ空気をミミリリからは感じるのだ。
優しさに依存しそうになる。ヒイロが迷宮へと迷い込んだ日を、何度忘れようとしても、暖かさがちらついてしまう。
いっそ、何も考えることなく溺れて仕舞えば。なんて思うが、そうすれば立ち上がれなくなる。帰る理由を忘れてしまうだろう。
カス外道ことアルフは、深みに嵌る前のヒイロに警鐘を鳴らしていて、おそらく本人はもう戻らないところにいるのかもしれない。
ミミリリという女は誰に対しても距離感が近い。エドのようにきっぱりと離れられたら、こんな苦労もしないだろう。
ヒイロの悪評の部分はミミリリとアルフで占められているのは、自業自得だった。
そんな評判もあって、女性の義勇兵はまずヒイロに近寄らない。
逆に男性の義勇兵はミミリリの感想を聞いて来るのだから、これはこれで話題の種として役に立っている。ポジティブに考えよう。
下世話であろうとも、話しかけてくるだけの社会性があるのならば引き入れてみるべきか、悩むところだ。
「じゃあ私が入るよ」気軽に爆弾を投下された。
「え、は?」真面目な顔のミミリリと目が合う。「いや、それはダメでしょ。……エドのパーティはどうするの?」
「抜けることになるね」体をこちらに傾ける。「ヒイロのパーティの方が面白そう。……だめ?」
「それは……」改めて選択肢を与えられる。
戦略としては申し分ないが、それだとエドのパーティから引き抜きの形になる。
「……ダメかな。ミミリリが戦力として魅力的なのは認めるけど、エドに喧嘩を売りたくない」
情けない理由だと思う。
それでも、一番信頼を置ける人物はエドだ。恩を仇で返すのは憚られるし、恨まれることを避けたい。
困った時の保険になるかは分からないけど、選択肢から外れるのは気持ちの余裕に関わる。
戦士としての師匠でもある。訓練をつけてもらえないとなれば、それだけで詰みかねない。
「振られちゃったかぁ」なんでもないことのように引っ込めた。心臓にはあまりよろしくない。
「エドのパーティでのご活躍を、お祈りいたします」魔術師を仲間に引き入れる、良いきっかけにはなった。
ミミリリは笑って「後悔しても遅くないからね〜」とだけ付け足して、酒場を後にする。
あまり迷わせて欲しくないので、さっさと仲間を募ってしまおうと決意が固まった。