後編 私の書いた小説が消えずに存在している、読んだ人がいる、という衝撃の事実に行きあたる
社会人になると本当に忙しくて、だんだん書けなくなった。大学の友人が言ったことは、半分は当たっていると思う。
新入社員として働いてきた会社も数年が過ぎて、疲労とストレスから胃炎が悪化し、結果的に退職。その後転職して仕事はラクになったが、その分習い事に夢中になり、あまり書かずじまい。
それでも、時々思い出しては何か書くという具合いで、完全に小説を書くこと自体は諦め切れずにいた。「いつか時間ができたら」という気持ちが常にあった。
更に月日は流れ、結婚。要領の悪い私は、家事と仕事で毎日いっぱいいっぱいだった。そして、子どもを出産。
子どもが生まれて、初めて今まで自由な時間がたくさんあったことが分かった。「どうして、今まで書かなかったんだろう」とひどく後悔することになった。
少子化社会にこんなことを言ってしまうのはどうかと憂慮するが、子育てにはそれなりの覚悟が必要だと私は思う。とにかく、自分のことがまるでできない日が延々と続くのだ。何をおいても、子どもの生命が大事な生活。授乳、オムツ替え、物言えぬ赤ちゃんの体調を気遣い、疲れていても自分のことを差し置いて、夜中に何度も起きたりしなければならない。
もっとも、大人の人の99%は私より器用なはずなので、私だけがものすごく大変に感じていたのかもしれない。
更に少し経つと、子どもの成長が必ずしも順調でないことに気づいてしまった。相談機関に通い、療育に通い、結局三歳の時に発達障害の診断がついた。
一説によると、発達障害の子は「普通の子に比べて五倍も丁寧に手間暇かけて育てなければならない」という。聞いた瞬間、両手で頭を抱えて「うわあああっ」と叫びたいくらいな話だった。大げさかと思われそうだが、日中ずっと五つ子の世話を一人でやらなきゃならなくなった、という場面を考えてほしい(あっ、でも子どもの人数はひとりだったか。ちょっと例えが違うかなあ)。
子どもには、強いこだわりがあって、できないことがたくさんあり、感覚過敏も相当なもので、日常生活さえままならない。
昼間はそんなトラブル対応で終わってしまい、夜子どもがやっと眠ると、今度はネットや本で何か解決方法はないかと調べて終わる。いつまでもいつまでもそんな日が続き、いつしか毎日くたくたになって布団に入るのが当たり前となった。
すると。
いつのころからか、何やらささやき声が聞こえる気がするようになった。その声は私に「今日は、何もしていないよね」と呼びかけてきた。
最初は無視していたが、その声は小さくなったり大きくなったりしながらも、ずっと寝る前のひと時に忍び込んできた。
「何もしていない」「そんなばかな」
「何もしていない」「そんなことない、今日もトラブルだらけで、どうしたらいいか調べた。解決しなかったけど」
「何もしていない」「どうしてそう思うの。だって、時間ないじゃない」
「何もしていない」「そうだよ、その通りだよ。分かっている、分かっているよ!」
もともと、自分一人の時間を持って、ゆっくり本を読んだり、物語を考えるのが好きだった。そんな時間は全くなくなってしまった。
育児書や家事の本しか読んでいないまま何年も経っている。お話の一片でも考えたことがまるで遠い昔のことだ。何もしていない。それだけじゃない、自分のことを考えることさえない。
私は自分をなくしてしまったのではないのか。
そう気がついた途端、アニメや漫画で意外とよく聞くセリフを言われたような気がしてしまった。
「お前はもう、死んでいる」
……何とかしなきゃいけないのは、子どもより私のほうかもしれない。
やっと失いそうな自分に気がつき、まずは図書館で好きな本を借りて、少しずつ読むようにした。ネットで時々は自分の興味のあること、好きなことを調べたりした。
そのときに初めて小説投稿サイトというものがあることを知った。胸が高鳴った。ひょっとして、自分の書いたものを何でも投稿していいところなのかな。時に2015年のことである。
ところが、ちょこっと調べてみたところ、異世界転生など決まった型があり、それに沿ったもので、主人公にストレスがかかってはいけない、とのこと。当時は「異世界転生」という言葉さえ知らなかった。何だ、やっぱり好きなものを勝手に投稿できるわけじゃないのか。甘かったわ、と思った。
それでも、自分の好きなことを少しでも取り戻そうとしていた。そして、2017年になって突然、なぜかは分からないが、今なら小説が書けるのではないかと感じるようになった。
とりあえず実家に帰省した折に、昔書いた小説などを引っ張り出してみた(変なものもゴロゴロ出てきた。その話はもうしたので、速やかに忘れてほしい)。アイデアが書いてあるだけのもの、途中で挫折したままのものもある。書けるというのは直感でしかなかったが、直感に従って、持ち帰った。
本当に書けるようになるには、また数カ月が過ぎ去ったが、2018年になると、すっかり好きな本を読んだり、自分の興味のあることを楽しむのが普通になっていた。新しい物語を考えてまとめたり、子育てブログをやってみたりもした。
ついに、小説も書き始めた。一日せいぜい二三百字程度。意外と難しくてうまくいかなかったが、それでも書けることが分かって嬉しかった。
そこで、小説投稿サイトについて、本格的に調べた。どうやらとりあえず私でも投稿できることが分かった。もちろん、自由に投稿できるといっても当然のマナーや規定はある。あとは何といっても、どの程度読まれるかを気にしなければ、異世界転生や転移じゃなくてもいいし、登場人物が苦労する冒険をしても大丈夫。自分が登録すればいいだけだった。
実際には、登録にしても投稿にしても、いちいち何度もやり方を確認しなければならず、私としてはそれなりに労力を要した。何しろ、これまで投稿といえば手書き。パソコンで書くにしても原稿用紙の書式で縦書き。こんなに操作が必要なのは初めてのこと。いろいろあったが、今年に入って、何とかショートショートを投稿することができた。
そうしてみると、まずは投稿したものが表示されたままであることが分かって、ものすごく安堵した。これまでは採用されない場合は、二度と見ることはできなかった。それがちゃんと載ったままになっている。すごいことだ。
もうひとつ驚いたのは、その日のうちに閲覧数が20以上もあったこと。短いものなので、多分何人かは全部読んでいるはず。そう思うと、自然と心が躍った。
だいたい、これまで投稿しても読まれたかどうかさえ確証がなかったのだ。もちろん、ネットに投稿するのと雑誌や公募に投稿するのとでは事情が違うという考え方もあるだろう。しかしながら、子どものころを別とすると、小心者の私の場合、書いたものを見せたのは前述の二人くらい。なので、たった一日で十倍の人に読まれてしまった可能性さえある。
しかも、翌日になってもそのまた翌日になっても消えないというのは、どう考えても驚くべきことだった。
おまけに、それ以降の投稿では、ポイントや感想、ブックマークなどをくださる人まで現れた。私の小説は、私以外の人のところにも存在することがほぼ証明されたといっていい。
よくよくサイト内を見てみると、そんなことは当たり前だった。
ついでに、ブックマークが1件あるということは、自分のページの中にさえ私の作品を置いておいてくれる、というかなり尊いお話だと感じたが、これが100件あって初めて底辺作家からの脱出だとかいう話を見てしまった。それなら、0~2件の作品だけの私は、何と呼ばれてしまうのかと心配にもなる。
でもでも。
私の感覚としては、一度でも読まれたらもうそれだけで自分の作品は、他の人にも存在することになるのだから、充分すごいことなのだ。
そもそもこのサイトでは、作品が膨大なものの、訪れる人もとても多い。一度も読まれない作品はほとんどないだろう。すぐに読まれなくなるにしても、ネット上のどこかに存在するようになる。そう考えると、自分の作品を仕上げて、もはや投稿できた時点で「完全勝ち組」だと思う。
自己満足と言われそうだが、自己表現の第一歩は自己満足から始まるのでは、と思っている。
もちろん、ポイントがたくさん入って、たくさん感想が書かれ、レビューをもらい、ランキングの上位に載り続ける、などということがあったら、とても嬉しいことだろうなあと思う(ぼんやりした言い方ですまない。現実感のない話なので)。
ただ私の場合、過去には苦労して書いたすべての投稿作は闇に葬られ、友人に見せることもままならなかった。
今でもテンプレとか流行とかに無知で「べ、別にこれから勉強しますでございますわよ、おほほ」と笑ってごまかすしかない。毎日更新を長く続けて、読者の期待に応え続け、上手に完結まで持っていける人を見つけると「何これチート過ぎ。一体どこの世界から転生してきた人なんだろう」と問い質したくもなる(妬んでないで向上心を持たんか、自分)。そんな私の作品、あんまり考えたくないけど、小説投稿サイトが存在しなかったらきっと、今でも誰にも読まれないままだったに違いない。
おそらく私は、一人の読者もいなくてものんびりと書いている人ではあるのだろう。しかし、やはり一人でも読んでくれる人がいると意識も変わる。
私は、普段本を読んでいても、あとがきがあって、作家の存在を感じられると何だか嬉しくなる。どこかにこんな人がこんなふうに物語を作って書き綴っていったんだなって考える。何かしら書いている自分と重ね合わせると楽しくなり、また新たに何か物語を書きたくなる。そういう意味では、同じサイトの中にいろんな人が感じられるのも、いいなと思う。
私の書いたものが掲載され、同じように書いている人やその作品が自由に読める。
久しぶりに小説を書き始め、このサイトを見つけて、何だか随分と救われる世界に変わっていたなあと思っている。
ついでに、ネット小説大賞の感想サービス409番目に私の書いた小説がある。「コンテストに応募したものが、ちゃんと名前と作品名が載った!」という生まれて初めての経験である。しかも、感想で褒めてもらえて本当にありがたかった。
なお、一次選考の結果についてここで問うことは、固くご遠慮願いたい。
小説を何とか書くようになっても、相変わらず、子どものことで頭を抱える羽目にはなる。本当にトラブルが絶えず、すぐに現実世界への帰還を強いられる生活だ。
しかしながら、自分を表現することができるのとできないのとでは、結構差があるのではないかと思う。
日々、ダンジョンのモンスターのごとく、どんどん問題は湧き起こる。勇者でも何でもない私が、魔法の剣を振るうことはないが、メモを片手にペンを振るい、パソコンのキーを打ち、時として勇気を持ってここに投稿する(どうビジュアル化してもかっこよくないが)。それだけで、少しは問題に対する力が出てくるというものだ。
子どもが小学校に入ると、ますます集団での問題は大きくなった。
そこで配慮してほしい点を子どもの特性と一緒にまとめて書いたものを先生に提出した。しかし「一人だけ特別にいろいろするのは、難しいですから」とすげなく断られてしまう。特別支援教育の「特別」とは一体何なのかと疑問を持ちたくもなる。
ところが、子どもの絵画や工作、手芸作品を持っていって先生に見てもらった。そうすると「お子さんが学校生活をスムーズに送れるよう、こちらも支援していきたいと思います」と、お堅いはずの先生の態度がころっと変わることが分かった。
別に子どもの作品が取り立てて上手なわけではない。ただ、子どもが好きなことを好きなように造ったものなのだ。色や形、細かい部分などこだわりが強いゆえに妙に味わいがあるらしい。
すっかり先生を味方にすることができるようになった。
やはり人間は、好きなこと、自分を表現できること、熱意をもってできることをやらなきゃいけないもんだと正当化したくなる。
とりあえず、私も不器用ながら、小説を書くことで生き生きと過ごせるようになってきた。まだまだ拙いし、読むのも書くのも遅いし、長編小説を投稿できるほどの力もないけれど。それでも、思い切ってここに登録して書き始めて、よかった。新しい世界が開けた。
まあ、子どもに大型トラブルが起きたり、長期休みに入ったりすると、執筆環境が限りなくゼロに近づくし、帰省すると完全にネット環境が消滅するなど、へっぽこユーザーではあるのだけれど。
これからも、少しずつ書き続けて上手になりたい。
現実の世界では、今でも変わりなく、夜はずっしりとした疲労を感じながら眠りに就くことも多い。
しかし、あのささやく声はもう聞こえてこない。何もやっていないとは言われなくなり、私は自分を取り戻しつつある。
ただ、聞こえていた期間が長かったせいか、あの呼びかけがなくなって何となく寂しく思うことがある。
いつか「今日は頑張ったね。明日もいいものが書けるといいね」なんて言ってもらえる日がこないかなと、ふと思う。
このような長い自分語りを最後までお読みいただきまして、大変恐縮です。
まあ、こんな人もいるんだということで、笑ってもらえたらありがたいです。今後ともどうぞよろしくお願いします。
ありがとうございました。