小さくて大きな第一歩
華音ちゃんは、ゆっくりと相手の言葉を待ってる。
本当は1秒でも時間が惜しいけど、この交渉が無駄になる事が一番のリスク。
だからあたしはただ待つ。
前はそんな自分を嫌悪してたかもしれない。
待つ事は無力だって。
そうじゃなかった。
辛抱強く待ったから、今必死に交渉してる華音ちゃんがいるから。
大雨はまだ止まない。
だから倉田さん、そして翔太達の無事を心の中で懸命に祈る。
「共存……か」
相手の男がゆっくりと口を開く。
「逃げない人間は、この世にはいないのではないか?」
「逃げる事を否定しません。恥ずかしいですけど、私も逃げてばっかりでした。 ……でも、逃げても、何も変わらなかったんです。それで引っ叩かれて」
華音ちゃんはゆっくりと深呼吸する。
引っ叩いた本人が目の前にいるとは、相手の男も思ってないだろう。
「いつかは逃げるのを止めないといけません。 家族の人が亡くなってしまったら。会う事も出来ません。何より、何も伝える事は出来ません」
華音ちゃんの、有村君への後悔。
華音ちゃんも、翔太と同じく有村君がきっかけで苦しんで、それでも前に進む決心をした。
「一目で良い」
相手が、折れた。
「写真を見れればそれで。私が過去に犯した罪は消えない。それがきっかけで黒の御使いに所属するしか道は無かった。両親に会いに行けば、スネークによって両親にまで危害が及ぶ。だからそれで、構わない」
吐き出すように続けた男の声は、最後の方は震えてた。
「なるべく早く、お届けします。では、お願い出来ますか?」
「文章は考えているのか?」
「メールで送信して貰います。お待ちください。それではまた。ありがとうございます」
「こちらこそ……ありがとう」
深みのある感謝を聞き、通話を切る。
同時に華音ちゃんが腰を抜かす。
「すみません……緊張し過ぎちゃって……」
最初にしては上出来じゃないだろうか。
下手かどうかは分からないけど、結果的な交渉に成功した。
結果が全てじゃないかも知れないけど、今はそれが重要だ。
華音ちゃんへの賛辞はこれ位にして、あたしは倉田さんに連絡を取る。
台風による大雨が続く中、警視庁の惨劇は続いていた。
時折聞こえる銃声と、幾つもの死体。
そして爆発音。
煙が立ち込める中、匂いを想像するだけでも吐き気を催したくなるようだ。
「5125から連絡だ」
その声と同時に、何故か銃声が止む。
「虎からエージェントが目的を達成したと受けた。引き上げだ。迅速に。以上だ」
指令と共に、何故か軍服の人物達は警視庁の入口へと進んでいく。
その様子は、まさに洗練された軍そのもの。
だが、彼らはれっきとした犯罪集団なのだ。
一人残らず迅速に撤退し、川と化した道路を横断していく。
警察の応援が無いのは、道路を遮るように止まっている幾つものトラックのせいだ。
犯罪者たちは迷わず、ある建物へと入って行く。
建物に籠るのかと思えば、そうではない。
扉を開けると、そこに存在するのは地下への階段。
こうして警視庁襲撃と言う大事件は、いったんは収束を迎える事となったのだった。
……。
庁内をモニターで見る。
入口へ迅速に離れていく黒の御使い。
逃走経路を追うのは困難だろう。
だが、事件の拡大を防ぐ事は出来たと見て良いだろう。
「倉田さん、上手く行きましたか?」
鮎川君の声に、私は肯定の返事をする。
華音君は腰を抜かしているらしい。
大変な役目を押し付けてしまった上に、成功させてしまったのだ。
感謝以外の何物でもない。
メンバーの番号識別。
虎は恐らく松本大河の事だろう。
「メンバーには申し訳ない気持ちでいっぱいですがね」
テレビ電話の相手が毒づくが、返事をしている余裕は無い。
「例の交渉の件はお願いしたい」
家族……。
誰にでも家族はいる。
それを断ち切る事は決して出来ない。
電話の男も、そこに何かを感じたのだろう。
対して華音君は、両親と有村秀介君を亡くしている。
スマホとPCの通話を切ると、すかさずスマホが鳴る。
画面に安堵し、ボタンを押す。
「拓也さん? 大丈夫なの? ニュースで今凄い事になってるけど」
「ああ。大丈夫。私は生きてる。朋歌さん」
「はぁー……良かった……」
「心配をかけてすまない。だが、まだ事件は終わっていない」
「……絶対に死なないで?」
「ありがとう」
短い会話だけで、こんなにも力が湧いてくるものなのか。
被害甚大とはいえ、我々の無事は確保された。
後は翔太君達だ。
無事でいて欲しい。
外のトラックをどかすのに時間が掛かるが、そんな事は言っていられない。
鮎川君から情報を貰い、応援をよこす。
そして私もなるだけ早く現場へ向かう。
今は現状を見る。
ただそれだけだ。
スマホを握り締める。
TとTのイニシャルストラップ。
拓也と朋歌が揺れた。