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異人たちの恋② 『晴れ男の憂鬱』

作者: TeaTea

『晴れ男の憂鬱』



 目が覚めると、生まれたての夏の陽射しが、僕の上に注いでいた。古びた駅の古びたベンチの上で、どうやら眠り込んでいたようだ。帽子がベンチの下に落ちている。祖父からもらった使い古しのヤンキース・キャップ。これでは、この駅の周辺は天気予報に関係なく快晴になってしまう。僕は昨夜の記憶をたどってみた。しかしはっきり思い出せない。おそらくまた飲み過ぎて、どこか終点の駅まで来てしまったのだろう。僕は普段から放浪癖があるが、酔っ払うとそれがさらにひどくなる。

 腕時計を見ると、午前7時を少し過ぎていた。そろそろ動き出さないと、今日の仕事に間に合わなくなる。僕は木製のベンチの上に起き上がり、雲ひとつない空に向かって伸びをした。そして枕代わりにしていた茶色い鞄を右手につかんで、古びた駅のホームの上に立ち上がった。とりあえず、都心のほうに戻らないといけない。僕は、落ちていた帽子を拾って頭に載せた。その途端に、空の端のほうに、少し雲が現れた。



 人は生まれながらにして様々な才能を持っている。そしてその才能をうまく活かすことができれば、それに見合った職業に就くことができる。生まれながらに頭のいい人は、学者になったり、経営者になったり、犯罪者になったりする。生まれながらに運動神経のいい人は、メジャーリーガーになったり、アクションスターになったり、体育の教師になったりする。生まれながらに指先が器用な人は、伝統工芸を引き継いだり、スリになったり、マジシャンになったりする。生まれながらに口がうまい人は、漫才師になったり、詐欺師になったり、政治家になったりする。

 僕もある種の才能を持って生まれることができた。それは我が家の遺伝でもあった。僕の場合は隔世遺伝だった。僕の父にこの能力はなかったが、僕の祖父には同じ能力があった。そして僕は12歳になるまで、その能力を知らされずに育った。どうした我が家が意味もなく引越しを繰り返すのか。どうして僕は必要もないのに帽子をかぶらされるのか。どうして祖父は旅を続けて、年に数回しか我が家に顔を出さないのか。すべての理由は、僕の12歳の誕生日に父から知らされた。

 なぜ12歳が区切りなのか、その根拠は良く分からない。それは我が家系のしきたりのようなものだったらしい。僕は父の説明を聞いて、「そんなバカな」とは思わなかった。どちらかというと、「なるほど」という感じだった。そういう意味では、自分の運命を受け入れる上で、12歳というのは意外に妥当な線なのかもしれない。

 僕の才能は、選択肢の広い才能ではなかった。僕の祖父と同じように、あるひとつの職業にしかなれない才能だった。もちろんそんな職業があることは、父から説明を受けるまで想像したこともなかったのだが。

 12歳の誕生日の翌日、新しいヤンキース・キャップを持って祖父が僕を迎えに来た。それから僕の見習いの旅が始まった。見習いと言っても、何かを学んで身に着けていくという類のものではなかった。どちらかというと、祖父のお得意先への顔見世といった感じだった。祖父のお得意様は様々だった。黒塗りの車で乗り付ける偉そうな人もいれば、平凡な容姿の一個人ということもあった。場所は、大きなイベント会場だったり、小さな小学校の運動会だったり、大規模な農場だったり、南の海に浮かぶ小さな島だったりした。

 僕の能力は、練習によって強くなるとか、訓練によって技を磨くといったものではない。ただ年齢とともに強くなり、峠を越えると年齢とともに弱くなるというものらしい。旅を続けながら、僕の能力は段々と強くなり、祖父の能力はそれに比例して弱くなっていった。そして旅の後半は、ほとんど僕が仕事をしていた。



 駅の表示板で現在位置を確かめてから、30分に1本しかない電車に飛び乗った。どうやら今日の仕事場までは、2時間以上かかりそうである。今日の目的地は、国立の陸上競技場。現在、陸上競技の大きな大会が開かれている。主催者の要望で今日はどうしても晴れにして欲しいとのことである。今日、どのような競技が行われ、どのような理由で晴れにしたいのか、詳細はまったく知らない。僕はもともと、なぜ晴れにして欲しいかという部分にはまったく興味がない。ただ、報酬とともに招待状やチケットを受け取り、決められた日時に決められた場所へ行き、その日一日をそこで過ごすだけである。



 2度電車を乗り換えて、目的地の最寄の駅に着いた。途中、駅の売店でコーヒー牛乳を買って、水分補給をした。僕はコーヒー牛乳が大好物である。「カフェ・ラッテ」でもいいのだが、どちらかというとコーヒー牛乳のほうが美味しく感じられる。「カフェ」とか、「ラッテ」という響きに何か違和感を感じてしまうようだ。

 僕は基本的に行けるところまでは電車で移動することにしている。理由はないが、放浪癖のある僕にとって、「旅」というのは、電車か徒歩が一番しっくり来るのである。もちろん目的地によっては、飛行機も船も車も利用するが、可能な限り電車と徒歩の組み合わせを優先する。今回も、約束の時間までまだ余裕があったので、駅から徒歩で陸上競技場に向かうことにした。

 駅を一歩出ると、予想外のことに雨が降っていた。約束の時間まではまだ少し時間があるので、これは契約違反ではない。僕は帽子を脱ぐかどうか一瞬考えたが、小雨でもあり、競技場に到着してからでもいいかと思い、そのまま濡れながら歩いていくことを選択した。帽子をかぶっていても、僕の能力が完全に遮断されるわけではないので、雨に会うことは珍しい。久しぶりの雨の感覚を楽しみながら、僕は歩き続けた。



 競技場に到着すると、担当者が僕を見つけて慌てて僕のところまで走ってきた。

 「良かった。お待ちしてました。」

 「まだ、時間前だよね。」

 「この雨で、主催者が、ちょっと心配してたものですから。」

 「僕は、今まで、契約を破ったことはありませんよ。」

 「承知しています。私もそう申し上げたのですが、主催のトップが代わりまして、ちょっと心配性な方なものですから。さあ、こちらへどうぞ。」

 担当者はそう言うと、僕を関係者入り口のほうへ案内しようとした。

 「案内はいいです。入場券もらってますから。勝手に中に入って、座ってますよ。」

 担当者は、一瞬考えたが、僕の流儀をよく知っているので、

 「分かりました。よろしくお願いします。」とだけ言った。



 僕は一人で入場門をくぐり、21番ゲートと書かれた入り口から競技場の中へ入った。協議開始時間までまだ1時間以上あったが、観客席はすでにほとんど埋まっていた。

 競技場の中は、なぜか外より雨脚が強いように感じられた。少し違和感がある。僕は嫌な予感を感じながら、指定された最前列の席まで行って座った。

 僕の仕事は、とても単純な仕事に見える。指定された日に指定された場所に行き、帽子を脱いで、指定されて時間まで座っているだけである。たいていの場合、それは本当に単純な仕事である。しかし、時々不測の事態が起こり、ちょっと面倒な仕事になることもある。今日はどうも面倒な仕事になりそうな予感がする。

 僕は一度立ち上がり、観客席全体を見回してみた。しかし、どこに僕の「面倒の種」があるのか発見することはできなかった。しょうがない。一度試してみるか。そう考えた僕は、自分の席に座りなおし、使い古されたヤンキース・キャップを脱いでみた。

 しばらくすると、雨脚が徐々に弱くなった。これはいつも通りである。しかしそこからがいつもと少し違った。本来ならそのまま雨が止み、雲が徐々に晴れて青空が顔を出すはずである。司会、今日の天候は、いつもとは違う動きを見せた。競技場の中で、僕が座っている側半分だけが、雨が止み、雲が薄れ始めた。そして反対側半分は、相変わらず雨が降っていた。雨と晴れの境界線が、競技場の真ん中に生まれかけていた。

 僕は目を凝らして、反対側の観客席を見渡した。必ずどこかにいるはずである。そしてちょうど正反対側の最前列に彼女を見つけた。もちろんそれは、「雨女」である。



 雨のせいで白黒の映像のように見える観客席の中で、彼女だけがうっすらと色彩が着いていた。少なくとも僕には、「雨女」はそういう風に見える。彼女がプロなのかどうかは、ここからでは判断できない。プロなら少し話がややこしくなる。素人ならなんとか説得できるかもしれない。

 僕は茶色の鞄を持って席を立った。帽子は脱いだままで、観客席の通路を彼女のほうへ歩いていった。僕が移動するにつれて、雨と晴れの境界線が少しずつ移動した。この奇妙な雨の降り方に、観客たちはまだ気付いていないようだった。

 僕は彼女の姿を観察しながら近づいていった。彼女は、傘もささず、合羽も着ていなかった。ジーンズにタンクトップという夏らしい格好で、髪の毛はポニーテールにしていた。僕の経験から判断すると、彼女はプロではないようだ。職業雨女は、通常こういう無防備な格好はしない。僕たちにとって「熱中症」が職業病であるのと同じように、「雨女」にとっては「風邪」が職業病である。だから彼女たちは例外なく、夏でも肌を露出したりしない。おそらく彼女は素人で、しかも自分の能力に気付いていないのだろう。自分の能力を認識していない場合、その効果は不安定で、常に影響が現れるわけではない。今日はたまたま強く現れているようだが。



 「こんにちは。」

 僕は彼女の前まで行くと、できるだけにこやかに声をかけた。

 「こんにちは。」

 彼女は、そう挨拶を返してから不思議そうに僕のほうを見た。

 「すみません、突然声をかけて。ひとつお願いがあるのですが。」

 僕は話術が上手いほうではないので、単刀直入にお願いすることにした。

 「どこかでお会いしましたっけ?」

 「いいえ、今日が初めてです。」

 僕の答えを聞いて、彼女は少し考える顔になった。しかしなぜか警戒している様子はなかった。

 「どんなお願いですか?」

 「これをかぶって欲しいんですが。」

 僕はそう言って、鞄から新しいヤンキース・キャップを取り出した。

 彼女はしばらく、僕の手に握られているヤンキース・キャップを見つめていた。そして急に笑い出した。

 「それ、最近流行ってるんですか?」

 「いえ、流行ってるわけじゃないですけど、単なる野球帽ですが。」

 「違いますよ。帽子じゃなくて、そういう声のかけ方。面白いですけど、変わってますね。」

 どうやら新手のナンパを思われているようだ。

 「いえ、けしてそんな不謹慎なことじゃありません。」

 「あら、違うんですか。残念。」

 彼女はそう言うと、にっこり笑った。

 僕は言葉に詰まってしまった。でもこのままでは仕事に差し支える。僕は粘り強いほうではないので、そのまま話すことにした。

 「この帽子をかぶってもらえないと、僕の仕事に支障がでるんです。」

 「どんな支障ですか?」

 「あなたのせいでこの競技場に雨が降ってしまっています。僕の仕事はここを晴れにすることなんです。この帽子をかぶってもらえれば雨は止みます。」

 彼女はまた考える顔になった。そしてまた笑い出した。

 「それもとても面白いですね。確かに私、友達から雨女だってよく言われるけど。」

 「あなたは本当の『雨女』なんです。ご自分では気付かれていないようですが。」

 「それじゃあ、あなたは晴れ男さん?」

 「はい。正真正銘の『晴れ男』です。」

 彼女はもう一度、考える顔になった。そしてクスリと笑って言った。

 「それじゃあ、晴れ男と雨女が出会ったら何が起こるの?」

 その時、競技場の観客たちからいっせいに歓声が上がった。その声に振り返ると、競技場が二つの景色に割れていた。僕がいる側は雨が止み青空が広がっていた。そして彼女のいる側は曇り空のままで雨が降っていた。そしてその間に綺麗な虹が架かっていた。

 「つまり、こういうことが起こるんです。」

 僕は彼女のほうを振り向いて言った。彼女はまるで言葉を失ったかのように、その光景を見つめていた。



 僕と出会ったせいで、彼女は彼女の能力をはっきりと自覚してしまった。それはつまり、彼女の能力が強くなり、安定することを意味する。彼女の能力は僕のものとは異なり、遺伝から来るものではない。きわめて稀な確立で、きわめてランダムに与えられる能力である。だから彼女のように、自分の能力に気付かないことも多々ある。しかし一度気付くと、それは成長を始める。

 彼女はその日以来、僕の仕事についてくるようになった。毎日一緒にいるわけではないが、仕事の打合せや仕事の当日には、必ず彼女は僕の隣にいた。二人でおそろいのヤンキース・キャップをかぶり、二人で電車のベンチシートに座り、二人でコーヒー牛乳を飲みながら目的地に向かった。周囲の人から見れば、とても仲の良い恋人同士に見えたに違いない。

 僕の得意先の担当者たちは、いつも一人で行動していた僕が、かわいらしい女性を連れているので、最初とても驚いた顔をした。しかししばらくすると、担当者たちはみんな彼女のファンになった。口下手な僕と違って、彼女は人を笑顔にするのがとても得意だった。

 彼女は僕と一緒にいる間、けして防止を脱ごうとはしなかった。もちろん、僕の仕事中にそんなことをすれば、それは明らかな営業妨害である。しかし、仕事の当日ではない日も、仕事に向かう途中でも、彼女はずっとヤンキース・キャップをかぶりつづけていた。



 ある日、打合せの帰りに、僕と彼女は海沿いの駅で電車を降りた。秋の陽射しが柔らかく波間に降り注ぎ、空には雲ひとつない快晴だった。誰もいない浜辺に二人で腰を降ろし、言葉を交わすこともなく海を見ていた。

 僕は彼女と過ごす日々に、とても心地よいものを感じていた。それがどこから来る感情なのか、僕は正直、判断しかねていた。あえて分からないふりをしていたのかもしれない。ずっと一緒にいたいという思いと、ずっと一緒にはいられないという思いが、僕の中に同居していた。僕は口下手なだけではなく、臆病だったのだろう。

 「晴れ男さん。」

 ピッタリと僕の左側に寄り添いながら、彼女は僕の名前ではなく、職業名で僕のことを呼んだ。そして右腕を僕の首の後ろに回し、左腕を僕の前に回し、座ったままでしっかりと僕のことを抱きしめた。僕は突然の彼女の行動に驚いて身動きできなくなった。彼女はいつも隣にいたが、抱きしめられたのは初めてだった。

 「いつも、一緒にいさせてくれてありがとう。」

 彼女は、額を僕の頬に押し付けてそう言った。僕は、まだ動揺が収まらず、何も言えずに固まっていた。

 「あなたは、12歳の時から、こうして過ごしてきたのね。」

 僕は、やっとのことでうなづいた。

 「あなたと出会ってから、私がどんな気持ちであなたと過ごしてきたか分かる?」

 僕は、なんとか首を横に振った。

 「私はね、あなたが12歳の時から経験してきたことを、追体験しているつもりだったの。あなたがあなたのおじいさんと旅を続けたように、私もあなたと旅を続ける。あなたがあなたのおじいさんで、私があなた。そうすれば、あなたのことをもっと理解できるかもしれない。そして私自身のことももっと理解できるかもしれない。そう思いながら、あなたとの時間を過ごしてきたの。」

 彼女の話を聞きながら、僕の心は平静を取り戻していった。そして祖父と過ごした日々が頭の中に蘇ってきた。しかし彼女の話の行き先が見えず、僕は相変わらず黙ったままで座っていた。

 「あなたと一緒にいる時間は、私にとってもとても大事な時間だった。今まで誰と一緒にいても何かが違うと感じてたのに、あなたといると、自分の『居場所』を強く感じることができた。ここが正しい場所だった、確信を持つことができた。でもね、そうやってあなたとあなたのおじいさんの旅をなぞっているうちに、あることに気付いちゃったの。それはとても単純で当たり前なことだけど、旅には必ず終わりがあるんだなぁって。最後には一人で旅に出なきゃいけないんだなぁって。あなたとあなたのおじいさんがそうだったように。」

 彼女はそう言うと、右手で僕の帽子を脱がせた。そして左手で自分の帽子を脱いだ。

 その瞬間、海の上の空の色が一瞬で二つに分かれた。彼女の側半分が雨になり、僕の側半分の明るさが増した。彼女だけが雨に濡れ、僕は太陽に照らされていた。彼女の力は、僕の想像を超えて、はるかに強くなっていた。

 彼女は雨の中で僕に向かって微笑んでいた。僕は強い日差しを受けながら彼女を見つめていた。そして彼女は、はっきりした口調で僕に言った。

 「私も、私の旅に出ていい。」

 二人が分け隔てた二つの空間の間には、今まで見た中で一番大きな虹が懸かっていた。


 

 「それで、それっきりなんですか・」

 昔の銀幕のスターのような顔をしたバーテンダーが僕にそう訊いた。

 「こんな話、信じるのかい?酔っ払いのたわ言なのに。」

 僕は地下にある小さなバーのカウンターに一人で座り、何杯目かのジン・リッキーを飲みながらそう返した。僕の他には、シャンパンを飲んでいる男性と白いドレスを着た女性のカップルが、一組カウンターにいるだけだった。

 「世の中にはいろんなことがありますからね。」

 バーテンダーはそう言うと、にっこり笑って一礼し、カップルのほうへ移動して行った。

 彼女は、僕との時間を終え、一人で旅立って行った。しかし、それっきりかというと、実はそうではない。僕から離れて以来、彼女は毎晩のように僕に電話をしてくるようになった。今どこにいるとか、お昼に何を食べたとか、今日はどんな仕事をしたとか、そんな話を数分間だけ話して、「じゃあ、また。」と電話を切る。まるで定時報告のようだった。

  


 「調子の悪い野球チームのために、3連戦を雨で流したの。3日連続の仕事は、さすがにちょっと大変だった。」

 「雪も雨のうちなのね。今年は雪が足りないって言うから、試しに行ってみたら、ちゃんと雪が降ったわ。」

 「私、一度、砂漠に行ってみたいの。能力の限界に挑戦って感じかな。」


 彼女は僕の顧客を根こそぎ自分の顧客にしていた。そしてそこからさらに拡げているようだった。さすがとしか言いようがない。しかし別に顧客を僕から奪ったということではない。僕の顧客たちは相変わらず僕に仕事を発注してくれている。しかし、彼らにしても晴れて欲しい日がある反面、場合によっては雨が降って欲しい日もある。いわば彼女は、僕の仕事と平行して、僕の裏の仕事を一手に引き受けているのである。

 僕は、彼女に会いたかった。二人で過ごしたあの頃のように、二人で並んで電車のベンチシートに座りたかった。しかし僕には僕の仕事のペースがあり、彼女には彼女の仕事のペースがある。そしてそれは場所的にけして交わることがない。僕が「晴れ男」として仕事を続け、彼女が「雨女」として仕事を続ける限り、僕と彼女の接点は、毎晩かかってくる彼女からの「定時報告」以外にはないような気がした。



 「もう一杯、お作りしましょうか?」

 いつの間にか、バーテンダーが僕の前に戻ってきていた。無駄のない言葉に無駄のない所作。初めから感じていたが、彼には何か違和感がある。見た目と中身が微妙にずれている。若く見えるが、長い長い時間を過ごしてきたような雰囲気がある。まぁ、世の中にはいろんな人がいる。別に気にすることもない。ここにも「晴れ男」なんて人種が存在しているのだから、バーテンダーが特別に人種だとしても何もおかしくはない。僕はジン・リッキーの最後の2センチを飲み干し、空になったグラスを彼に渡した。

 新しいジン・リッキーを待っている間、することもなくボーっとしていると、カウンターの上の携帯電話が振動した。僕は予期していなかったので、少しびっくりした。ここは地下だが電波が入るようだ。震えている携帯電話を取り上げながら、彼女の定時報告の時間であることに気がついた。

 「もしもし。」

 「飲んでるのね。」

 「どうして分かる?」

 「毎晩飲んでるでしょ。」

 「それもそうだ。」

 「明日は仕事入ってる。」

 「いいや、入ってない。」

 「会いたいんだけど。」

 「誰が?」

 「私が。」

 「誰に?」

 「あなたに。」

 「・・・」

携帯を耳に当てたまま僕は言葉を失っていた。バーテンダーが遠慮がちに近づき、僕の前に作りたてのジン・リッキーを置いた。彼女は、待ち合わせ場所を告げると、いつもの「じゃあ、また。」で電話を切った。僕は意味もなく、接続が切れた携帯を見つめていた。

 「珍しいストラップですね。」

 バーテンダーが控えめな声でささやいた。

 僕の携帯電話には、彼女がくれた「てるてる坊主」のストラップがぶら下がっていた。



 彼女が指定してきたのは、南に下った田舎にある小さな駅の2番ホームだった。僕は電車を降りて、目の前にあった売店でコーヒー牛乳を買った。空は、僕の能力とは関係なく、雲ひとつない晴天だった。

 コーヒー牛乳を飲みながら2番ホームを歩いていると、一番端のベンチに彼女が座っているのが見えた。彼女はその職業にふさわしくない、短パンにタンクトップという格好をしていた。髪型はポニーテールにまとめ、その上にヤンキース・キャップをかぶっていた。

 僕が近づいていくと、彼女は僕に気付いて、座ったままでにっこりと笑った。僕は彼女を見つめたままベンチのところまで歩いていき、そして彼女の隣に腰を降ろした。新旧のヤンキース・キャップの久しぶりの再会である。

 「久しぶりだな。」

 「そう、久しぶりね。」

 「元気そうだな。」

 「ええ、風邪も引かずに頑張っているわ。」

 彼女は、二人が一緒にいた時と少しも変わらない笑顔で僕にそう答えた。

 「呼び出すなんて、珍しいな。」

 「そうね。私が旅に出てから、初めてのことね。」

 「どうかしたのか?」

 「仕事が、入ったの。」

 彼女は澄ました顔でそう言った。僕は彼女の意味するところが理解できず、怪訝そうな顔をした。

 「それじゃあ、僕は邪魔だろう。」

 「違うの。二人に仕事の依頼があったの。」

 「二人に?」

 「そう、二人に。」

 彼女はそう言うと、最後に会った日と同じように僕を抱きしめ、左手で自分のヤンキース・キャップを脱ぎながら、右手で僕のヤンキース・キャップを脱がせた。途端に、2番線ホームは、ベンチを境にして晴天と雨に綺麗に分かれた。そしてあの日と同じように、大きな虹がベンチの上に懸かった。

 「これが、依頼された仕事?」

 僕は目の前にある彼女の顔を見つめながらそう訊いた。

 「そうよ。『虹を見せてくれ』って。そういう依頼だったの。」

 彼女は僕の体を強く抱きしめながらそう答えた。

 「でも、いったい誰がそんな依頼を?」

 僕がそう尋ねると、彼女はゆっくりと顔を正面に向けた。

 僕は、彼女の視線を追いかけて、反対側のホームを見た。そこには、こちらのホームと同じようなベンチがあり、僕らと同じように一組のカップルが座っていた。僕は二人の姿に目を凝らした。そして少なからず驚いた。一人は僕の祖父であり、一人は初めて見る祖父と同世代の女性だった。二人は仲良く相合傘をさし、笑顔で僕たちに手を振っていた。

 「おじいちゃんからの依頼だったの?」

 「そうよ。」

 「どうして、おじいちゃんを知ってるの?」

 「それは、内緒。」

 僕は訳が分からず、彼女に抱きしめられたまま納得のいかない顔をしていた。祖父は嬉しそうに、隣の女性と腕を組んで、大きな虹を見上げていた。

 「ねぇ、私たちもあんなふうになれるかな?」

 「私たちも? あんなふうに?」

 「そう。いつの日か。あんなふうに。」

 僕は理解できたような、そうでもないような、騙されたような、、そうでもないような、妙な気分のまま彼女に抱きしめられていた。

 しばらくして、最初の驚きが落ち着いてから僕は彼女に尋ねた。

 「ところで、これって、抱きしめ合う必要があるの?」

 「もちろん、ないわ。でも何事でも演出が必要でしょ。これからも、虹の注文があったら、このスタイルでいきましょう。」

 彼女はそう言うと、両腕を僕の首に回し、僕の左の頬に自分の左の頬を押し当てた。僕も彼女の細い体を、両手で柔らかく抱きしめた。それはそれで、とても幸せな気持ちだった。とりあえずは、虹の注文があれば、二人は出会うことができる。電話の定時報告だけよりは、かなりましだろう。実際に虹の注文があればの話だが。

 僕は彼女の肩越しに祖父のほうを見た。祖父も懐かしい笑顔で僕のほうを見ていた。祖父は長い道のりの果てに、ようやく二人でゆっくり過ごせる時間を手に入れたのだろうか。それまでは虹の依頼があった時だけしか、会うことができなかったのだろうか。祖父の隣にいる女性は、長い間祖父に、定時報告をし続けてきたのだろうか、

 僕は祖父と女性の姿を見つめながら、二人の長い道のりを想像した。そしてそれから、僕と彼女の長い道のりのことを考えた。それはけして楽な道のりではないだろう。しかし僕はもう選んでしまった。面倒な道でも、後戻りはできない。

 僕は頭上の虹を見上げ、それからもう一度、彼女を抱きしめた。虹に下でだけ許されるこの時間が、これからもたくさん訪れること祈って。



「晴れ男の憂鬱」おわり

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