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魔法使いは、滅びない

作者: 佐田直貴

お題は「英雄」と「一世一代の大勝負」です

プロローグ


「先生はね、魔法使いなんだよ」

 そう言って、彼女は笑っていた。

 小さな頃の僕の頭を、クシャクシャと撫でながら。

「だからね、信也くんが困った時にはいつでも先生を頼ってくれていいよ」

 彼女の言葉に、僕は何も返せなかった。止め処なく襲ってくる嗚咽と一緒に、苦し紛れに頷く事が精いっぱいだった。

 魔法使いなんていない。

 そんな事は、小学校高学年にもなれば分かっていたから。

 けれど、彼女はそんな僕の心中を読んだかのように、一つ大きく息を吐いてから、言ったのだ。

「よし、じゃあ証拠を見せてあげるよ」

 その後のやり取りはよく覚えていない。ただ、経験した事のない浮遊感と、視界いっぱいに広がった青空の光景だけが記憶に残っている。

 次に気がついた時には、嗚咽は消えていた。涙も止まり、鼻水も出てこなくなっていた。

 「よし強い子だ」と笑う彼女を見て、その時に思った。

 あぁこの人は本当に、魔法使いなんだな、と。



 小学校の卒業文集から既に「将来の夢は先生」と書いてあるところを見ると、少しだけ苦笑してしまう。あえて「魔法使い」と書かなかったところは、当時の自分なりに考えていたことがあったのだろう。

「よし、行くか」

 日曜日。朝9時半。

 住宅街の道路を優しい十月の陽が照らして、休みの日特有の匂いと静けさが、辺りを包んでいた。某大学の教育学部にAO入試で合格した僕は、母さんの勧めにより今日から近所の子の家庭教師を務めることとなった。

 子どもの頃に憧れた魔法使いへの道が、今日ここからはじまるのだ――。

「別に、指導なんていりませんから」

 家庭教師先の少女、名雲千佳さんは僕を玄関から部屋まで案内するとそう言って、机に向かった。

 長い黒髪と、気の強そうな――けれども綺麗な目が印象的で、人形のように整った顔立ちをしている子だ。しかしそこに中学生らしいあどけなさはなく、僕よりも年上のような落ちつきを感じた。

 ところで第一声で存在価値を否定されてしまった家庭教師の僕はと言えば、まるでスーパーの入口にくくりつけられた犬のごとく、ボーっと彼女が座っている机を眺めたまま、五分ほどその場に突っ立っていた。

 動かない僕にチラリと視線をやって、名雲千佳さんは言った。

「やることがないなら座っててください」

「はい、すみません……」

 ベッドの脇にあった小さなちゃぶ台の上に荷物を置き、腰を下ろした。

 名雲さんの部屋は、どこか殺風景だった。勉強机とベッドと本棚、そしてちゃぶ台があるのに、なんだろう。圧倒的に装飾が少ない。フローリングに敷かれた絨毯の色も、壁紙も、ベッドのシーツも、全てが淡泊で、なんだか女の子らしい部屋という感じはしない。

「あ、ご両親はどこかな? 挨拶しておきたいんだけど」

「出かけています」

「何時頃に帰られるの?」

「夜まで帰ってこないと思います」

 ちなみに家庭教師の時間は、朝10時~12時までだ。

「……えーと、僕は今日ここに来てもよかったんだよね?」

「あなたが家庭教師の楠木信也さんであるなら」

「いや、さすがにそこは間違いなく、僕は楠木信也だけど」

 初めて他人が訪問するというのに子どもだけ残しておくというのはどうなのだろう。家庭教師をした事がないから分からないが、案外そんなものなのだろうか。

 そんな正直どうでもいい事で悩んでいると、名雲さんはふと何かに気づいたかのように勉強していた手を止めて、こっちを向いた。

「私は、名雲千佳です」

 いや分かってるんだ。そこも問題じゃない。

 どうやら、自己紹介をしてくれるくらいには邪魔者扱いというわけでもないようだった。とはいえ、果たしてこのなんとも収集のつかなそうな状況をどう説明しようかと思う。

 ――いや、せっかく彼女が会話をしてくれたのだ。このまま本題に入らせてもらおう。

「さて名雲さん、分からないところとか、難しいところとかあるかな?」

 ここぞとばかりに、僕は腰を浮かせて彼女の机に向かった。

「全くありません」

 撃沈した。

 


 そういえば僕は、家庭教師をする以前に、名雲千佳という名前を聞いた事がある。

 そんな事を思い出したのは、一回目の家庭教師が終わって、この話を持ってきた母さんに対して愚痴をこぼしていた時だった。

 名雲千佳さんは一時期、少なくともこの住宅街の周辺ではそれなりに有名になった名前だ。なんでも、小学生でありながら漢検二級を取ったとか取らなかったとか。

 漢検二級と言えば、簡単に言ってしまえば大学卒業レベル。高校生で取る人はいても、小学生で取る人は珍しい。しかも彼女の場合、他の教科の成績もいいという事で、将来が楽しみだわと、井戸端会議で話題になっていたとかいなかったとか。確かそんな事だったと思う。

「っていうか、確実に僕、必要ないじゃん」

 下手すると僕より頭がいいのではないだろうか。高校生が中学生に勉強を教えようとして、でも実は学力面で負けていた。こんなの恥ずかし過ぎる。

 ――と、もしもそんな事を思うようになってしまったら、それはもうダメだ。

 目指すべきは魔法使い。秀才の一人や二人でメゲていては届くはずもない。

 最初の家庭教師はただ座っているだけで終わってしまった。黙々と勉強を進められる彼女は確かに優秀な子である。しかし、かと言って、彼女も完璧に勉強内容を知っているわけではなく、問題で分からないであろう箇所では回答や解説を開いていた。そして僕が近づいていくと隠すようにして仕舞っていた。

 つまり、まずは彼女との距離を縮めなければいけないのだろうと思う。

 そのためには――。



 小さい頃の僕は何故かコンプレックスの塊で、何をするにも自信がもてずにオドオドしていた。それがクラスメイトのからかいを誘い、またからかわれるから、更に自信を持てずにいた。そんな悪循環の中で、あの魔法使いの先生だけは味方だった。

 ある日の放課後だ。

 その日初めて、当時他クラスの担任だった先生は僕を裏庭に呼んだ。朝に雪が降った影響か、飼育小屋の中の動物たちも静かだった。周りに誰もいないシンとした学校の裏庭で、先生は一体どうやって手に入れたのか、その日初めて持ってきた新品の僕の傘を広げながら、叫んだ。

「マヒャド!」

 次の瞬間。

 僕の傘からドボドボドボ! と雪が落ちてきて、先生は雪まみれになった。

「ここだけの話なんだけど先生ね、実は魔法使いなの。これはね、有名な氷の魔法なの……」

 髪についた雪を一所懸命に地面に落としながら彼女は言った。

 そして全ての雪を落とし終えると、彼女は「どうだった、私の魔法?」と言ってニカリと笑った。

 この人凄い。と、

 僕は純粋にその時思ったのだった。



「僕はね、魔法使いになりたいんだよ」

 二回目の家庭教師の日。僕がそう切り出すと、名雲千佳ちゃんはピクっと反応して、手を止めた。

「ピーターパン症候群ですか?」

「うん、君はもうちょっと歯に衣着せて話した方がいいかもしれない……。違くてね、魔法使いは本当にいるんだよ」

「面白い話ですね、それ」

 そこでようやく彼女は初めて興味を持ったようにフっと笑って、相変わらずベッドの脇に座ることしかできていない僕の方を向いた。

「魔法を見たことがあるんですか」

「あるよ」

「どんな魔法ですか?」

「マヒャド」

 彼女の目が一瞬にして冷めた。

 マヒャド、凄いのに。

「ゲームの世界に行きたいんですか」

「いやいや、将来の夢は先生だよ。僕の小学校の頃の担任だった先生が、魔法使いだったんだ。僕はね、小学校の頃自分に全然自信が持てなくて、からかわれてて。でもその先生に救われたんだ。だから僕もそんな風になりたくて魔法使いを目指してるんだよ」

 僕は立ち上がって、ペン立てにあったペンを一本取った。

「見てて」

 掌を上にして、そのまま指先で握ったペンを上に投げるようにして手首を振り上げる。しかしペンは上に投げられずに、姿を消した。

「!?」

 人間、驚くと年相応の顔が出ると言うが、ようやく顔を見せた中学三年生の彼女は、やはり年相応に可愛らしかった。

「これが僕に出来る精一杯の魔法だけどね」

 得意げになる僕。しかし彼女はジッと僕の右手を見つめていた。

「そのために、今日は長袖を?」

 バレテル……。

 この魔法マジックは、非常に単純なものだ。

 上に投げるようにしてスナップをきかせながらペンをつまんでいた指を大きく開くと、自然と人の視線は上に行ってしまう。しかし、本当は指を開く一瞬前に、長袖の袖口にペンを落とすのだ。すると、上に放り投げられるはずのペンが消えたように見える。はずだった。

「凄いね。かなり練習したんだけど」

「いえ、実際やられた時は本当に消えたみたいに見えました。けれど、終わった後に不自然なくらい右手が動きませんでした。恐らく、その袖口から落ちないように手首を少し曲げたままにしているんでしょう」

 怖い位に素晴らしい子だった。

 僕は袖口に隠していたペンを机の上に置いた。

「そのお話の先生は、マジシャンだったんですか」

「さあ、どうだろう。実は僕も記憶は途切れ途切れなんだよ。その人に凄く憧れた事と、その人が魔法使いだったって事は覚えているんだけど、細かいやり取りまでは覚えていないんだ。確かめようにも、僕の卒業後にいなくなっちゃったみたいだし」

 でも、間違いなく先生は魔法使いだった。だって今だってこうして、時を超えて僕らを仲良くしてくれているのだから。

「さて、僕は僕の夢を語ったから、今度は名雲さんの番かな」

「え?」

 あの先生は言っていた。

 人はお互いの事を知ると、仲良くなれる。と。

「さあ、君の将来の夢は?」

「知りませんよ。あなたが勝手に話し始めただけでしょう」

 撃沈した。



 くだらない雑談で一日を終えた。

 そう言われても仕方のない家庭教師二回目を終え、僕は帰り支度をしていた。結局、彼女と僕の間に足りないのは信頼というものなんだろうと思う。でも、今日一日の雑談で、それなりに仲良くなれた気もする。

「じゃあ、次はまた来週。それまでに自分の夢を見つけておいて」

「別に夢がないわけではないです。言いたくないだけです」

 相変わらずのクールな雰囲気を醸し出しながら、彼女は言った。最初よりも幾分、声が柔らかく聞こえるのは確かだ。気のせいではないだろう。気のせいではないと、いいなぁ。

 ――彼女の家を出ると、門扉の所に見知らぬ人が立っていた。

「あら、もうお帰り?」

 煌びやかな装飾をまとった婦人だった。激しくパーマが掛けられた茶色の髪と、赤色の目立つ服。漫画に出てくるような「おばさんPTA」と言う感じがして、理由もなく一瞬ひるんでしまう。

「どうもはじめまして、楠木信也です」

「御苦労さま。千佳の様子はどうかしら」

 やはり名雲さんの母親のようだった。今日の雑談の中で名雲さんが言っていたが、休日はどこぞの社交ダンス会に通っているのだとか。

「凄く優秀です。既に中学レベルの勉強はほぼ完璧だと思います」

「そんなものは当然でしょう。そこらの子どもと一緒にしないでほしいわ。それより、私が聞きたいのは、あの子の志望校よ」

「はあ」

 家庭教師として一応、彼女の県内模試の結果については見せてもらっている。成績はもちろん文句なしで上の上。けれどそこに書いてあった志望高校名は、ここから近くにある、中の上レベルの県立校。

「何のために家庭教師なんてものをつけたと思ってるの? あなたがあの子を説得して、名門の開城高校を受けさせるためじゃない」

 ……初耳だった。

「開城、ですか。でもあそこは都心だから、ここからだと二時間以上かかりますけど」

「それがなんだって言うの。たったの三年通うだけで、一生の安泰が保障されるの。そんなこと、大した問題じゃないわ」

 凄い理論だ。

 けれど確かに大袈裟な話ではない。開城高校と言えば全国的にも有名な進学校で、最低成績でも一流半の私大進学くらいなら当たり前という恐るべき高校だ。その代わり、それは当然努力の裏付けがあっての事で、二年時からは大学受験対策として膨大な課題が出るらしい。――でも、

「本人が希望していない高校を受けさせるのは……」

「それがあなたの役目でしょう」

 初耳だった。

 何も答えられない僕に、彼女は呆れたように溜息を吐くと、家の中へと入って行った。



 例えば、他人から見てひどく些細な事が、本人にとってはとても重要に思うものだったりする。小学校の頃の僕がまさにそれで、ただからかわれるという事が、とんでもなく苦痛だった。

 どう反応したらいいのか分からなくて、分からないから黙りこむ。苦痛なくせに苦痛な顔をするから、からかう側はその反応に喜ぶ。

 ある日、先生は言った。

「信也くんもマヒャド、やってみる?」

 その一言がとても僕の励みになった事を、きっと先生は知らないだろう。

 


 名雲さんはどうしてもっと上の高校を受けないの? とストレートに訊いてみた。

「行きたくないからです」

「ですよね」

 これ以上にないくらい簡潔な答えだった。文句のつけようがない。得てして、親の願いは叶うべきではない、と昔の人は言っていたとか。言わなかったとか。

「なぜ突然そんな事を?」

「僕の仕事は名雲さんの志望校を上げることだからね」

 僕が言うと案の定、名雲さんは眉をひそめた。

「私は、志望校を変えるつもりはないです」

「うん、分かったよ。了解」

「……それでいいんですか、あなたは」

 彼女は呆れた顔で言った。

「魔法使いは、魔法を使わないんだよ」

「え?」

「前に話した、僕が出会えた魔法使いが言っていた言葉なんだけどね。魔法使いは普段魔法を使わないんだって。魔法使いなのにおかしいよね。でも、その人は言うんだよ。魔法使いだからって魔法を使うという考えは間違いだよ、って」

 先生の受け売りをそのまま伝えるというのは、恥ずかしくもあり、なんだか嬉しくもあった。僕は先生がしていたように、人差し指を立てる。

「大事なのは、自分の選択肢も自分で決めるって事。君が受けたくないなら受ける必要はない」

「でもそれだと、あなたが母に怒られるだけかと思いますけど」

「それは問題ないよ。こう見えても、打たれ強いから」

「いじめられていたからですか」

「やっぱり君はもう少し、歯に衣着せた言い方をするべきだと思うよ、僕は……」

 学校での彼女がイジメられていないか心配になってしまう。

 けれど僕の言葉に、彼女は「冗談ですよ」と小さく笑い、そして、続けた。

「小説を、書きたいんです」



「まだ、一次選考しか通過できたことはないんですけど」

 いつも通りのクールな瞳で、けれどその目には情熱を灯して彼女は言った。

「一次選考はどれくらいの人が通過するものなの?」

「私が送っている所は大体、一割くらいです」

「十分凄いじゃないか。大人も応募してるんでしょ?」

「ここからが本当に大変なんです。もっと努力しないと。でも、開城に入ると書く時間もなくなります」

 確かに、彼女の言う通りだろう。開城高校に入れば一年時に多少時間を取れたとしても、二年生からは課題の山が彼女を待つ。それに、中途半端な成績は彼女の母親が許さないだろう。更に、ここから二時間以上という通学時間もある。

「だから近くの公立校を志望してるんだね。ご両親は名雲さんが小説を書いている事は知ってるの?」

「言っていません。言ったところで何かが変わるとも思いませんし。むしろ、辞めさせられると思います」

「そうかな。子どもの夢だったら応援するんじゃない」

「ウチの親は、とにかく冒険が嫌いなんです」

「あー……」

 それは何となく分かる気がした。

「いい学校に入って、いい会社に入って、それなりの人と結婚する。母は、そういう人生を良しと考えています。別に否定するわけではありませんが、私は嫌です」

 そう言うと彼女は立ち上がり、本棚から辞書を取り出した。そしておもむろにこちらを振り返り、辞書のBOXの中を見せた。中には小説が入っていた。

「……男子の、エロ本の隠し方みたいだね」

「あとは、この本棚は意外と奥行きがあるので、手前に参考書を置いて、奥に小説を背表紙が見えないように入れています。母は本棚を触る事はありませんから」

「小説を読むのもダメなの?」

「いい顔はされません。参考書を読んでいた方が有意義だと言われました。けれど私は小説には小説にしかない価値があると思っています」

 こうして話す彼女は歳相応に見えて、なんだか可愛らしかった。彼女の言う母親像が少し大袈裟だとしても、こうして隠し事があったり、夢があったりなんかして。そしてそれを話してくれるというのは、素直に嬉しい。

 もっと、相手を知りたいと思う。

「それで、名雲さんはどうして小説を書こうと思ったの?」

「どうしてそれをあなたに教えなければいけないんですか?」

 撃沈した。

 けれど、彼女は小さく笑っていた。だから、僕もつられて笑った。



 ――そして、突然の家庭教師打ち切りの知らせが来たのは、その翌日だった。




 翌週の日曜日、名雲さんの家を訪ねると彼女のお母さんが僕を迎えた。

「ああ、あなたね。どうぞお入りなさって」

 怖いくらいに上機嫌だった。突然クビを宣告された僕としては何をしでかしてしまったのかと委縮していたところだったので、意外な対応に戸惑ってしまう。

 居間に入るとお茶が出された。そして、僕の正面に座った彼女のお母さんは嬉しそうに切り出した。

「おかげであの子も、開城を目指して頑張っているわ」

「え?」

 湯呑に手を伸ばす間もなく、僕は止まった。

「せっかく一流の高校に行ける頭を持っているのだから、行かなくちゃ損でしょ。小説なんて、誰が成功するかも分からないものを書くなんてバカバカしい。あなたもそう思うでしょう?」

「お母さんは彼女が小説を書いているのを知っていたんですか?」

「まさか! 知らなかったわよ。ついこの間知って、びっくりしたわ。そんなの、受験生のする事じゃないでしょうに」

「じゃあ、今はもう名雲さんは書いていないんですか」

「やめさせたわよ。当然じゃない」

 名雲さんが予想していた通りの反応だった。

 しかし、こうなるのが分かっていながら、名雲さんはお母さんに打ち明けたのだろうか。

「名雲さんの様子を見てきてもいいですか」

「今は勉強中ですからやめてくださいな。あ、そうそう。あなたに家庭教師の報酬を渡さなくてはいけないわね」

 彼女はそう言うとタンスから財布を取り出した。

「あなたのお母さんにウチの息子はどうですかって薦められた時はどうなるかと思ったけど、頼んでよかったわー。はい、御苦労さま」

 高校生のアルバイト三回分にしては多いだろう金額。僕は黙ってそれを受け取るしかなかった。



 ――本当は、初めから気づいていた。

 先生が初めて僕を呼び出した日の、あの魔法。その理由。

 あの日の僕は新しい傘を持って登校するのが嬉しくて、いつもよりも少しだけ上機嫌になっていた。それがクラスメイトの癪に障ったのだろう。昼休みの頃には、玄関からは僕の傘は消えていた。その傘に何をされるかなんてことよりも、ただただちゃんと戻ってくるかが心配だった。

 そのくせ、自分からは何も言えないから、心当たりのあるクラスメイトにそれとなく注目していた。

 予想通りの人物が昼休みに僕の傘を持って外へ行き、閉じた傘の中に雪を入詰め込んでいた。

 それを見て「ああ、あれなら傘はちゃんと帰ってくる」と思った自分が情けなかった。

 だからあの日僕が本当に驚いたのは、先生が傘を持っていた事ではなく、その中から雪が落ちてきた事でもなく、罠を食らったのに「魔法だ」と言って笑った事だ。

 先生は全てを知っていた。知っていた上で、それを利用して僕にあれを見せたのだ。そして僕を元気づけてくれた。

 それを魔法と言わずに、何と呼ぶというのか。



「もう、いいんです」

 名雲さんの勉強が一息ついた頃を見計らって部屋に行くと、彼女は呟くようにして言った。休憩時間だというのに、彼女は参考書をペラペラとめくっていた。

「いいって……。夢だったんじゃないの?」

「どうせ作家になんかなれないですし、作家になったところでそれだけで生きていける人なんてほんの一握りです」

「その一握りを目指すのが夢なんじゃないか」

「知ったような口をきかないでください。大体、本当にそんなものが私の夢だと思っていたんですか? 冗談に決まってるじゃないですか。小説家なんて不安定な職業を本気で目指すわけないですよ」

 そんなはずはない。

 たった一週間前の彼女は、そんな表情で小説の事を話していなかった。

 僕は彼女のところまで歩いて行き、肩を持って無理やりこちらを振り向かせた。

「……痛いんですけど」

「僕は魔法使いだから、人の嘘が分かるよ。君は嘘をついている」

「あなたバカですか。いつまでもそんな事を言っていると、その内誰も周りにいなくなります。そうなってから後悔したって遅いですよ」

「そういう風な事を言われて、夢を諦めたの?」

「バカバカしい!」

 彼女は僕の手を払い、席を立つ。

「ちょっと母さん、この人を追い出して! 邪魔!」

 ドアを開けて叫ぶと、階下から慌ただしい足音がした。

「もうあなたはクビになったんですから、この家には来ないでくださいな!迷惑です!」

 少し前まであんなに嬉しそうに小説の話をしていた彼女がこんなにもあっさりと夢を諦める理由。そんなもの、僕には分かるわけがない。

 でも、

「僕は何があっても絶対夢を諦めないよ。いいかい、名雲さん」

「ちょっとあなた! 邪魔をしないでくださいな!」

 彼女の母親に腕を掴まれながら、彼女に冷たい視線を向けられながら、それでも伝えたかった。

「やって後悔する事は、やらなかったらもっと後悔するぞ!」

 ――あの魔法使いが、学校を去る時に言ったという言葉。

 小学校の頃は夢にも「魔法使い」と書く事が出来なかった僕に、最後の一歩を踏み出させた、先生の言葉。

「うるさい、黙れ!」

 おばさんが思わず僕を追い出す手を止めてしまうくらいの声を放った彼女は、泣いていた。

 当然だろう。

 だって、あの先生を小学校から追い出すきっかけを作ったのは、他でもない名雲千佳さんだったのだから。

 彼女は僕たちを睨みつけながら、部屋を出て行った。


 

 ――家庭教師をする以前に、名雲千佳という名前を聞いた事がある。

 小学生で漢検二級を取り、他の教科の成績もよく、将来を有望視されている。

 そういう噂が主婦の間で流れるから、それを親から聞かされる子どもたちから、彼女は嫉妬を買う。

 だから、名雲千佳さんはイジメられている。

 そんな、噂だ。

 けれどそういう子をあの魔法使いの先生が放っておくはずもなく、きっと先生なら大丈夫だと思い、僕はさして気にも留めなかった。

 それから先生が学校を去ったという報せを聞くまで、そう時間は掛からなかった。

 結論から言えば、先生は学校を去ったのではなく、停職という処分だ。その後、教職を辞めて帰郷するということだった。

 先生の居場所を知っておきたいと思って調べた僕にとって、その予想外の状況には、かなりショックを受けた。誰かに聞こうにも、理由は一般生徒には知らされておらず、しかしその原因の中心が名雲千佳さんにあるのだろうという事だけは、確定したかのように情報が流れていた。

 けれど、それで名雲さんを恨むのは筋違いだ。

 きっと先生は先生に出来る事をしただけであって、その結果が停職になったところで、名雲さんを恨むことはないのだから。

 だから先生は最後に一言、壇上から彼女に向けて、言葉を残したのだ。

 後悔なんかしていない、と。



 なんとなく、彼女の行くところは分かっていた。

 僕らの母校、本来なら立ち入り禁止だったはずの小学校の屋上で、彼女は町を眺めていた。夕陽のオレンジが彼女の髪を綺麗に染め上げて、まるでそれこそ、小説のヒロインみたいだった。

 彼女は僕を横目で確認すると、また視線を町に戻した。

「あの先生は、私にとっての英雄だったんですよ」

 彼女の言葉は、僕にはなんとなくわかる気がした。先生は確かに、どん底にいた僕らを救う「ヒーロー」だったから。

「私はこういう性格ですから。うまく自分の感情を出すこともできず、友達がいませんでした。そんな時、私が教室で小説を読んでいると先生が近付いてきたんです。先生は本が好きだということで私とのきっかけを作り、それから私たちは仲良くなりました。笑っちゃいますよね。先生、本当は小説とか読まない人なんですよ」

「凄いね」

「本当に、凄いです。私は先生を尊敬していました。尊敬して、先生のことを誰でもいいから知って欲しかった。彼女の素晴らしさとか、話とか」

 ――だから、この屋上の事を母親やクラスメイトに話した。そしたら、先生は停職になった。

 彼女は顔を伏せながら、言った。

 生徒の安全を守るべき教師が、率先して立ち入り禁止の屋上に生徒を連れていくとは何事か、と。

「あなたの話を聞いていた時から、なんとなくその魔法使いの人はあの先生なんだろうな、とは思っていました。でも、私にはこの事を謝罪する勇気も、告白する勇気もなかった」

「いや、そんなことはどうでもいいんだよ」

「どうでもいいことなんか、ないですよ!」

「いや、どうでもいいんだよ!」

 先生が先生を辞める事になった理由とか、経緯とか。

 先生には悪いけど、今更となっては、それは大した問題ではなく、一番の問題は

「君は、どうして小説を書くのを辞めたの?」

 彼女の心変わりの理由だ。

 僕の質問に、彼女は小さく笑った。

「笑っちゃいませんか? 先生の夢を壊した私が、夢を追いかけようとしているなんて。そんなの許されるわけないじゃないですか。償っても償いきれない事をしてしまった私が、どうして小説家を目指せるんですか」

「それを、お母さんに言われたの?」

「直接ではないですよ。母は『私の期待を裏切らないで』と泣き出しただけです。それで、なんとなく知ってしまっただけです。人の夢を裏切る残酷さを。……知っていました? あの人、私の部屋に盗聴器を仕掛けていたんですよ。ペン型の。これ、どうりで見たことないと思いました」

 彼女が取り出したのは、僕がマジックで使ったペンだった。

「私が使わなかったのでペン入れの底にマイク部分が眠っていたみたいですが、あなたの手品の後に見事にマイク部分が上に来たみたいです」

「……僕も、原因の一端だったんだね」

「最初はグルだったのかと思いましたけど、あなたがそんな器用なわけないですもんね。だからこそ、知ったんですよ。母の本気度というか、期待の大きさを」

 そして、今度こそそれを裏切るまいとした。

 つまり、彼女は、優しすぎたのだ。

「違うよ」

 けれど、そんなのは絶対に違う。

 人の夢を壊した事があるから、もう人の夢を裏切らないなんて、そんなのは絶対に違う。

 だって、そうじゃないか。

「他人に叶えられた夢なんて、嬉しくなんかないよ」

 親は子の成功を祈る。だけど、もし自分の子が活き活きとして本人の夢を叶えたとしたら、それはきっとこの上なく嬉しい事に違いないのだから。

「思い通りになるのが、夢を叶えるって事じゃないよ」

「じゃあ、どうしろって言うんですか!」

「そんなのは自分で考えなくちゃいけない」

「あなたバカですか? あれも叶えてこれも叶える。そんな英雄みたいな真似、できるわけないじゃないですか」

「英雄じゃなくていいんだよ。英雄は、勝ち続けなくてはいけないから。だから、魔法使いくらいがちょうどいいんだ」

 誰かを排他することで得られる称号ではなく、自分次第で得ることができる称号。それが、魔法使い。

 先生は僕をからかっていた彼らを怒らなかった。その代わり、その罠を笑い話にしてみせた。捉え方次第でどうにでもなるのだと教えてくれた。

 それが本当に正しいのかどうかは分からない。でも少なくとも、僕は救われていたから。

「僕は僕の目に映る全員を救いたいと思ってるよ。先生が先生だった時に思っていたようにね。確かに僕と先生とじゃ、考え方とか、経験とか、ぜんぜん違うと思う。でも、せっかく一生を賭けるんなら、それくらいでっかい目標を持っていたい」

 あの先生から引き継ぎ、楠木信也という人生も賭けた大勝負。それくらい大きくてもいいだろう。

「だから君も、君の夢を自分で決めなきゃいけない。それは別に、先生が入っていなくても、両親が入っていなくても構わないと思う。その代わり、自分で決めなくちゃいけない。だってそうだろ? 自分の人生を賭ける大勝負なんだから」

 結局は、それだけなのだ。

 自分の人生を賭けるのに価値があるかどうか。

 彼女が語っていた「小説」に、その価値があるかどうか。

「それに、君が先生の事を気に病むことは本当にないんだよ」

「え?」

 先生が教育に携わる理由とか。そういうのは一切知らない。けれど、多分そういうのはどうでもいいんだと思う。要は、やりたいかやりたくないか。諦めるか諦めないか。

 だから、あの先生は、本当にすごいんだ。

 いつでも僕や、名雲さんの先を行ってしまう。

「先生は今、教師向けの本――教育書っていうんだけどね。その教育書の執筆者として、活動してるんだよ」

 教育と執筆者。僕らの夢を既に併せてしまっているのだから。

「笑っちゃうよね。心配したこっちが、まだ教えられる立場にいたなんてさ」

 僕が言うと、彼女は小さく笑ってくれた。

「……そうだ。どうして僕が、君がここに居ると分かったと思う?」

 帰り道、僕は彼女に問いかけた。すると、彼女は首をかしげた。

「そういえば、どうしてですか」

「魔法だよ。魔法使いが残した魔法が、僕をここに引き寄せたんだ」

 あの日あの時。

 先生のようになりたいと誓った日、先生は僕を屋上に連れていってくれたのだ。

 あの魔法は今でも続いている。だから、魔法使いはまだ滅びない。

 実は僕も、先生に屋上に連れて行ってもらった事がある、なんて事を知ったら、名雲さんは驚くだろうか。それとも、喜ぶだろうか。

 いつか、僕が本物の先生になった時。名雲さんと一緒に先生の実家を訪ねて、お礼と一緒に暴露するのも面白そうだ。

 そんなことを、思っていた。


エピローグ

 

 名雲さんの高校受験は見事に成功した。彼女は今、開城高校でも地元の高校でもなく、所謂「普通の進学校」に通いながら、勉強と趣味を両立させているらしい。

「小説家になれるかどうかはわかりませんけど、目指さない理由はないですから」

 彼女は少しはにかみながら言った。前よりも堂々としているからだろうか。彼女は高校に入って、随分と変わったように思う。少なくとも半年前とは違い、僕がドギマギしてしまうくらいに。

 喫茶店を出た僕たちは、大きな書店に入った。

 そこで、先生が執筆者となっている教育書を買った。

「布教用と保存用です」

 彼女の言っていた意味はよく分からなかったけど、僕も負けじと三冊ほど購入した。今度、学部の友人に配ってあげよう。

 その後、少し商店街を回って、僕たちは別れる事にした。

「先生は今でもちゃんと、先生を目指しているんですか」

 彼女はなぜか、家庭教師後も僕を「先生」と呼んでいた。家庭教師中には呼んでもらった記憶がないので、なんだか微妙な気持ちだった。

「当然だよ。今も、家庭教師のアルバイトをしてるんだよ。今は前の名雲さんの時とは違って、ちゃんと企業に登録してるやつなんだけどね。色々と違う悩みを持つ女の子たちだけど、凄く、うん、やり甲斐がある」

「デレデレしない」

「痛い! 何でいきなり足を踏まれるの!?」

 彼女は僕の悲鳴を無視して、とことこと先に行ってしまった。

「先生は、問題児ばっかり受け持つんですね」

「うーん」

 確かに、否定はできなかった。今受け持っている摩耶さんも、雅さんも、オタクで不登校だったり、やんきーでタバコを吸っていたりと、そこそこに問題児ではある。

「きっと、それはもう運命なんですよね」

「嫌な運命だね、それ……」

 摩耶さんに聞かれたら、「私は腐ったミカンじゃない!」とか意味の分からない事を叫びそうだ。

「いい意味で、ですよ。小説とかでもそうなんですけど、要するに、問題を解決する人間でないと、そもそも問題には辿り着けないんですよ。でも、あなたはあの魔法使いの先生に近づけるように、色々と問題児を受け持っているんです。これって、どういうことだか分かります?」

「ごめん、もう一回言ってくれる?」

 僕の言葉に彼女は呆れたように大きくため息を吐いた。

「ヒント。あなたは私を助けた」

 ますます分からない。

「もういいです。――つまり、あくまでも、あくまでもですけどね? その子達や私にとって、きっと」

 彼女は小さな身体を翻しながら、満開に笑った。

「先生はね、魔法使いなんですよ」

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