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丸い角砂糖

 口癖は“エキセントリックになりたい”

 凡人である俺は、まるで呪文のようにその言葉を唱える。もちろん、実際に声には出さない。意味ありげな表情でただ心の中で唱えるのだ。


“エキセントリックになりたい”


 たとえば、自分好みの横顔の美しい女に出会ったとしよう。エキセントリックになりたい俺は出会った1秒後には、女のその瑞々しい口唇にキスでもしなければならないだろう。しかし、凡人である俺はいつだって横顔の美しい女をただ指を加えて見ているだけなのだ。もちろん実際に指を加えてなどいない。それぐらいの気分だという話だ。

 ならば勇気を持って、凡人の凡人が故の平凡を打ち破れば良いと思うだろう? だが、物事はそう簡単には進まない。突き進むだけの衝動に駆られないのだ。良いか。考えてみれば分かるだろうが、人間である以上常この腐った脳みそでも、物事を嫌と言うほど考える。録画した番組を見ないまま消そうか、やめておこうか。割れたプラスチックは、燃えるゴミか燃えないゴミか。昼飯はカレーか牛丼か。その神経伝達は、休むこと無く肉体が滅びるまで永遠に繰り返される。否が応でもだ。

 つまりは、それが俺のエキセントリック化を妨害している。ここではあえてエキセントリック化と言おう。俺のエキセントリック化を妨害するのがこの俺自身ならば、そこから助けだしてくれるのは一体ダレなのか? ダレノガレではない。一体どこのどいつで、そいつはドイツに居るのか、或いは居ないのか? と言う事を聞いている。


 今も俺はごくありふれた喫茶店で、豆の香りなど一切しない珈琲を口に含むフリをしながら床に吐き捨てている。もちろん、実際には吐き捨ててなどいない。それぐらい不味いという話だ。

 しかし、まるで地獄だな。平日の昼間からこんなモノを飲まなければならないなど、俺は苦行を強いられているのか。しかも、俺の懐から金まで取る始末だ。時代が時代なら、俺は腰の得物であのチョビヒゲのマスターを切り捨てているところだ。だが、俺は凡人である。そんな事はたとえ時代が時代でも、行いはしないだろう。もちろん抜刀すらしないはずだ。今だってそうだ。文句一つ言わずに、ただ珈琲を胃の中へ無理矢理に流し込んでいる。

 ならば、飲むのをやめろと言うだろう。まぁ、聞け。俺は凡人だ。喫茶店に入って珈琲以外を注文する程のエキセントリックさを持ち合わせてはいない。喫茶店と言えば、珈琲だ。珈琲と言えば、喫茶店だ。インベーダーゲームの時代はとうの昔に過ぎ去った! ならば俺が珈琲を注文することは、普通中の普通のことなのだ。そして、それを注文したにも関わらず残すなどという、ぶっ飛んだ発想など全くこの頭の中にはないのだ。自分で注文したものをだな、ほとんど飲まずに残すなどエキセントリック以外の何者でもないだろう。そこに俺は憧れ……いや、恋い焦がれてはいるけども、そう簡単にエキセントリックになれるのなら、そもそも俺は凡人ではない筈だ!

 反対に考えれば、あのチョビヒゲのマスターは随分とエキセントリックを嗜んでいるらしい。客にこれほどまでの不味い珈琲を出しておきながら、更に金まで毟り取るのだ。しかも800円もだ。これには俺も注文前に気付いていたが、珈琲以外を頼むエキセントリックさもなく、ましてや喫茶店から出て行くなど論外である俺は注文するしか道はなかった。こんな事なら、せめてもう少し安いオレンジジュースにしておくべきだったか。そうだ。あれなら凡人が頼んだっておかしくない。今更そんな事に気付くなど、俺は本当に全くもっての凡人だな。一生、この枠からはみ出ることはないのだろう。


“エキセントリックになりたい”


 喫茶店のドアについているベルが耳障りなほど大きく鳴る。チョビヒゲのマスターは軽い会釈をすると、俺の横を通り過ぎる女も軽く会釈をした。足首まである長い毛皮のコートに、目玉ほどのでかいイヤリング。そして、赤い肩までの髪は緩いウェーブが掛かっていた。随分と作り物臭い女だ。常連客か?

 俺は店の奥側のカウンター席に座った女の顔を見た。その横顔に俺は、持っていたコーヒーカップをソーサーに喧しく置いてしまった。そのせいで女がこちらに一瞥をくれる。そして、そのエメラルドグリーンの瞳が俺を捉えれば、心臓は突如として走りだす。それはかの有名バンドの“CANDY”のように、またはあのレースを制したスプリンターのように。これは今までの俺の平凡人生にはなかった、パンクミュージックのようなテンポであった。

 次の瞬間、俺をエキセントリック化させるのはこの女だと確信した。お高く止まって見える顔に、肉食獣の口元のような真っ赤なルージュ。間違いない。俺を普通から平凡から連れ出す女はこいつだ。さぁ、この俺を今すぐにでも助けだしてくれ。

 こうなるともう俺の膨れ上がる禍々しい妄想を破裂させる事は不可能なのだ。そう、誰にも。頭の中に数々の映像が流れだす。

 あの纏っている毛皮を剥げば、白く艶かしい肌が潜んでいるだとか。俺を飲み込まんとする口元は、だらし無くてわざとらしいだとか。まだ見えぬ腰には、スコーピオンがこちらを睨みつけるだとか。エキセントリックが牙を剥く。もちろん実際には歯などない。あればとっくに俺は鮮血を流し、凡人ではなくなっている。

 俺は既にこちらから視線を外した女に助けを求めるように、もう一度やかましくコーヒーカップをソーサーに置いた。だが、女がこちらにエメラルドグリーンの瞳を見せる事はなかった。何故なのだ。俺を助けだしてくれるのは、他の誰でもなくお前なのだろう? 違うならば、俺の思考に語りかけてくれ。早く。早く。


「ねぇ、昨日の夢で約束したじゃない? 湿った草の上で踊りましょうって」


 そんな媚びた声が聞こえて来る。いや、実際には誰もそんな言葉を紡いでなどいない。女の声も本当に媚びたものかどうかも知らない。完璧に俺のイマジネーションの賜だ。こんな台詞を吐けば良いなと望んでいるだけだ。なのに俺はどうしようもなく興奮していた。今なら、デッドブリッジからこの身を投げるフリが出来る。それくらい今はエキセントリックだ!

 来たぞ。イケる。俺はこのままエキセントリックになれる。もう少しで平凡を打ち破れる。このままあの女の隣に座り、美しい横顔に舌を這わしてやろうか。それとも顔の前に俺の白い尻を出して、サンバに合わせて振ってやろうか。今の俺なら間違いなく突き抜ける事が出来る。

 やるか? いや、人生などいつだって“やるか、やらないか”の二択なのだ。ならば俺の選択は――

 いや、でもまだダメだ。待て、待つんだジョー! 俺は凡人だ。もうひと押し必要だろう? そうだ、何がイイ? 女の匂いだろうか? 女の匂いが嗅げれば、俺はもうぶち破って突き抜ける事ができるだろう。だが、俺はあいにく丸い角砂糖アレルギーで今は鼻が利かない。この喫茶店が丸い角砂糖を使用してない店ならば、また違ったというものの。仕方ないから俺は、女の匂いをお得意のイマジネーションを使って嗅いだ。

 うん、素晴らしくシャ☓ルの5番だ。俺はそれ以外、香水と言うものを知らない。だが、これでは普通過ぎる。エキセントリックになるには、もっと奇抜で飛び抜けた香りでなければダメだ。毛皮の女に相応しい香り。スパイシーでいて且つフローラルであり、ミッドナイト色の強いもの。

 そうだ! 閃いた! 洗濯前の下着の匂いだ。女は洗濯前の下着の匂いがする筈だ。何故なら、洗濯前の下着を身につけているからだ。それも燃えるようなセクシャルバイオレットな下着を。

 いや、違う! ダメだ! そうじゃない! もっと先鋭的でなければエキセントリックではない! 貝殻……そうだ、女は貝殻でアフンでオホンな部分を隠しているに違いない。

 だが、ここで矛盾が生じる。女の匂いは洗濯前の下着の匂いだ。しかし、貝殻を着けているとなれば、磯臭い匂いになるだろう。どうするか。そもそも落ち着いて考えれば、女の匂いなど俺は全く知らないのだ。全てこの頭の中でのお戯れでしかない。推測や妄想の域から脱しない。

 やはり、俺は凡人なのだ。自分好みの横顔の美しい女に出会っても、指を加えて見ているだけなのだ。そう、俺は本当に人差し指を口に加えた。

 すると、それまで俺に背を向け、つまらない珈琲を飲んでいた女がこちらを向いた。驚いた俺は口から指を引き抜くと、唾液が糸を引いてついてきた。女はそんな俺に僅かに口角を上げると、カウンターの椅子から下り立った。そして、俺の人差し指を肉食獣さながらに貪ると、恍惚の表情を浮かべた。


「あんた、さっきからアタシの事見てるけど、抱きたいの? 抱かれたいの?」


 野太い声に薄っすらと見える青ひげ。匂いは煙草と珈琲が混じった社会科教師のような匂い。

 俺の妄想は一気に萎む。破裂すること無く、ざまあねぇなと汁を垂らして。




 俺はその夜、エキセントリックになった。上にも下にも移動できるエレベーターで、サイケデリックな景色を眺めながら。そして、全裸でフィギュアスケートを洒落こんで、チョリソーを食べた。終いには、口についたケチャップでバスルームに伝言まで残してやった。


“エキセントリックになりたい”


 エキセントリックに染まった俺は、最早エキセントリックではなくなった。どんなにぶっ飛んだ日々とて、続けば日常。平凡の芽が息吹く。所詮、丸い角砂糖も珈琲の中に落ちれば、ただの甘味に過ぎない。どんな砂糖だったかなど誰も気にしない。ありふれた砂糖なのだ。

 そうだ。やはり俺はエキセントリックに憧れた、どこにでも居る凡人だった。

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