表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

空から舞い降りた少年と、二人で雫を落とす

作者: 米森みりん
掲載日:2026/03/21

 少年がはにかんだ。ターコイズブルーの目を輝かせ、やんちゃな表情を作る。

「わあ、その服、僕とおそろいだね!」

 そう言って、少年は背中を向ける。真っ白な翼。今まで目にした白で、一番綺麗だ。何の穢れも知らない、純粋そのもの。太陽に照らされた翼は、光を振りまいた。


 あの日、私が命を絶とうとした日、空から少年が舞い降りた。ああ、迎えが来たんだ。私はそう思った。この少年は、私をどこへ連れて行ってくれるのだろう。地獄だって構わない。きっと、優しく手を引いてくれる。この世界から出してくれる。私は目を閉じ、少年が私の手を掴むのを待った。

 目を開けると、私は暗闇に包まれていた。地獄にしては、やけに心地いい。暑くなければ、寒くもない。辺りを見渡そうとすると、光が見えた。

 少年の翼だった。少年は不思議そうに、私の顔を覗き込んでいた。青い瞳に吸い込まれそうになった。長い時間が過ぎ、少年は満足げな顔をして言った。

「おはよう」

 おはよう。私はそう返そうとした。だけど、言葉が出ない。人と関わらなくなって、声の出し方を忘れてしまっていた。

 少年はつまらなそうに、そっぽを向いた。

「なんだ、僕が見えないのか」

 拗ねた声で言った。

 違うよ、見えてるよ。だから、私を置いていかないで。一人にしないで……。声にならない声で、そう叫んだ。

 あれだけ一人になりたいと思っていたのに、愛を嫌ったのに、私は光を求めた。少年を求めた。

 少年が私の手を握った。異国のものに出会ったかのように、まじまじと私の手を見た。匂いを嗅いでみたり、舐めてみたりした。私はされるがままだった。

 やがて朝が来た。それで私は、自分のいる場所が天国でも地獄でもないことに気がついた。

 空を見上げた。少年がいた場所。遠いようで近いのかもしれない。または、近いようで遠いのかもしれない。

 少年も私の真似をするように、空を見上げた。二人とも、何も言わなかった。


 もう「死」の文字は、私の頭の中から消えていた。少年が浄化してくれた。

 少年は、おぼつかない足取りで私の隣を歩いた。見るもの全てが新鮮なようで、川や花、石ころにまで惹かれ、うっとりと眺めていた。

 ねえ、あれは何。その木の実って美味しいの。どうして葉は落ちてくるの。少年は私に尋ねた。私は答えられなかった。それでも少年は、私に話しかけた。

 ある夜、二人で満天の星を見た。丘の上に腰を下ろし、二人は寄り添った。いつもおしゃべりな少年は、その夜はただ静かに星を見ていた。

 少年が口を開いたのは、太陽が顔を見せたときだった。

「天って、そんなに悪いものじゃなかったんだ」

 私は少年の言葉に耳を傾けた。

「僕はあんなに美しい場所に住んでいたんだ。……でも、それを知らなかった。地に降りなければ、ずっと知らないままだったんだ」

 少年が私の手を握った。

「君は、僕にたくさんの美しいものを見せてくれる。幸せを教えてくれる。君に僕が見えなくたって構わない。ただ、一緒に旅ができるだけでいい。例え明日、今消えてしまったとしても、僕は後悔なんてしない。こんなに美しい人に出逢えたのだから」

 少年が私の手の甲に、そっとキスをした。

「誇りに思っているんだ」

 私を見つめる瞳は、どんな空よりも澄んで、どんな海よりも深かった。私は一つだけ、涙を零した。少年は不思議そうに、その涙を舐めた。


 私は歳を重ねた。孤独を愛した時間より、少年を愛した時間の方が長くなった。でも、その時間はいつ終わりを告げるか分からない。

 永遠というものがあると錯覚した。少年と出逢ったばかりの頃は私も若くて、危険なことでも何でもできた。だけど、今はできることが減った。体が鈍くなった。

 少年はずっと変わらない。プラチナブロンドの髪。ターコイズブルーの目。真っ白な翼。どれも色褪せることはなく、私の隣で輝き続けた。

 一方で私は、自慢だった黒い髪が白くなってきた。仕方がないことではあるけれど、やっぱりショックだった。嫌になって、ばっさりと切ってしまった。それでも少年は、私の髪を撫でてくれた。

「君の髪はどんどん美しくなっていくね。あの夜の天も、君の美しさには敵わないや」

 そんなことまで言ってくれた。

 ありがとう。君の方がずっと美しいよ。君が私を照らす光なんだよ……。そう伝えたくても、声にならなかった。もどかしかった。

 好奇心旺盛で天真爛漫な少年は、空っぽになった私の心を、たくさんの宝石で埋めてくれる。モノクロームになった私の感情に、絵の具で色をつけてくれる。時に目眩を感じるほど、私の世界は色鮮やかになった。

「君と出逢って、僕は『退屈』という感情を忘れてしまった。その代わり、色んなことを知った。草が青いこと。朝によく鳥が鳴くこと。パンは素敵な匂いがすること。タンポポの茎が苦いこと。春の川が冷たいこと。そして……こんなに美しい人がいるということ」

 そう言って少年ははにかんだ。頬を薔薇色に染め、私を見つめた。

「僕はね、天からたくさんの人間を見てきたんだ。涙というものは知っていた。悲しいときや、嬉しいときに、人間が目から零す液体。でもね、僕はなぜ君がその液体を零したのかが解らなかった。だから考えたんだよ」

 私は目を閉じ、耳を澄ました。ちゃんと聞いているよ、しっかり君の言葉を受け止めているよと、伝わったらいいなと思った。

「僕はあることを思い出した。仲が良さそうな二人の人間は、よくキスをするんだ。抱き合って、何か言葉を囁くんだ。僕にはよく分からなかったけど、多分、自分の感情を互いに伝えるんだ。僕が君の手にキスをしたときに、君は涙を零した。きっと嬉しかったんだね。それで泣いたんだ」

 少年が私の頬にキスをした。そして、花を抱えるように、優しく私を抱きしめた。

「僕、幸せだよ。君が隣にいると、なんだか温かくなるんだ。君の手を握ると、僕も人間になったように感じるんだ。僕が守らなきゃと思うんだ。君と一緒なら、何にでも立ち向かえる。君がいるから僕がいる。そう思うようになった」

 私は少年の背中に手を回そうとした。震えて、上手く腕が動かなかった。私も、彼に想いを伝えなければ。溢れんばかりの想いを、彼に……。

「あ、あ……」

 あと四文字、たった四文字が、出なかった。

 彼は、綺麗な雫を落としていた。


 それからまた時は流れ、私は今、数十年ぶりにワンピースを身につけている。少年の翼には及ばないけれど、真っ白なシルクのワンピース。

 私と少年の結婚式。少年が結婚というものを知っているのかは分からない。言ってしまえば、一方的な結婚式。

 私は、ベールの代わりに花冠を作り始めた。それを少年が眺めている。急にどこかへ行ったかと思えば、綺麗な花を摘んできた。少年はそっと、私の近くに置いた。私はそれを拾い、丁寧に作っていった。完成した花冠は、少し特別な日にピッタリだった。

 やがて、雨が降ってきた。五月雨だ。

 私は雨の匂いを嗅ぐ振りをして、顔を、唇を突き出した。私の唇が、少年の唇に触れた。私からキスをするのは初めてだった。

 二人はまた、雫を落とした。一つ、二つ、三つ。その雫には、綺麗な思い出が映っていた。また一つ、雫を落とした。四つ目の雫。花冠を作る二人が映っていた。

 浄化された「死」の文字が、私の元へやってきた。驚くほど清々しい気持ちで、死を迎えることができた。

 彼は話し始めた。

「僕ね、過ちを犯したんだ。本当は僕、地に降りてきたら駄目なんだ。天にいなきゃ駄目だったんだ。このことを話したら、きっと、君が悲しむと思って今まで話さなかったんだ。でも、わかったよ。そんなことは関係ないんだ。ただ僕らは二人でいれたら、もうそれだけでいいんだ。何も隠すことはなかったんだ」

 彼は私の髪を撫でた。いつもと同じように、撫でてくれた。

「君に出逢えて幸せだよ。おやすみ、僕の花嫁さん」

 私は彼に抱かれながら、深い眠りについた。


 気がつくと、私の身体は消えていた。彼が握ってくれた手も、彼が撫でてくれた髪も、彼に触れた唇も、全て消えていた。

 ただ二つだけ、残っているものがある。星の数ほどの宝石で埋め尽くされた心と、どんな景色よりも綺麗で鮮やかな感情。それさえあれば、もう何でも良かった。

 空はなかった。どうやら、地よりも深い場所に堕ちてしまったようだ。一度の過ち、人殺しの罰だろう。何も立ち入れないように塞ぎきった私の心は、凶器となり、取り返しのつかないことをした。私に発情した父親を殺した。そのとき私は、何も感じなかった。

 私は罰を受け入れる。どんなに苦しくとも、この心と感情は消えない。消えさせない。

 ふと上を見上げた。光が見えた。その光は、ゆっくりと堕ちてきた。

 彼だ。

 真っ白な翼はなかった。空よりも澄んで、海よりも深い青色のターコイズが、私の前に舞い降りた。私が持っている、どの宝石よりも美しい。

 初めて二人は、心を重ねた。初めて二人は、手を繋いだ。もう手なんかないけど、確かに繋いだ。

 ずっとずっと、逢いたかった。

 天よりも美しい雫は、蒸発することなく残り続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ