空から舞い降りた少年と、二人で雫を落とす
少年がはにかんだ。ターコイズブルーの目を輝かせ、やんちゃな表情を作る。
「わあ、その服、僕とおそろいだね!」
そう言って、少年は背中を向ける。真っ白な翼。今まで目にした白で、一番綺麗だ。何の穢れも知らない、純粋そのもの。太陽に照らされた翼は、光を振りまいた。
あの日、私が命を絶とうとした日、空から少年が舞い降りた。ああ、迎えが来たんだ。私はそう思った。この少年は、私をどこへ連れて行ってくれるのだろう。地獄だって構わない。きっと、優しく手を引いてくれる。この世界から出してくれる。私は目を閉じ、少年が私の手を掴むのを待った。
目を開けると、私は暗闇に包まれていた。地獄にしては、やけに心地いい。暑くなければ、寒くもない。辺りを見渡そうとすると、光が見えた。
少年の翼だった。少年は不思議そうに、私の顔を覗き込んでいた。青い瞳に吸い込まれそうになった。長い時間が過ぎ、少年は満足げな顔をして言った。
「おはよう」
おはよう。私はそう返そうとした。だけど、言葉が出ない。人と関わらなくなって、声の出し方を忘れてしまっていた。
少年はつまらなそうに、そっぽを向いた。
「なんだ、僕が見えないのか」
拗ねた声で言った。
違うよ、見えてるよ。だから、私を置いていかないで。一人にしないで……。声にならない声で、そう叫んだ。
あれだけ一人になりたいと思っていたのに、愛を嫌ったのに、私は光を求めた。少年を求めた。
少年が私の手を握った。異国のものに出会ったかのように、まじまじと私の手を見た。匂いを嗅いでみたり、舐めてみたりした。私はされるがままだった。
やがて朝が来た。それで私は、自分のいる場所が天国でも地獄でもないことに気がついた。
空を見上げた。少年がいた場所。遠いようで近いのかもしれない。または、近いようで遠いのかもしれない。
少年も私の真似をするように、空を見上げた。二人とも、何も言わなかった。
もう「死」の文字は、私の頭の中から消えていた。少年が浄化してくれた。
少年は、おぼつかない足取りで私の隣を歩いた。見るもの全てが新鮮なようで、川や花、石ころにまで惹かれ、うっとりと眺めていた。
ねえ、あれは何。その木の実って美味しいの。どうして葉は落ちてくるの。少年は私に尋ねた。私は答えられなかった。それでも少年は、私に話しかけた。
ある夜、二人で満天の星を見た。丘の上に腰を下ろし、二人は寄り添った。いつもおしゃべりな少年は、その夜はただ静かに星を見ていた。
少年が口を開いたのは、太陽が顔を見せたときだった。
「天って、そんなに悪いものじゃなかったんだ」
私は少年の言葉に耳を傾けた。
「僕はあんなに美しい場所に住んでいたんだ。……でも、それを知らなかった。地に降りなければ、ずっと知らないままだったんだ」
少年が私の手を握った。
「君は、僕にたくさんの美しいものを見せてくれる。幸せを教えてくれる。君に僕が見えなくたって構わない。ただ、一緒に旅ができるだけでいい。例え明日、今消えてしまったとしても、僕は後悔なんてしない。こんなに美しい人に出逢えたのだから」
少年が私の手の甲に、そっとキスをした。
「誇りに思っているんだ」
私を見つめる瞳は、どんな空よりも澄んで、どんな海よりも深かった。私は一つだけ、涙を零した。少年は不思議そうに、その涙を舐めた。
私は歳を重ねた。孤独を愛した時間より、少年を愛した時間の方が長くなった。でも、その時間はいつ終わりを告げるか分からない。
永遠というものがあると錯覚した。少年と出逢ったばかりの頃は私も若くて、危険なことでも何でもできた。だけど、今はできることが減った。体が鈍くなった。
少年はずっと変わらない。プラチナブロンドの髪。ターコイズブルーの目。真っ白な翼。どれも色褪せることはなく、私の隣で輝き続けた。
一方で私は、自慢だった黒い髪が白くなってきた。仕方がないことではあるけれど、やっぱりショックだった。嫌になって、ばっさりと切ってしまった。それでも少年は、私の髪を撫でてくれた。
「君の髪はどんどん美しくなっていくね。あの夜の天も、君の美しさには敵わないや」
そんなことまで言ってくれた。
ありがとう。君の方がずっと美しいよ。君が私を照らす光なんだよ……。そう伝えたくても、声にならなかった。もどかしかった。
好奇心旺盛で天真爛漫な少年は、空っぽになった私の心を、たくさんの宝石で埋めてくれる。モノクロームになった私の感情に、絵の具で色をつけてくれる。時に目眩を感じるほど、私の世界は色鮮やかになった。
「君と出逢って、僕は『退屈』という感情を忘れてしまった。その代わり、色んなことを知った。草が青いこと。朝によく鳥が鳴くこと。パンは素敵な匂いがすること。タンポポの茎が苦いこと。春の川が冷たいこと。そして……こんなに美しい人がいるということ」
そう言って少年ははにかんだ。頬を薔薇色に染め、私を見つめた。
「僕はね、天からたくさんの人間を見てきたんだ。涙というものは知っていた。悲しいときや、嬉しいときに、人間が目から零す液体。でもね、僕はなぜ君がその液体を零したのかが解らなかった。だから考えたんだよ」
私は目を閉じ、耳を澄ました。ちゃんと聞いているよ、しっかり君の言葉を受け止めているよと、伝わったらいいなと思った。
「僕はあることを思い出した。仲が良さそうな二人の人間は、よくキスをするんだ。抱き合って、何か言葉を囁くんだ。僕にはよく分からなかったけど、多分、自分の感情を互いに伝えるんだ。僕が君の手にキスをしたときに、君は涙を零した。きっと嬉しかったんだね。それで泣いたんだ」
少年が私の頬にキスをした。そして、花を抱えるように、優しく私を抱きしめた。
「僕、幸せだよ。君が隣にいると、なんだか温かくなるんだ。君の手を握ると、僕も人間になったように感じるんだ。僕が守らなきゃと思うんだ。君と一緒なら、何にでも立ち向かえる。君がいるから僕がいる。そう思うようになった」
私は少年の背中に手を回そうとした。震えて、上手く腕が動かなかった。私も、彼に想いを伝えなければ。溢れんばかりの想いを、彼に……。
「あ、あ……」
あと四文字、たった四文字が、出なかった。
彼は、綺麗な雫を落としていた。
それからまた時は流れ、私は今、数十年ぶりにワンピースを身につけている。少年の翼には及ばないけれど、真っ白なシルクのワンピース。
私と少年の結婚式。少年が結婚というものを知っているのかは分からない。言ってしまえば、一方的な結婚式。
私は、ベールの代わりに花冠を作り始めた。それを少年が眺めている。急にどこかへ行ったかと思えば、綺麗な花を摘んできた。少年はそっと、私の近くに置いた。私はそれを拾い、丁寧に作っていった。完成した花冠は、少し特別な日にピッタリだった。
やがて、雨が降ってきた。五月雨だ。
私は雨の匂いを嗅ぐ振りをして、顔を、唇を突き出した。私の唇が、少年の唇に触れた。私からキスをするのは初めてだった。
二人はまた、雫を落とした。一つ、二つ、三つ。その雫には、綺麗な思い出が映っていた。また一つ、雫を落とした。四つ目の雫。花冠を作る二人が映っていた。
浄化された「死」の文字が、私の元へやってきた。驚くほど清々しい気持ちで、死を迎えることができた。
彼は話し始めた。
「僕ね、過ちを犯したんだ。本当は僕、地に降りてきたら駄目なんだ。天にいなきゃ駄目だったんだ。このことを話したら、きっと、君が悲しむと思って今まで話さなかったんだ。でも、わかったよ。そんなことは関係ないんだ。ただ僕らは二人でいれたら、もうそれだけでいいんだ。何も隠すことはなかったんだ」
彼は私の髪を撫でた。いつもと同じように、撫でてくれた。
「君に出逢えて幸せだよ。おやすみ、僕の花嫁さん」
私は彼に抱かれながら、深い眠りについた。
気がつくと、私の身体は消えていた。彼が握ってくれた手も、彼が撫でてくれた髪も、彼に触れた唇も、全て消えていた。
ただ二つだけ、残っているものがある。星の数ほどの宝石で埋め尽くされた心と、どんな景色よりも綺麗で鮮やかな感情。それさえあれば、もう何でも良かった。
空はなかった。どうやら、地よりも深い場所に堕ちてしまったようだ。一度の過ち、人殺しの罰だろう。何も立ち入れないように塞ぎきった私の心は、凶器となり、取り返しのつかないことをした。私に発情した父親を殺した。そのとき私は、何も感じなかった。
私は罰を受け入れる。どんなに苦しくとも、この心と感情は消えない。消えさせない。
ふと上を見上げた。光が見えた。その光は、ゆっくりと堕ちてきた。
彼だ。
真っ白な翼はなかった。空よりも澄んで、海よりも深い青色のターコイズが、私の前に舞い降りた。私が持っている、どの宝石よりも美しい。
初めて二人は、心を重ねた。初めて二人は、手を繋いだ。もう手なんかないけど、確かに繋いだ。
ずっとずっと、逢いたかった。
天よりも美しい雫は、蒸発することなく残り続けた。




