第6話:狂信者の襲来と、生けるルーヴル美術館
第6話:狂信者の襲来と、生けるルーヴル美術館
「零様ぁぁ! どこですか、僕の救済はどこにいらっしゃるんですかッ!」
佐倉ダンススタジオの扉が、壊れんばかりの勢いで蹴り開けられた。
現れたのは、絵具の汚れが点いた作業着を翻し、狂気的な眼光を放つ美大生――漆原聖だった。その背後には、スマホを掲げた望月琴音と、一眼レフを構えた「信者」たちが雲霞の如く群がっている。
「ちょっと! ここはダンススタジオよ、営業妨害で訴えるわよ!」
結衣が必死にバリケードを作って押し返すが、漆原は結衣の腕の間から、スタジオの隅で震えている「それ」を見つけ出した。
「ああ……あああ! いた! いたぞ、SNSの海で僕の網膜を焼き切った『生けるルーヴル美術館』が!」
「ひっ……!」
零は、モップを盾にしてガタガタと震えていた。
「零様! お願いです、一歩……一歩だけでいい、歩いてください! あなたのその、絶望を練り固めたような陰鬱な骨格! そして光を反射するのを拒絶しているような、あまりに透明な皮膚! デッサンさせてください、僕の画材であなたを汚させてくださいッ!」
「汚……汚す!? あ、ああ……ついに専門家の方が。僕の存在そのものがこの世の色彩を乱す汚点だと、直接キャンバスに記録しに来たのですね……」
零の瞳から、一筋の美しい涙が零れ落ちる。
「光栄です! あなたの清らかな筆を、僕のような有害物質を描くことでダメにしてしまうのは心苦しいですが……僕がこの世に生きていたという『不名誉な記録』を残すためなら、どうぞ、お好きなように汚してください! なんなら、僕の上に絵具を直接ぶちまけて、背景と同化させてくださっても構いません!」
「なんてことだ……! 自らを背景へ、虚無へと落とし込もうとするその謙虚さ……! それこそが究極の芸術だ!」
漆原はその場で膝をつき、猛烈な勢いでスケッチブックにペンを走らせ始めた。
「……(なんなの、この空間。狂気と自虐の永久機関じゃない)」
結衣はこめかみを押さえ、脳内の計算機がエラーを吐き出すのを感じていた。
スタジオの外では、望月琴音が淡々とライブ配信を行っている。
「……現在、聖地『佐倉スタジオ』にて、神の顕現を確認。零様のネガティブ波動、規定値を突破。全人類、今すぐひれ伏すべき」
「琴音ちゃんもやめなさい! ここはダンススタジオなの、美術館でも教会でもないわよ!」
「結衣さん……」
零が、幽霊のような足取りで結衣に歩み寄る。
「外にいるあの方たちは、僕を捕獲するための監視団ですよね? 僕が吐き出す二酸化炭素が環境基準を超えていないか、チェックしているんですよね? ……いっそ、僕を『有害指定物』として、鉛の箱に閉じ込めて深海に沈めてください」
「違うって言ってるでしょ! あんたを拝みたいだけなのよ!」
そこへ、さらに拍車をかけるように「ママさん軍団」が乱入してきた。
「あらあら、零くん! 大人気じゃないの! 光代さん、これはいよいよ『零くんファンクラブ・プラチナ会員権』を発行する時ね!」
「そうね、節子。入会特典は、零くんが涙を拭いたティッシュ(レプリカ)と、彼が踏んだ後の床の埃を詰めたお守りよ!」
「やめてぇぇぇ! 僕の老廃物をそんな神聖なもののように扱わないでください! それ、バイオハザードですよ!」
阿鼻叫喚の渦中、スタジオの隅で「埃」としての擬態を続けていた麗華が、静かに扇子を開いた。
「……皆さん、おだまりなさい」
お嬢様ダンサーの放つ、凛とした威圧感。
一瞬、スタジオに静寂が訪れる。
「零様をこれ以上、好奇の目にさらすのはおやめなさい。零様が求めているのは、ご自身を消し去るための……そう、ダンスという名の『逃走』です。漆原さん、あなたも描きなさい。静止画ではなく、その身のこなしに宿る『哀しみ』を!」
「……っ! 麗華様、おっしゃる通りです! 動く零様……それはまさに、神が描くアニメーション!」
「よし、零。もうやけっぱちよ! あんた、この群衆から逃げ切りたければ、最高のステップを見せなさい! 捕まったら最後、こいつらに一日中デッサンされるわよ!」
結衣の言葉が、零の「生存本能(という名の隠蔽本能)」に火をつけた。
「……ひっ! 捕まる……捕まって、僕のこの不快な造形を永久保存されるなんて、そんな拷問、耐えられません! 逃げなきゃ……視界から、この世から消えなきゃ……!」
零は、漆黒の練習着を翻し、フロアの中央へ躍り出た。
それは、もはやワルツの基本ステップではなかった。
漆原のペンを避け、信者のカメラのピントを狂わせ、結衣の指示からさえも逸脱しようとする、超高速の「隠蔽の舞」。
しかし、逃げようと低く身を沈めるポーズは「完璧なコントラ・チェック」となり、捕まるまいと大きく腕を伸ばす動作は「ドラマチックなシェイプ」へと昇華される。
「あああああ! 美しすぎる! 今の、今のシャドー・テレマーク、僕の心臓が止まるかと思った!」
「琴音、今の撮った!? 零様の残像で、私の網膜が浄化されてる……!」
零が必死になればなるほど、スタジオは歓喜の叫びに包まれ、SNSの同時接続数は爆発的に伸びていく。
本人は「なぜだ、なぜみんな僕を追いかけてくるんだ……! 僕の体から、何か致死性の毒ガスでも出ているのか!?」と絶望の淵で舞い続けているというのに。
「……(あーあ、もう収拾がつかないわ)」
結衣は、手元の計算機を見つめた。
スタジオの借金返済という目標は、この「投げ銭」と「入会希望者」の波で、一気に現実味を帯び始めている。だが同時に、目の前の「100億点のゴミ」が、自分の手の届かないところへ行ってしまうような、奇妙な焦燥感も覚えていた。
「……あんたは、世界の中心で踊るべき人なのよ。零」
結衣が小さく呟いたその言葉は、ファンの歓声にかき消された。
しかし、この狂乱は、海の向こうにいる「本物の怪物」をも呼び寄せることになる。
伝説の振付師、シャルル・ボナパルト。
彼は、タブレットに映る零の「絶望のステップ」を見て、震える手でシャンパングラスを握りしめていた。
「これだ……。これこそが、私が30年探し求めていた……『本物の死』を纏ったデカダンス……!」
氷の貴公子の受難は、まだ序の口に過ぎなかった。




