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氷の美貌と、恋のステップ 〜自己肯定感ゼロの絶世美青年、勘違いの猛特訓で社交ダンス界の頂点へ〜  作者: あめたす


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第5話:エリート銀行員の再来と、100億点のゴミ

第5話:エリート銀行員の再来と、100億点のゴミ


「……相変わらず、薄汚れた場所だね。結衣」


 その男は、高級なイタリア製スーツの皺ひとつない着こなしで、スタジオの入り口に立っていた。

 高梨徹たかなし とおる。結衣を「君は一人で生きていける」という呪いの言葉と共に捨てた、元婚約者でありエリート銀行員だ。


「徹……。何の用よ。ここはあんたみたいなハイソな人間が来る場所じゃないわ」


 結衣の声が強張る。脳内計算機が「不快指数120%」を叩き出す。

 徹は鼻で笑い、スタジオの古びた内装を見渡した。


「実家の借金返済のために、素人を看板にして客寄せをしていると聞いた。銀行員として忠告に来たんだよ。そんな見え透いた詐欺まがいの商売、すぐに破綻する。今ならまだ、僕の紹介でいい再就職先を――」


 その時だった。


 スタジオの奥、古びた更衣室のカーテンから、一人の男が這い出してきた。


「……すみません、お話し中失礼します。僕が吐き出した溜息で、スタジオの湿度が上昇してしまいました。カビの発生原因になりますので、一度屋外へ排除されてきます……」


 氷室零である。

 徹は、何気なくその「素人」へと視線を向け――そして、言葉を失った。

 逆光を浴びて透き通るような白い肌。

 憂いを帯びた切れ長の瞳。

 ただそこに立っているだけで、周囲の空間が中世の宗教画のような神聖さを帯びる。


「な……っ!? き、君が……看板の素人か?」


 徹のプライドが音を立てて軋んだ。自分がどれだけ高級なスーツを着ようとも、目の前の男の「存在そのものの美」には一秒で敗北することを本能が理解したのだ。


「看板だなんて、滅相もありません」


 零は徹の前に立つと、深々と頭を下げた。

 その角度、その指先の揃え方。あまりに洗練された「卑屈」の所作に、徹は気圧される。


「僕は看板ではなく、看板の裏側にこびりついたガムの燃えカスのような存在です。先ほど『詐欺まがい』とおっしゃいましたが、まさにその通りです。僕のような歩く視覚公害が、結衣さんの尊いスタジオの景観を汚している……。あなたのような賢明な方が、このペテンを見抜いてくださって、僕は今、猛烈に感動しています」


「……あ、ああ? いや、私は……」


「わかります。その軽蔑に満ちた眼差し……! 『なぜこのゴミはまだ自決して消えないんだ』と問いかけているのですね? 僕も毎朝、鏡を見るたびに(と言っても暗闇の中ですが)自分にそう問いかけています」


 零は徹の手を、祈るような敬虔さで握りしめた。


「どうか、僕を銀行の地下金庫にでも幽閉してください。太陽の光を浴びる資格のない僕を、社会から抹消してくださるなら、僕はあなたの靴の裏を舐めても構いません。あ、でも僕の唾液であなたの高級な靴が溶けてしまうといけないので、やはり遠くから罵倒していただくだけで十分です……!」


「……っ!? は、離せ! 君は何を言っているんだ!」


 徹は戦慄した。

 罵倒しに来たはずが、相手から「もっと罵倒してくれ」と懇願され、あまつさえ「地下金庫に幽閉してくれ」とまで言われる。エリートの理論が、零の「誠実すぎる狂気」の前に、跡形もなく崩壊していく。


「徹。……聞いたかしら。この子は、自分の美貌さえ『ゴミ』だと思っているのよ。あんたがどれだけ言葉を尽くしても、こいつの自己否定の深淵には届かないわ」


 結衣が、勝利を確信した笑みで一歩前に出る。


「あんたは『一人で生きていける』と言って私を捨てた。でも、今の私は、この『100億点のゴミ』を磨いて、世界の中心に立たせるっていう最高の仕事があるの。……帰って。あんたの価値観じゃ、この子の『美しさ』は測りきれないから」


「くっ……。馬鹿馬鹿しい! こんな狂った場所、二度と来るか!」


 徹は逃げるようにスタジオを飛び出していった。

 エリート銀行員としての誇りを完膚なきまでに叩き潰された男の後姿を見送り、結衣は大きく溜息をついた。


「……ふぅ。スカッとしたわ。ありがとう、零」


「……結衣さん。今、徹さんという聖騎士様を追い返してしまいましたね。僕を処分する絶好の機会だったのに。……ああ、そうか。僕を、もっとじわじわと苦しめて、最終的に宇宙の塵にする計画なんですね。さすが結衣さん、冷酷で素敵です」


「……もう、どうとでも思いなさい。ほら、ポチ。おやつよ」


 ポチが嬉しそうに駆け寄り、徹の立ち去った後の床をクンクンと嗅ぐ。


「ポチ、ダメだよ。そこは高貴な方の香りが残っている聖域だ。僕の不浄な気配を近づけてはいけないんだ……」


 零は床に這いつくばり、徹の靴跡を消すように、涙ながらにモップをかけ始めた。

 その様子を、物陰から見ていた人物がいた。


 麗華である。


「……素晴らしい。あのエリートのプライドを、謙虚さという名の重戦車で轢き殺す零様……。ますます、このスタジオの『埃』としての自覚が強まりましたわ」


 彼女は隠し持っていた「零様観察日記」に、猛烈な勢いで筆を走らせる。


「結衣、大変よ! 零くんの『徹さん粉砕動画』が、SNSで拡散され始めてるわ!」


 内海節子がスマホを片手に叫ぶ。

 望月琴音という天才プログラマーの少女が、スタジオの外からその様子を盗撮(本人は聖遺物の記録と呼んでいる)し、「美しすぎる土下座の騎士、現世の悪を浄化する」というタイトルで投稿したのだ。


 世界が、氷室零を見つけようとしていた。

 本人が、必死に地下へ、深淵へと逃げようとすればするほど、そのステップは華麗に舞い、光り輝いてしまう。


「……結衣さん。外が、なんだか騒がしいです。もしかして、僕を捕まえるための自衛隊が配備されたのでしょうか?」


「違うわよ。……あんたを『神』と呼ぶ信者たちが集まり始めてるのよ」


 結衣は窓の外を見て、不敵に、しかし少しだけ不安そうに微笑んだ。

 氷の貴公子の「伝説」は、皮肉にも、彼が一番望まない形で、一気に加速していくことになる。

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