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氷の美貌と、恋のステップ 〜自己肯定感ゼロの絶世美青年、勘違いの猛特訓で社交ダンス界の頂点へ〜  作者: あめたす


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第4話:ママさん軍団の「愛」と、潜入者(スパイ)の扇子

第4話:ママさん軍団の「愛」と、潜入者スパイの扇子


「やめてください……! 僕はもう、これ以上この世の栄養を収奪するわけにはいかないんです……!」


 佐倉ダンススタジオの朝は、氷室零の悲痛な叫びから始まった。

 彼の前には、隣のフラダンスサークルのリーダー・鳳光代と、健康管理担当の内海節子が、もはや仁王像のような威圧感で立ちはだかっている。


「零くん、何を言ってるの! 今日は特別メニューよ。はい、これ。光代さん特製の『ハワイの風を感じる高濃度プロテイン・ココナッツ羊羹添え』よ!」


「節子さん、それだけじゃ足りないわ。零くんのあの儚い腰……あれを支えるには、フラの精神が必要なの。ほら、この特製ゴムバンドを足首に巻きなさい!」


 光代が取り出したのは、競技ダンス用ではなく、明らかに「下半身を徹底的に破壊し、再生させる」ための強力なトレーニングチューブだった。


「これは……僕を捕縛して、しかるべき機関に引き渡すための拘束具ですね? わかりました。僕のような有害物質が野放しになっていること自体が間違いだったんです。さあ、きつく縛ってください!」


「あら可愛い! 縛ってほしいなんて、情熱的ねぇ!」


 零が絶望のあまり差し出した足を、ママさんたちは「なんて前向きなの!」とポジティブに変換し、容赦なく「フラダンス式精神注入ギプス(自称)」を装着していく。


「……(地獄だわ。でも、零の体幹がこれでさらに安定するのは事実なのよね)」


 結衣は事務デスクで頭を抱えながら、収支計算書と目の前の惨状を交互に見ていた。零がママさんたちに「愛の拷問」を受けている間、スタジオの床は今日も彼の涙と汗で鏡のように輝いている。

 そこへ、一人の女性が控えめに――しかし隠しきれないオーラを纏って現れた。


「ごめんあそばせ。……こちら、差し入れの『最高級キャビアと金箔のカナッペ』ですわ」


 昨日の今日で現れたのは、絶対王者・皇凱のパートナー、麗華だった。

 彼女は大きなサングラスをかけ、不自然なほど顔を隠しているが、その手には「スパイ活動」用にしてはあまりに高価な重箱が握られている。


「……麗華さん。あんた、何しに来たのよ。スパイならもっと上手くやりなさいよ」


「失礼ね。私はただ、このスタジオの……いえ、零様の『足元の埃』としての適性を確認しに来ただけですわ。……っ!」


 麗華の言葉が止まる。

 視線の先では、ママさん軍団に揉まれ、チューブで足を縛られながらも、必死にサイドステップを踏む零の姿があった。


「はぁ、はぁ……。結衣さん、見てください。僕の動きが鈍いせいで、光代さんが扇子でリズムを刻んで……いえ、僕を物理的に叩こうとしています。当然の報いです……。もっと、もっと僕を罵ってください!」


 実際には、光代は零のあまりの美しさに感動し、手拍子の代わりに扇子を振り回しているだけなのだが、零の脳内ではそれが「奴隷への鞭打ち」に変換されていた。


「ああっ……! なんて高貴な苦悩の表情……!」


 麗華が持っていた重箱を落としそうになりながら、零の方へフラフラと歩み寄る。


「零様! 私をお使いください! その不浄な床を直接踏むなど、零様の御足が汚れますわ! 私が四つん這いになり、その背中の上をステップしていただいても構いませんのよ!」


「ひっ!? 麗華さん……!? なぜ、なぜそんな恐ろしいことを……! あなたのような輝かしい方が僕の下敷きになるなんて、それこそ天変地異が起きます! 僕を殺す気ですか!? 精神的な死を贈ろうとしているんですね!?」


「いいえ、これは究極の献身ですわ!」


「違います、これは高度な暗殺術だ!!」


 ネガティブの極致にいる零と、狂信的な愛に目覚めた麗華。

 二人の会話は一ミリも噛み合わないまま、スタジオの熱気だけが上昇していく。


「ちょっと麗華! 変な提案して零をパニックにさせないで! 零、あんたも! 『暗殺術』とか言ってる暇があったら、今の負荷のままスローフォックストロット一曲踊りきりなさい!」


「……っ! 結衣さん……あなただけが僕に正当な『苦役』を与えてくれる。安心します……。わかりました、僕の醜い踊りで皆さんの視神経を破壊してきます!」


 零はチューブを引きずりながら、フロアの端から端へと滑り出した。

 足首にかかる強烈な負荷。それを打ち消そうとする、死に物狂いの筋肉の躍動。

 

 その瞬間、スタジオの空気が変わった。

 ただの「逃走」だったステップが、負荷に耐えることで「重厚感」を増し、まるで重力に逆らうような、奇妙で美しい浮遊感を生み出したのだ。


「……信じられない」


 麗華はサングラスを外し、その瞳に零の姿を焼き付けた。

 凱と踊る時は、常に「計算された美」があった。だが、目の前の男が踊っているのは、純粋な「生存への執着」と「自己の全否定」。

 矛盾する二つが混ざり合い、社交ダンスの枠を超えた「デカダンスの極致」がそこにはあった。


「これよ……。この『消えてしまいそうな美しさ』こそ、私が求めていたもの……」


「麗華さん? よだれ垂れてるわよ」


 結衣の突っ込みも届かない。

 ママさん軍団は「あらぁ、今のターン最高よ! はい、ご褒美のニンニク卵黄!」と叫び、麗華は「零様、次は私とホールドを!」と重箱を投げ捨てて突撃する。


「来ないでください! 麗華さんのような聖域に触れたら、僕の指から出る毒であなたのキャリアが終わってしまう……! 逃げなきゃ……どこか、誰も僕を見つけられない深淵へ……!」


 零はチューブを引きちぎらんばかりの勢いで、スタジオの床を蹴り、驚異的なスピードで逆方向へと消えていった。


 ――その夜。


 皇凱のマンションには、パートナーからの「しばらく、佐倉スタジオで武者修行(という名のボランティア)をしてまいります」という書き置きだけが残されていた。


 そして零は、一人古本屋の奥で、ポチを抱きしめながら震えていた。


「ポチ……。世界が僕を追い詰めてくる。麗華さんまで僕を処刑しようとしているんだ。……明日の朝食は、少しだけ贅沢な缶詰にしよう。それが、僕の最後のご馳走になるかもしれないからね……」


 相変わらず1ミリも前向きにならない零。


 しかし、彼を取り巻く狂熱の輪は、着実に、そして確実に、社交ダンス界の常識を塗り替えようとしていた。

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