第3話:王者の宣戦布告と、最強の土下座
第3話:王者の宣戦布告と、最強の土下座
佐倉ダンススタジオに、場違いなまでの「威圧感」が鳴り響いた。
カツン、カツンと、高級なダンスシューズが床を叩く。
「……ここか。借金まみれの掃き溜めから、不敬な輝きを放っているという不届き者の根城は」
扉を蹴り開けんばかりの勢いで現れたのは、現在の日本競技ダンス界において『絶対王者』の名を欲しいままにする男、皇凱だった。
その後ろには、パートナーの麗華が、扇子を握りしめ、魂が抜けたような顔で従っている。
「ちょっと、誰よあんた! 土足で人のスタジオに……って、皇凱!?」
結衣が驚きで声を上げる。
社交ダンス界のサラブレッドであり、若くして頂点に君臨する男が、なぜこんな弱小スタジオに。
凱は、フロアの中央で「僕なんて床の継ぎ目に詰まった埃です」と言わんばかりの形相で掃除をしていた零を、鋭い眼光で射抜いた。
「貴様が『古本屋の幽霊』か。噂になっているぞ。顔面だけで客を釣り、この神聖なフロアを汚している不届き者がいるとな」
凱の言葉は、氷のように冷たく、刃のように鋭かった。
普通の人間なら萎縮するか、怒り出すような侮辱。
だが、零にとって、その言葉は「救い」に他ならなかった。
「……っ! ついに、ついに理解者が現れた……!」
零は、掃除していたモップを放り出し、凱の足元へ滑り込むように膝をついた。
「その通りです! おっしゃる通りです! 僕は不届き者どころか、歩く公害、視覚的環境破壊の元凶です! よくぞ見抜いてくださいました。やはり、本物のダンサーの方は、僕の皮膚の下に流れる汚泥のような本質を見抜く力があるのですね……!」
「な……っ!? なんだ貴様は」
勝ち誇るつもりで来た凱が、逆に一歩後退する。
零の瞳は、侮辱された怒りなど微塵もなく、むしろ「自分の罪を言い当てられた敬虔な信者」のような光を宿していた。
「どうか、僕を糾弾してください! 『その不快な顔面を今すぐ削り落とせ』と命じてください! 僕も毎日そう思っていますが、自分で行う勇気がなくて……。あなたのような高貴な方に罵倒していただけるなら、僕は安心してこの世から消えることができます!」
「き、貴様……ふざけているのか!? 私は、宣戦布告に来たのだぞ! 次の大会で貴様のそのメッキを剥がしてやると!」
「宣戦布告なんて、滅相もありません! 僕は戦う価値さえない産業廃棄物です。どうか、メッキどころか皮膚ごと剥いでください! ああ、これこそが本当の『審判』だ……!」
零はそのまま、額を床に擦り付けんばかりの、美しすぎる土下座を繰り出した。
その姿勢は、背筋から腰、つま先に至るまでが完璧な放物線を描いており「これこそ究極のデカダンス(退廃美)だ!」と絶賛されるであろう美しさだった。
「…………(なによこれ、私の脳内計算機が爆発しそうなんだけど)」
結衣はこめかみを押さえて天を仰いだ。
王者の傲慢さも、零の「誠実すぎる自虐」の前では、完全に空回りしている。
「麗華! 何をしている、この無礼者に何か言ってやれ!」
凱が助けを求めてパートナーを振り返る。
だが、お嬢様ダンサーとして知られる麗華は、すでに使い物にならなくなっていた。
「……あら、凱。私、今わかりましたわ」
「何がだ!」
「私、今まで『美』というものを勘違いしていましたの。……この方の足元に溜まった埃になりたい。埃になって、この尊い指先に絡みつきたい。凱、私、今からこの教室にスパイ……ではなく、ボランティアとして入会いたしますわ」
「麗華ーーー!! 貴様まで毒されたか!!」
凱の叫びがスタジオに虚しく響く。
一方で、零はまだ床に顔を押し付けたまま、ぶつぶつと感謝を述べていた。
「ああ、なんて素晴らしい罵声なんだ。『不届き者』……その言葉を遺言にしよう。やはり本物は違う。結衣さん、聞こえましたか? 僕はようやく、僕をゴミだと認めてくれる聖人に出会えたんです……」
「……零、あんたね。さっきから褒められてるんだか、けなされてるんだか分からなくなってきたわよ。凱! 帰るならさっさと帰りなさい! あんたのその顔面じゃ、うちの『100億点のダイヤモンド』の輝きを中和することもできないわよ!」
結衣が凱の背中を力一杯押し出す。
凱は、生まれて初めて味わう「完全な敗北感」に震えながら、引きずられるようにスタジオを後にした。
「覚えていろ! 顔面だけで勝負が決まると思うなよ! ダンスは魂……狂気こそが勝敗を分けるのだ!」
「狂気なら、もう隣に座ってるわよ!!」
結衣が扉を叩きつけるように閉める。
スタジオに残されたのは、脱力した結衣と、なぜか晴れやかな顔で床を磨き直す零だった。
「結衣さん。僕、勇気が出ました。あのような偉大な方に罵倒していただけるなら、僕はもう少しだけ、この汚れた姿で踊り続けてもいいのかもしれません。彼を不快にさせるためだけに、僕のダンス(逃走)を磨きます!」
「……方向性が180度間違ってるけど、もういいわ。やる気になったなら、なんでいい。……ほら、ポチ。あんたもこのバカを慰めてあげなさい」
スタジオの隅で寝ていた大型犬のポチが、のろのろと起き上がって零の頬を舐めた。
「ああ、ポチ……。僕の顔から出る不浄な脂で、君の味覚を破壊してしまってごめん。君は、毒味をして僕を介錯してくれようとしているんだね。優しいね……」
零は愛犬を抱きしめ、またしても負の深淵へと潜っていった。
翌日から、零の練習はさらに苛烈を極めた。
皇凱という「敵」を得たことで、彼の「逃走本能」に火がついたのだ。
「誰にも見つからない速さで、誰の目にも止まらないように消える」
その身勝手な目的が生み出すステップは、もはや人間の限界を超え、物理法則を無視した美しさを帯び始めていた。
だが、その様子を窓から見ていた光代が、プロテインを片手に不敵に呟く。
「あら。あの子のダンス、まだ『愛』が足りないわね。……いいわ、節子。明日は『愛の猛特訓』、フラダンス式精神注入ギプスを投入しましょう」
零の受難は、まだ始まったばかりだった。




