第2話:ママさん親衛隊、プロテインを持って乱入す
第2話:ママさん親衛隊、プロテインを持って乱入す
「……ああ、これが有名な『公開処刑』の前の食事ですね」
佐倉ダンススタジオの隅。
氷室零は、震える手で割り箸を割っていた。
彼の前には、ダンススタジオの隣で活動する「熟女フラダンスサークル」の重鎮たちがずらりと並んでいる。
「零くん、そんな顔色の悪いものばかり食べてちゃダメよ! ほら、特製のニンニク卵黄おにぎり、食べなさい!」
元看護師の内海節子(58歳)が、もはや「薬」を処方するような眼差しで、零の口元に巨大な握り飯を突きつける。
「内海さん、甘いわよ。美しさにはタンパク質が必要よ! ほら零くん、最高級のホエイプロテイン、バナナ味よ。これを飲んで筋肉をコーティングしなさい!」
不動産王の妻、鳳光代(62歳)が、シェイカーを激しく振りながら詰め寄る。その動きは、彼女が本業で鍛えた腰のキレにより、恐ろしいほどの殺傷能力を秘めていた。
「ありがとうございます……。僕のような生ゴミに、こんな栄養価の高いものを……。きっと、これは僕を太らせて、後で高値で売却するための下準備なんですね。分かっています、その期待に応えられるよう、せめて美味しく食べられるゴミを目指します……」
零は涙を浮かべながら、必死にプロテインを流し込んだ。
それを見たママさんたちは、「なんて健気なの……!」「食べっぷりが王子様だわ!」と、黄色い悲鳴を上げながら、今度は高級羊羹を剥き始めた。
(あの人たち、完全に零を観賞用の珍獣だと思ってるわね)
その光景を遠巻きに見ていた経営者の佐倉結衣は、深く溜息をついた。
零が来てから二日。
スタジオの男性会員は「あんな神の造形が横にいたら自分たちがミジンコに見える」と言い残して半数が退会したが、逆にママさん軍団による「差し入れ」という名の物資投下はとどまることを知らない。
「さて、栄養補給が終わったなら、レッスン再開よ。零、こっちへ来なさい」
「ひっ……! は、はい、結衣さん……。どうか、どうかお手柔らかに。僕の骨は、人の役に立たないもろい木屑でできているので……」
零は、死刑台へ向かう囚人のような足取りで、フロアの中央に立った。
今日の課題は、社交ダンスの基本中の基本。
「ホールド」――すなわち、男女が互いに組み合う姿勢だ。
「いい、零。社交ダンスは、二人が一つの生命体になる芸術よ。優しく、かつ力強く私を包み込みなさい」
「無理です……。僕のようなウイルスに汚染された個体が、結衣さんに触れるなんて、そんな、公害条例に触れます」
「いいから、やる! ホールド!」
結衣が鋭く迫ると、零はパニックに陥った。
彼は「触れたくない(相手を汚したくない)」という強迫観念から、極限まで指先を反らせ、まるで割れ物を扱うように、おそるおそる結衣の背中に手を添えた。
「……っ」
その瞬間、結衣の身体がピクりと震えた。
至近距離で浴びる、零の圧倒的な「美」。
睫毛の一本一本までが計算されたように長く、伏せられた瞳からは、守ってあげたくなるような哀しみのオーラが溢れている。そして、鼻をくすぐる、古い本と石鹸が混ざったような清潔な香り。
結衣の心臓が、ドラムのように激しく鳴り響いた。
(……やばい。わかってたけど、この顔面、致死量を超えてるわ)
結衣の顔が、みるみるうちに林檎のように赤くなる。
それを見た零は、絶望のどん底へと叩き落とされた。
「あああああ! すみません! やっぱり僕の指先が、何らかの化学反応を起こして結衣さんの肌をただれさせてしまったんですね!? 見てください、結衣さんが苦痛に顔を歪めて震えています……! 僕は、僕は悪魔だ……! 触れる者すべてに苦痛を与える、呪われた氷像なんだ!」
「違う、待ちなさい零! これは苦痛じゃなくて、ただの動悸……!」
「嘘をつかないでください! 震えるほど嫌なんですよね、わかります。僕だって、僕のような男が目の前にいたら、警察を呼ぶか、その場で除菌スプレーを浴びせますから!」
零はパニックのあまり、そのまま「逃走」のステップへと移行した。
後ろへ、後ろへ。
結衣から一刻も早く離れようとするその動きは、結果として、完璧なボディースピードを伴った「シャッセ」へと変換される。
「ちょっと、逃げるんじゃないわよ! ついていきなさい!」
結衣が追いかける。
零は「捕まったら最後、この美しい人をさらなる毒で侵してしまう」という恐怖から、さらに加速。
その必死な形相が、窓から覗くママさん軍団には「獲物を追い詰める、冷徹で情熱的なハンター」の表情に見えていた。
「見て! あの零くんの目! 『俺からは逃さない』って言ってるわよ!」
「いやだ、結衣ちゃんが羨ましい! 私もあの冷たい瞳で蔑まれながら踊りたいわぁ!」
スタジオの外では、光代たちが熱狂し、窓ガラスが曇るほどの興奮に包まれていた。
数分後。
全速力でスタジオを三周した零は、フロアの隅で真っ白に燃え尽きていた。
「……はぁ、はぁ。もう、ダメです。これ以上、地球に負荷をかけたくありません……。僕が吐き出した二酸化炭素で、スタジオの酸素が10%は減ったはずです……」
「……あんたの肺活量、どうなってんのよ。あれだけ動いて、ステップが一つも乱れないなんて……」
結衣は肩で息をしながら、床に座り込んだ。
零の身体能力は、文字通り「死ぬ気の逃走」によって磨き上げられていた。彼は気づいていないが、古本屋で重い書物を運び、夜な夜な涙を流しながら床を鏡のように磨き上げているせいで、体幹は鋼のように鍛えられているのだ。
「いい、零。今の逃走……じゃなくてステップ、それを競技会でやるのよ。あんたは自分の顔を毒だと言ったけど、その毒で審判全員を麻痺させてやりなさい」
「……審判を、殺害する計画ですか?」
「ある意味ね。……あんたを、この世で一番高く売れる『ダイヤモンド』にしてあげる。だから、明日からはもっとハードな練習(拷問)を覚悟しなさい」
「……はい。処刑までのカウントダウン、謹んでお受けします……」
零は力なく、しかし深く、床に頭を下げた。
その謙虚すぎる姿勢が、燕尾服のラインを強調し、神々しいまでの「土下座」として結衣の網膜に焼き付いた。
(……この資源、マジで100億点どころじゃないわね)
結衣は、自身の脳内計算機が「エラー」を吐き出しているのを感じながら、熱を持った頬を両手で押さえた。
しかし、そんな二人の様子を、道路に止まった一台の黒塗りの高級車から見つめる視線があった。
「……あれが、例の『古本屋の幽霊』か。くだらない。社交ダンスの神聖なフロアを、顔だけの素人が汚すなど」
車内で不敵に笑うのは、若き絶対王者、皇凱。
そしてその隣で、零の横顔を見た瞬間、持っていた扇子を落としたパートナーの麗華。
嵐の予感を、零はまだ知らない。
彼はただ、「プロテインのバナナ味は、僕の罪の味だ」と、深い自己嫌悪に浸っているだけだった。




