エピソード0:深淵の古本屋と、眩しすぎるゴミの埋立地
エピソード0:深淵の古本屋と、眩しすぎるゴミの埋立地
「……影山さん。僕は、自分が怖いんです」
東京都の片隅、日差しすら立ち入るのを躊躇うような場末の古本屋『影山堂』。
その一番奥、カビと埃の匂いが凝縮されたバックヤードで、氷室零は自らの膝を抱えて震えていた。
「またかよ、零。今度は何だ。鏡に映った自分に驚いて心停止でもしかけたか?」
店主の影山は、煙草をふかそうとして思い直し、代わりに賞味期限の切れたミントタブレットを口に放り込んだ。目の前にいる男——氷室零のビジュアルは、今日も今日とて、人類の限界値を軽々と突破している。
重度のネガティブ思考から20代にして増えてしまった若白髪。それを隠すために染めたベージュの髪は、薄暗い倉庫の中でも自発的に発光しているかのように柔らかい光を放っている。
美容師にハサミを入れさせることすら「僕のような醜悪な素材を触らせて、プロの技術を汚しては申し訳ない」という理屈で拒み続けた結果、髪はいつしか胸まで届くロングヘアとなった。
それが天然パーマの緩い縦ロールを描き、古びた燕尾服でも着せようものなら、そのままフランスの宮廷へ「国宝」として空輸されかねない貴公子然とした姿を作り上げている。
だが、本人の内面は、深海よりも深く澱んだ自己否定の沼であった。
「……今日、店先を掃除していたら、通りすがりの女性が三人、同時に気絶したんです。救急車を呼ぼうと近づいたら、一人の方は『……天国?』と言い残して白目を剥きました。やはり、僕の顔面は……半径3メートル以内の生命活動を強制停止させる、致死性の毒ガスのようなものなんです。僕は……生ける公害なんです」
「いいや、それはただの『面食い』だ。お前の顔が良すぎて、脳の処理能力が追いつかなくなっただけだ。いいか、零。お前は美形なんだ。それも、神が二日酔いの時にテンション上がって全才能をぶち込んだレベルの、な」
「やめてください影山さん! その冗談は、僕の精神的自傷行為を加速させます!」
零は耳を塞ぎ、さらに小さくなった。
「いいですか、僕のこの顔は、かつてモデルをしていた母親が、僕を『完璧な道具』にするために毎日呪いをかけ続けた結果なんです。この造形は、他人を威圧し、不快にし、周囲の空気を薄くするためにある。鏡を見るたびに、僕は自分の傲慢さが可視化されているようで、吐き気がするんです……!」
「だから、お前は鏡を見ずに髭を剃るなんていう、大道芸人でもやらねえような高等技術を身につけたわけか」
「暗闇で手探りで行う洗顔と髭剃りこそが、僕に許された唯一の贖罪です……。鏡の中の自分と目を合わせるなんて、メドゥーサに直視される石像の気分ですよ」
影山は溜息をついた。
この男は本気だ。本気で「自分はゴミ以下の有害物質である」と信じ込んでいる。
一年前、ボロ雑巾のように路地裏で蹲っていた零を拾った時もそうだった。「僕を保健所に連れて行ってください」と真顔で懇願する零を見て、影山は「こいつは外に出したら世界が終わる」と直感したのだ。
「いいか零、改めて言うが、ここは『影山堂』だ。客が来ない、売れない、陽が当たらない。三拍子揃った、世の中の吹き溜まりだ。ここなら、お前のその『公害レベルの顔面』も、古本の山に紛れて目立たない。だから安心してここで埃でも拭いてろ」
「……ありがとうございます。影山さんは、僕のような『眩しすぎる粗大ゴミ』を、地下室に隠してくれる唯一の慈悲深い看守です」
「看守じゃねえ、雇い主だ。ほら、届いたばかりの在庫を整理しろ。奥の棚だ。一番暗くて、ネズミしか来ないような場所にしてやる」
「はい! そこが僕の、唯一の安住の地です!」
零は嬉々として、山積みになった古本の束を抱えた。
絶世の美青年が、カビの生えた江戸時代の古文書を抱えて、暗がりに消えていく。その身のこなしは、無意識に洗練され、一挙一動が舞台役者のように華麗だ。
「……ねえ影山さん。1つ、気になることがあるんですが」
棚の影から、零がひょっこりと顔を出した。その瞬間、棚の隙間から差し込んだ僅かな光が零の瞳に反射し、まるで宝石が発火したような輝きを見せる。影山は思わず目を逸らした。
「なんだ」
「この店、最近……なぜか、女性客が増えていませんか? それも、みんな双眼鏡を首から下げていたり、高性能のカメラを鞄に隠し持っていたり。……僕、気づいてしまったんです。彼女たちは、僕を監視しに来ている『顔面汚染対策本部』のエージェントなんですよね?」
「……。ああ、そうだ。お前のその『毒』が漏れ出さないか、世の中の平和を守る組織が監視に来てるんだ。だから絶対に応対に出るな。奥で死んだふりしてろ」
「やっぱり! ああ、ごめんなさいエージェントの皆さん! 僕がここに存在するだけで、税金が無駄に使われていく……! 申し訳なくて、もう呼吸することすら申し訳ない……!」
「呼吸はしろ。死なれると片付けが面倒だ」
影山は、店の外にできている「古本屋の奥に潜む神を拝む会」の行列を見ないふりをした。零は自分が「世界の中心」に立てる器であることを微塵も理解していない。
「影山さん、僕は……いつか、この世界から消えて、道端に転がっている地味な石ころになりたいんです。誰にも見向きもされず、ただそこに、静かに、無価値に存在していたい」
「石ころ、ねえ。お前が石ころになったら、それは間違いなくダイヤモンドだろ」
「ダイヤモンド!? やめてください、そんな硬くて価値のあるもの、僕のような脆い軟質ゴミには不相応です! 僕は、せいぜい消しゴムのカスか、掃除機に吸い込まれるのを待つ綿埃が似合いです!」
「……もういい、黙って働け。」
「はい! 僕の同胞(埃)たちを、僕の汚れた手で触れるのは忍びないですが、精一杯『僕のせいで汚れた床』を磨かせていただきます!」
零は涙ながらに床に膝をつき、必死に磨き始めた。
その動きが、まるで祈りを捧げる巡礼者のように神聖で、かつ機能的であることを影山は知っている。
鏡を見ずに、暗闇で、自分を殺して生きる。そのストイックすぎる「負」のエネルギーが、氷室零という男の所作を、常人には到達できない次元へと押し上げているのだ。
今の零にとって、床を磨くことは「隠蔽」であり、影を這うことは「生存」だった。
だが、運命は残酷だ。
この数ヶ月後、この薄暗い古本屋に、一人の「現実的で強欲な魔女」が足を踏み入れることになる。
借金まみれのダンス教室を救うため、世界の中心に据えるべき「100億点の黄金像」を探し求めて。
「……あ、影山さん。今、窓の外を舞っていた埃が、僕の鼻先で死にました。……僕が、彼の酸素を奪ってしまった。……ああ、葬式を。僕のような人殺しが、彼の葬儀を取り仕切っても良いのでしょうか……」
「……零、お前、いい加減にしろよ。早くその本を棚に入れろ」
「ううっ……ごめんよ、埃くん……。君の遺志は、僕がこの不浄な体で受け継ぐからね……」
埃一粒に対して本気で追悼を捧げる美青年。
そんな彼の「誠実すぎる狂気」が、やがて社交ダンスという華やかなフロアで、どうしようもないほどの輝きを放つことになろうとは——。
この時の零は、まだ夢にも思っていなかった。
氷室零。
美しき全否定の殉教者。
彼の「逃走」の物語は、まだ、幕を開ける前の静寂の中にあった。




