暁に触れず
何も起きない日々の中で、静かに自分を観察し続けるひとりの時間。
夜と朝のあいだに漂いながら、言葉にならない感覚だけが積み重なっていく。
これは、説明できないまま過ぎていく心の輪郭を辿る記録。
疲れた、って言葉は便利だ。
それ以上説明しなくていいし、
誰かに渡しても、それ以上踏み込まれない。
だから私はよく使う。
けれど、本当は少し違う。
疲れていると言うより、
重い。
何かを背負っている感覚に近い。
それが過去なのか、
期待なのか、
はたまた「生きている」と言う事実そのものなのかは、
正直よく分からない。
分からないまま、
私は天井を見る。
こう言う時、
「私は私、あなたはあなた」
みたいな言葉が浮かぶことがある。
あれは、多分励ましの言葉なんだと思う。
自分を保つ為の、
良く出来たフレーズ。
でも私は、
その言葉を聞く度に、
嫌悪感を抱く。
だって、当たり前じゃないか。
私は私だ。
それ以外であるはずが無い。
それが分からなくて困っている訳じゃ無い。
むしろ、
分かりきっているからこそ、
その先が無くて苦しい。
本当は、
「私は誰か」なんて問いは、
もうどうでもいい。
知りたいのは、もっと別のことだ。
私は今、
どこに立っているのか。
どこにもいないのか。
それとも、ちゃんとここにいるのか。
空を見上げても、
答えは返ってこない。
空は、
私を慰める為にある訳じゃ無いし、
私を突き放す為にある訳でも無い。
ただ、
在る。
それが余計に、
私を不安にさせる夜がある。
だから私は、
こうして言葉を書いている。
正解を見つける為じゃ無い。
ただ、
ここにいる証拠を、
私自身に残す為に。
今日は、何も起きなかった。
そう言い切ってしまえば、それで終わる。
誰かに話すなら、きっとそうまとめる。
「今日はどうだった?」と聞かれたら、
特に何も。
と答えて、
それ以上の言葉は探さない。
起きて、
食べて、
横になって、
また起きて。
それだけだ。
それだけ、のはずなのに。
私にとっての「それだけ」は、
驚くほど長く、
重く、
途中で形を変えながら、
終わりなく続いている。
朝なのか昼なのか。
よく分からない光で目が覚める。
カーテンの伱間から差し込む白い光は、
朝特有の希望も、
昼の現実感も持たず、
ただ部屋を薄く満たしている。
この光は、
私を起こす為のものじゃない。
時間が進んでいる事を、
否定も肯定もせずに、
黙って知らせてくるだけだ。
時計を見る。
数字は、
信じられない程動いてない。
さっき目を閉じた筈なのに、
もう一日が終わっていて欲しい。
そんな都合のいい期待は、
簡単に裏切られる。
身体は重い。
眠った筈なのに、
眠り足りないと言うより、
眠ったと言う感覚が
どこにも残っていない。
目を閉じていた時間は、
確かに存在した筈なのに、
それが「休息」だったとは言えない。
布団から出る理由を探す。
起きなければいけない理由。
起きた方がいい理由。
起きる事で、
何かが少しでも良くなる理由。
どれも、
見つからない。
それでも、
起きないままでいる理由も、
はっきりとは言えない。
だから私は、
暫く天井を見る。
天井には、何も書いていない。
答えも、意味も、
慰めになる言葉も無い。
模様も、
ひびも、
特別な影も無い。
それなのに、
私はそこから目を離せない。
天井は、
何も与えない代わりに、
何も奪わない。
動かない時間が、
私を試している様な気がして。
「今日は、どうする?」と
問いかけられている様で。
結局、
答えは出ないまま、
身体だけが先に動く。
やっと起き上がって、
水を飲む。
喉を通る冷たさだけが、
今が「今」だと教えてくれる。
それ以外の感覚は、
どこか遠い。
食べる。
何を食べたかは、
後から思い出せない。
味はわかる。
嫌いじゃない。
でも、好きとも言えない。
美味しいかどうかより、
噛んで、飲み込んで、
終わるまでの時間を
どうやり過ごすかを
考えている。
食べ終わる頃には、
もう疲れている。
何もしていないのに。
ここで、
また横になる。
昼寝、と言う言葉は軽過ぎる。
眠るつもりはない。
ただ、
目を閉じたいだけだ。
目を閉じると、
すぐに夢が来る。
深く沈む前に、
引き摺り込まれる様な夢。
眠りは浅く、
現実との境目が曖昧で、
夢の中でも私は、
ずっと「考えている」。
考えることを、
やめられないまま、
意識だけがぼやけていく。
目が覚める。
時計を見る。
一時間も、
経っていない。
その事実を確認した瞬間、
胸の奥で
何かが音もなく崩れる。
叫びたい程じゃない。
泣く程でも無い。
ただ、
静かに、
期待が剥がれ落ちる。
悪夢だったかどうかも分からない。
内容も、
筋も、
覚えていない。
ただ、
胸の奥に
濁った感触だけが残っている。
ここからが、
この一日の一番長い部分だ。
起きているのか、
休んでいるのか、
もう分からない時間。
心は苦しい。
でも、
退屈でもある。
苦しさは鋭くない。
刺さる様な痛みじゃない。
じわじわと、逃げ道を塞ぐ様に広がる。
退屈は、
時間を引き伸ばす。
何も起きない一分が、
何十分にも感じられる。
スマートフォンを見る。
閉じる。
また見る。
閉じる。
画面の向こうに、
何かがある気がして。
でも、
探しているものは
最初から
存在していない気もする。
夕方になる。
光の色が変わる。
それだけで、
やっと「一日が進んでいる」とわかる。
それだけで、
少し安心する。
今日が、
ちゃんと終わりに向かっている事が。
夜が来る。
一日は、
ようやく輪郭を持つ。
それでも、
振り返ってみると、
何も起きなかった。
誰にも会っていない。
何も成し遂げていない。
記念になる事もない。
でも、
私は確かにここにいた。
息をして、
考えて、
沈んで、
それでも、
消えずに。
この一日を書き残すのは、
特別にしたいからじゃない。
むしろ逆だ。
こんな一日が、
私の人生には
いくつもあるから。
だから、
忘れないように。
「何も起きなかった日」に、
ちゃんと重さがあったことを。
そして、
ここまで来て、
私は思う。
この一日を、
終わらせたくない。
終わってしまえば、
また明日が始まる。
同じ様な光で目を覚まし、
同じ様に時計を見て、
同じ様に疲れている自分を
確認するかもしれないから。
でも、
同時に思う。
早く、
終わって欲しい。
この曖昧な苦しさを、
名前のない重さを、
ただ耐え続ける時間を。
終わらせたくない。
終わって欲しい。
その二つを、
どちらも手放せないまま、
私は今日と言う一日を
静かに、
何度も、
畳み直している。
夜は、眠れない。
眠い。
身体は確かに疲れている。
目も重い。
頭も鈍くなっている筈なのに、
眠りだけが来ない。
布団に入る。
目を閉じる。
何度も同じ事を繰り返す。
眠ろうとしている筈なのに、
意識はずっと起きている。
昼よりもはっきりと。
夜は、
考えが静かになる時間だと言われる。
でも、私にとっての夜は逆だ。
昼間、
濁っていた思考が、
夜になると輪郭を持つ。
不安が、
名前を持って現れる。
明日のこと。
この先のこと。
今のままでいいのか、と言う問い。
今のままでしかいられない、と言う諦め。
答えは出ない。
でも、
問いだけが止まらない。
時計を見る。
まだ、夜の途中だ。
「まだ夜だ」と思うと、
少し安心する。
朝が来ていないと言うだけで。
私は、
ずっと夜に閉じこもっていたい。
昼の光は、
私を現実に引き戻す。
「今日も始まってしまった」と
告げてくる。
夜は、
始まりを要求しない。
何もしなくていい時間だ。
眠れないままでも、
夜は夜でいてくれる。
それなのに、
夜は昼ほど長くない。
考え続けて、
疲れて、
それでも眠れないまま、
気付くと空気が変わっている。
カーテンの隙間を覗くと、
街が輪郭を持ち始めている。
まだ光は見えない。
けれど、
夜の端を削るように
星々が見えなくなっていく。
あぁ、と
思う。
また、
朝が来てしまう。
一晩中起きていた筈なのに、
夜が終わるのは早い。
星が消える前、
ようやく、
ほんの少しだけ眠れる。
二時間。
良くて、それくらい。
深い眠りじゃない。
落ちるように、
意識が途切れるだけだ。
夢を見る事もある。
見ない事もある。
どちらにしても、
休んだ感じはしない。
そして、
目が覚める。
明け方だ。
眠っていた筈なのに、
眠り終えた感じはしない。
一晩が、
ちゃんと終わらないまま、
朝に引き渡される。
夜に考えていた事は、
全部持ち越される。
眠れなかった夜の続きを、
何事もなかったかの様に。
夜にだけ、
私は少し正直になる。
誰かに話す訳でも、
答えを出す訳でもない。
ただ、
考えている事を
「考えている」と認められる。
昼間は、
考えないふりが上手になる。
大丈夫な顔を、
元気なふりをして、
ただ、
見ない様にしてやり過ごす。
でも夜は、
それが出来ない。
眠れない時間が、
私を誤魔化す事を許さない。
布団の中で、
天井を見ながら、
私は私のままでいる。
弱いままで、
分からないままで、
不安なままで。
それを、
否定もしないし、
肯定もしない。
ただ、
「あぁ、今の私はこうだ」と
思う。
夜は、
何かを始めなくていい。
何者にもならなくていい。
だから私は、
夜が好きだ。
それなのに、
夜はいつも、
私の望むより早く終わる。
明け方になると、
空気が変わる。
静かに、
確実に。
外を見ると、
朝焼けが広がっている。
それは、
驚くほど美しい。
夜の青と、
朝の白と、
その間に溶けた淡い色。
綺麗だ、
と思ってしまう自分がいる。
その事実だけが、
少しだけ苦しい。
こんなにも美しいのに、
私は一日が始まるのを
嫌だと思っている。
嫌で、
嫌で、
仕方がない。
また時間が動くこと。
また「今日」を生きること。
朝焼けを見たまま、
私は目を閉じる。
眠る為じゃない。
逃げる為に。
これ以上、
朝にならないで欲しい。
これ以上、
今日が始まらないで欲しい。
そう願いながら、
無理矢理目を閉じる。
次に目を開けると、
空はもう
眩しい青になっている。
朝なのか、
昼なのか、
分からない。
分かるのは、
もう朝焼けは終わっている、
と言う事だけだ。
綺麗な時間は、
いつも短い。
そして、
私はまた一日を受け取る。
夜に正直だった自分を、
そっと奥にしまって。
逃げて、
目を閉じて、
目を開けて。
この繰り返しが、
私の日常だ。
昼の私は、少し変だ。
夜の私と同じ身体を使って、同じ名前で呼ばれている筈なのに、
どこか噛み合っていない。
歯車がひとつずれて回っているような、
そんな感覚がある。
昼になると、私は笑う。
それは意識して選んだ行動ではなく、反射に近い。
辛い話をしている時でさえ、声が軽くなり、表情が柔らぐ。
自分でも、どうしてそんな顔ができるのか分からないまま。
楽しい訳ではない。
余裕がある訳でもない。
ただ、そうしていないと、この場所にいてはいけない気がする。
昼の世界は、明るすぎる。
光が多く、
音が多く、
視線が多い。
人は、はっきりしたものを好む。
元気か、
元気じゃないか。
大丈夫か、
大丈夫じゃないか。
そのどちらかに分類できないものを、扱いきれない。
夜の私の言葉は、昼には重すぎる。
輪郭が曖昧で、結論が無く、救いもない。
そんなものを差し出したら、
心配されるか、距離を置かれるか、
あるいは「大袈裟だ」と笑われるかもしれない。
そのどれもが、怖い。
だから私は、先に笑う。
言葉よりも先に、空気を整える。
「ここまででいいですよ」と、無言で伝える。
自分の苦しさに、値札をつけて、軽く見せる。
昼の私は、夜の私を隠している。
でもそれは、否定ではない。
夜の私を否定したら、私はもう立っていられない。
だから昼の私は、盾になる。
前に立って、受け取れる形に変換する。
それでも、違和感は消えない。
笑っている自分を、少し遠くから見ている感覚。
声を出して話しているのに、
どこかで「これは代役だ」と知っている。
昼の私は、誰なのだろう。
私だ。
確かに私だ。
でも、夜の私とは同じ役を持っていない。
昼の私は、
壊れない為の形だ。
夜の私が、
まだここにいられる様に作られた、仮の輪郭。
それが必要だったから、私はそうなった。
昼の私は、偽物じゃない。
生き延びる為に選ばれた、
もう一つの私だ。
昼の私は、
嘘をついている訳じゃない。
けれど、事実をそのまま出している訳でもない。
その中間に、ずっと立っている。
「大丈夫」と言う時、
私は自分に言い聞かせている。
相手の為でも、
場の為でもあるけれど、
一番は、自分が崩れない為だ。
昼の私は、
夜の私よりも現実的だ。
時間を見て、予定を考えて、
最低限やるべき事を把握している。
それは冷静と言うより、
感情を後回しにする事に慣れてしまった結果だ。
夜の私が感じているものは、
昼の世界ではすぐに溢れてしまう。
だから昼の私は、
感情を「言葉になる前」で止める。
胸の奥で何かが動いても、
それを拾い上げない。
拾い上げた瞬間、
説明しなければいけなくなるから。
説明は、いつも難しい。
正しく伝えようとすればする程、
削られていくものがある。
削られた結果だけが残るなら、
最初から差し出さない方が楽だ。
昼の私は、その選択をする。
何度も、
何度も。
それでも、
昼の私は完全ではない。
ふとした瞬間に、夜の私が滲む。
言葉の端、視線の揺れ、
一瞬遅れる返事。
誰かがそれに気づく事は、ほとんど無い。
気づかれない事に、
ほっとして、
同時に、少し寂しくなる。
昼の私は、
見つけられたい訳じゃない。
でも、完全に見えなくなるのも怖い。
だから私は、
笑いながら、どこかで祈っている。
「このままでも、消えませんように」と。
昼の私は、
夜の私を守っている。
夜の私は、
昼の私を休ませている。
その循環が崩れない限り、
私は、なんとか今日を終えられる。
昼の私は、
壊れない為の形だ。
それは、
弱さの証明ではない。
適応した結果だ。
生きる為に、
私は自分を分けた。
それが必要だった時期が、確かにあった。
そして今も、
その名残は残っている。
昼の私と夜の私は、
統合されていなくてもいい。
無理に一つにならなくてもいい。
ただ、
互いを否定せず、
役割を知っていれば、それでいい。
昼の私は、
今日も笑う。
夜の私が、
また戻って来られる様に。
夕方は、
境界だ。
昼の私が少しずつ力を失い、
夜の私がまだ完全には現れない、
その間。
光が変わる。
白過ぎた世界が、やっと色を持ち始める。
影が長くなって、輪郭が曖昧になる。
昼の世界が持っていた「はっきりさ」が、
少しずつ剥がれていく。
この時間になると、
私は落ち着かなくなる。
何かをしなければいけない気がするのに、何をすればいいのかは分からない。
昼の私は、
まだ立っている。
でも、
もう強くはない。
笑顔を維持するには、
少し疲れ過ぎている。
夜の私は、
近くにいる。
気配だけで、まだ言葉を持っていない。
胸の奥で、静かに待っている。
夕方の私は、
その間で揺れる。
昼の私を続けるには遅過ぎて、
夜の私になるには早すぎる。
この時間帯は、誤魔化しが効かない。
笑おうとしても、
声が遅れる。
何も考えないふりをしても、
思考が滲む。
だから私は、
夕方が少し怖い。
昼の鎧が剥がれかけているのに、
夜の闇には、まだ包まれていないから。
外を見る。
空は、昼の青を手放しながら、
夜の色を試している途中だ。
どちらにもなりきれない色が、いくつも重なっている。
その色を見ると、
自分の中身を見られている気がする。
「どちらでもない」状態。
それは、
守られていないと言う事でもあり、
正直であると言うことでもある。
夕方の私は、
一日の中で一番無防備だ。
昼の私の役目は、
そろそろ終わる。
夜の私が前に出る準備を始めている。
その切り替えの瞬間に、
私は何度も立ち止まる。
このまま夜に行っていいのか。
また、
あの正直さに戻ってしまっていいのか。
夜の私は、楽ではない。
考え過ぎて、
沈み過ぎて、
時々、自分を見失う。
それでも、
夕方の私は知っている。
昼のままでは、いられないことを。
だから私は、
夕方を越える。
好きでも、嫌いでもなく。
ただ、流れに身を任せて。
夕方は、
選択の時間ではない。
決意の時間でもない。
昼と夜を繋ぐ、細い橋の様なものだ。
私はその橋を、
毎日、何も考えずに渡っている。
渡り終えた先で、
また別の私になると知りながら。
夜に戻る瞬間は、
音がしない。
何かが切り替わる合図も、はっきりした境目もない。
ただ、
ふと気づくと、昼の私が遠くにいる。
部屋の明かりをつける。
それだけの動作なのに、世界が閉じる感じがする。
外の気配が薄れ、空の色が見えなくなる。
代わりに、内側の音が大きくなる。
夜の私は、
最初から饒舌ではない。
むしろ、言葉を持たずに戻ってくる。
重さだけを連れて。
昼の私がおいていった感情が、
順番に席に着き始める。
整理されていないまま、
理由も説明もなく。
夜の私は、
誤魔化さない。
誤魔化せない、
と言った方が近い。
昼の私が上手に包んでいたものを、
そのまま受け取ってしまう。
「今日は大丈夫だった」
そう言い聞かせたはずの言葉が、
夜には薄く剥がれる。
大丈夫だったかどうかより、
何が残ったかだけが、はっきりする。
夜の私は、
正直だ。
でもそれは、勇気のある正直さじゃない。
逃げ場を失った結果の正直さだ。
横になる。
目を閉じる。
眠る準備をしているつもりでも、
身体はそれに従わない。
夜は、
考える時間だ。
考えない様にしていた事が、
自然に浮かんでくる。
押し出す必要も、引き寄せる必要もない。
昼の私は、
「今は考えなくていい」と言っていた。
夜の私は、
「今しか考えられない」と知っている。
天井を見る。
昼に見ていた天井と同じはずなのに、
全く違うものに見える。
そこには、
何も書いていない。
それでも、
問いだけは浮かぶ。
私は、
何者なのか。
私は、
どこに向かっているのか。
この一日は、
何だったのか。
答えは出ない。
でも、
問いは消えない。
夜の私は、
答えが出ない事に慣れている。
慣れてしまった事が、
少しだけ悲しい。
眠れないまま、
時間が過ぎる。
時計を見る。
進んでいるのに、
進んでいない気がする。
夜は、昼ほど長くはない。
でも、密度が違う。
夜の私は、
昼の私よりも確かにここにいる。
輪郭がぼやけているのに、
存在感だけはっきりしている。
正直になれる場所。
誰にも見られない場所。
同時に、
誰にも助けられない場所。
それでも、
私は夜に戻る。
戻ってしまう。
戻らずにはいられない。
夜は、
私が私に戻る時間だ。
そして、
眠れないままの夜が、
いつの間にか薄れていく。
カーテンの隙間から、
青白い光が滲む。
夜の終わりが、
静かに近づいている。
私は、
まだ目を閉じていたい。
眠る為ではなく、
この夜を、
もう少しだけ留めておく為に。
眠れない夜は、
静かだ。
外の音は減り、世界は縮んでいく。
それなのに、内側だけがやけに広い。
目を閉じると、
思考が止まる。
始めようとしている訳じゃない。
止めようとしても、
止まらない。
眠い。
確かに眠い。
身体は休みたがっているのに、
頭だけが、まだここにいる。
夜の内部では、
時間の感覚が歪む。
数分が数時間の様に感じられ、
時計を見る度に、少しだけ裏切られた気持ちになる。
考えている内容は、特別な事じゃない。
未来の不安。
過去の断片。
昼に飲み込んだ言葉。
言わなかったこと、言えなかったこと。
それらが、
順番もなく浮かんでは沈む。
眠れない夜の私は、
自分に正直すぎる。
言い訳も、誤魔化しも、通用しない。
「大丈夫」と言う言葉は、ここでは力を持たない。
夜の内部では、
私はただ、在る。
評価も、
役割も、
目的も無く、
思考と感覚だけが残る。
それは苦しい。
でも、どこかで安心でもある。
誰にも見られていないと言う事実が、
私を少しだけ自由にする。
それでも、
夜は永遠ではない。
どれだけ閉じこもりたくても、
どれだけこのままでいたくても、
時間は進む。
気づけば、
思考は疲れ、
感情は鈍く、
ただ、重さだけが残る。
眠れない夜は、
終わらせたくない気持ちと、
終わって欲しい気持ちが、
同時に存在する場所だ。
明け方は、
突然来る。
合図もなく、準備もさせずに。
カーテンの伱間から、
青白い光が忍び込む。
夜の闇を壊す程強くはないのに、
確実に、
終わりを告げてくる。
私は、
その光が嫌いだ。
美しいと感じてしまう自分が、
一番嫌いだ。
空の色は淡く、静かで、
世界は何事も無かったかの様に始まろうとしている。
その無邪気さが、少し残酷に見える。
眠れなかった事実は、
誰にも知られないまま。
考え続けた夜も、
揺れていた感情も、
朝の光には関係がない。
私は、
目を閉じる。
朝から、
そして、自分から逃げる為に。
ほんの二時間。
それでもいいから、
意識を手放したい。
やがて、
短い眠りが訪れる。
深くはない。
夢を見るほどでもない。
ただ、
現実から少し離れる為の眠り。
次に目を開けた時、
空はもう明るい。
朝なのか、昼なのか、わからない色。
身体は重い。
心も、
まだ夜に取り残されている。
それでも、
一日は始まってしまう。
私はまた、
昼の私を呼び戻す。
笑う準備をして、
世界に合わせる準備をして。
夜は、
静かに奥へ退く。
置き去りにされた訳じゃない。
ただ、次の夜まで、
眠るだけだ。
今日は、
やっぱり何も起きなかった。
そう言ってしまえば、昨日と変わらない。
起きて、
少しぼんやりして、
身体を動かす理由を探して、
結局見つからないまま時間が過ぎた。
特別な出来事はない。
誰かと会った訳でも、
何かを成し遂げた訳でもない。
記憶に残る様なことは、
何ひとつ。
それでも、
今日は昨日とは違う。
それは、はっきりした違いじゃない。
気付いた瞬間がある訳でもない。
ただ、
同じ天井を見上げながら、
昨日より少しだけ、呼吸が浅いとか。
昨日より少しだけ、時間が早く進んだ気がするとか。
そう言う、
説明にならない差だ。
昨日の私は、
この一日を「終わらせたくない」と思っていた。
同時に、「早く終わってほしい」とも思っていた。
今日の私は、
そのどちらでもない。
ただ、この一日が過ぎて行くのを、
遠くから見ている。
昼は相変わらず長く、
夜は相変わらず短い。
眠れない時間も、
考え過ぎる癖も、
何一つ変わっていない。
それでも、
昨日と同じ場所に、私は立っていない。
昨日の私がここに残した重さを、
今日は少しだけ踏みしめている。
沈んだままの感情が、
完全には戻らないまま、
確かに地面になっている。
今日が特別だからじゃない。
むしろ、
特別じゃないからだ。
何も起きなかった日が、
一日で終わらず、
静かに積み重なっていく。
昨日の続きとして、
今日がある。
それだけの事なのに、
それだけの事が、
私は確かに違って感じられる。
だから私は、
今日も書く。
意味があるかどうかはわからない。
ただ、
同じ一日が、同じではないことを、
忘れない為に。
今日も、
何も起きなかった。
でも、
私は確かにここにいた。
この夜を、
結論にするな。
ここまで読んだあと、
この本のことを忘れても構いません。
忘れてしまうくらいの温度で
丁度いいと思っています。




