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水曜日のガチャガチャ

作者: カズ
掲載日:2026/01/05

 その公園は、オフィス街と大学キャンパスのちょうど境界線にあった。


 佐々木(五十八歳)にとって、そこにある古い木製ベンチは、聖域のようなものだった。昼の十二時十五分。コンビニの袋からサンドイッチを取り出し、鳩が地面をつつくのをぼんやりと眺める。それが、定年を二年後に控えた、さえない総務課長代理の唯一の安らぎだった。


 佐々木には、ちょっとした秘密の趣味があった。

 カバンの中から、カプセルトイ――いわゆるガチャガチャのプラスチックケースを取り出す。今日の戦利品は、「虚無顔の猫」シリーズの第三弾だ。

 パカッ。

 乾いた音と共に現れたのは、あぐらをかいて遠くを見つめる三毛猫のフィギュアだった。


「……またこれか」


 佐々木は小さく溜息をついた。三毛猫はこれで三つ目だ。狙っていた「悟りを開いたハチワレ」は今日も出なかった。

 ベンチの背もたれに猫を並べ、サンドイッチをかじる。三匹の三毛猫が、同じ虚無の顔で佐々木を見つめ返してくる。


「かぶったんですか?」


 不意に、隣から声がした。

 驚いて顔を向けると、鮮やかなインナーカラーを入れたボブカットの女の子が、サンドイッチを片手にこちらを覗き込んでいた。オーバーサイズのパーカーに、足元はごつめのスニーカー。いかにも、近くの美大に通う学生といった風体だ。


「あ、いや……まあ、そうなんです」

 佐々木は慌ててフィギュアを隠そうとしたが、手遅れだった。

「そのシリーズ、人気ですよね。私の友達も集めてます」

 彼女は悪びれる様子もなく、佐々木の隣――ベンチの反対側の端に座り直した。

「……そうなんですか。大人がこんなもので遊んでて、恥ずかしい限りです」

「えー、なんでですか。かわいいじゃん、その顔」


 彼女はそう言うと、自分の膝の上でスケッチブックを広げた。

 それが、佐々木とミナミ(二十一歳)の、奇妙な交流の始まりだった。


 次に会ったのは、翌週の水曜日だった。

 佐々木がいつものようにベンチで「待ちぼうけの柴犬」をカバンから取り出すと、ミナミがやってきた。


「あ、おじさん。今日は犬?」

「……どうも。ええ、今日は犬です」

「ふふ、哀愁漂ってる」


 ミナミは、コンビニのおにぎりを頬張りながら、またスケッチブックを開く。

 会話はそれだけ。名前も知らない。連絡先も知らない。ただ、水曜日のこの時間、このベンチの端と端に座るだけの関係。


 佐々木は、会社では「事なかれ主義の佐々木」と呼ばれていた。目立たず、波風立てず、空気のように仕事をこなす。家では娘たちが独立し、妻との会話も業務連絡のようなものになって久しい。

 だから、この親子ほど年の離れた、しかし何の利害関係もない他人との距離感が、心地よかった。


 ある晴れた水曜日、ミナミがため息をついていた。

 いつもの鉛筆の走る音が聞こえない。彼女はスケッチブックの白いページを睨みつけたまま、動かないでいた。


「……描かないんですか」

 佐々木は、勇気を出して声をかけてみた。手には、今日ゲットしたばかりの「反省するゴリラ」が握られている。

「なんかね、わかんなくなっちゃって」

 ミナミは力なく笑った。

「就活用のポートフォリオ作ってるんですけど、自分らしさって何だっけなって。周りの子はみんなすごく才能があるように見えて、私だけ何もないなって」


 佐々木は、ゴリラの背中を親指で撫でた。

 自分らしさ。そんな言葉、もう何十年も考えたことがなかった。ただ毎日、電車に揺られ、ハンコを押し、謝罪し、頭を下げて生きてきた。


「私はね、お嬢さん」

 佐々木はゆっくりと言葉を探した。

「このゴリラが好きなんですよ」

「え?」

「このゴリラ、すごく強そうでしょう。でも、反省してる。背中を丸めて、小さくなってる。私はね、立派なライオンや鷲よりも、このちょっと情けないゴリラを見ると、ホッとするんです」


 佐々木はゴリラをベンチの真ん中に置いた。

「何もない、なんてことはないと思いますよ。少なくとも、あなたは僕のこの変な趣味を、一度も笑わなかった」


 ミナミは、目を丸くしてゴリラを見つめた。それから、佐々木の顔をじっと見た。

 沈黙が流れた。公園の木の葉が風に揺れる音だけが聞こえる。


「……おじさん、それ、深いね」

「いや、ただのガチャガチャの話です」

「ふふっ、そっか」


 ミナミは鉛筆を取り上げた。

「ちょっと貸して、そのゴリラ」


 彼女は猛烈な勢いで手を動かし始めた。

 十分後、「はい」と言って見せられたページには、緻密なデッサンで描かれたゴリラと、その横でサンドイッチを食べる佐々木の横顔があった。

 実物より少しだけ背筋が伸びていて、少しだけ優しそうな顔をしていた。


「私、こういう空気が描きたかったのかも」

 ミナミの声は、少し弾んでいた。


 季節が変わり、木々が色づき始めた頃。

 佐々木がベンチに座ると、そこには小さな手紙と、カプセルが一つ置かれていた。

 ミナミの姿はなかった。


『おじさんへ。内定、出ました。デザイン事務所です。あの時のゴリラのおかげかも。ありがとう。これ、お礼です』


 佐々木はカプセルを開けた。

 コロンと出てきたのは、ずっと探し求めていた「悟りを開いたハチワレ」だった。


「……やられたな」


 佐々木は、誰もいないベンチで一人、小さく笑った。

 秋風が吹く。少し肌寒いが、不思議と寂しさはなかった。

 彼はハチワレをゴリラの隣に並べると、大きく背伸びをして、午後からの仕事へ戻るために立ち上がった。


 さえない日常は続く。でも、カバンの中の小さな仲間たちが、少しだけ足取りを軽くしてくれている気がした。

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