5
桜佳side
千莉と気持ちが通じ合ってから数週間が経った。最近は、少し前に会った千莉の父親からの助言で、学をつけるため本を読み漁っている。千莉の父親に「学をつけて働け。そうしたら千莉との関係は考える」と言われたので、俺は必死で今までやったこともない勉強をしていた。最初に千莉に文字を教えてもらったので、今なら平仮名も漢字も読めるのだ。簡単な計算やそろばんなどもできるようになったので、身体さえ治ればどこかへ働きに出てもいいだろう。そのためにも、今度は礼儀作法を教えて貰おうか。
そんな事を思っていると、襖が静かに音を立てて勝手に開いた。誰か入ってきたのだろうか。この足音は千莉ではないと思う。警戒しつつも驚いてそちらをみると、やはり千莉ではない地味だが品の良い着物を着た女がいた。
パチリと目が合う。
「キャー!!化け物ぉ!!」
彼女は悲鳴をあげながら廊下の方へ逃げていった。誰だろうと考える暇もないぐらい、一瞬の出来事だった。
でも、この一瞬は俺を絶望させるのには十分な時間だ。
本当はそういう反応なのだ。普通の人というのは、俺の顔や身体を見た途端にさっきの女のように悲鳴をあげて逃げ出すのだ。千莉がおかしいだけだ。千莉と一緒いると、俺が普通の人になった様に錯覚してしまう。
『誰にも受け入れられない』という現実を突きつけられたように感じて、心細くなる。早く千莉が帰ってきて欲しい。
(千莉といると俺は本当に女々しくなるな……。)
***
最近、使用人からコソコソと噂されるようになった。その噂というのは『お嬢様が野蛮で化け物のように醜い男を連れ込んでいる』『お嬢様はその男に惚れ込んでいるらしい』というものだ。おそらくその噂が広まったのは、桜佳の部屋に使用人が間違って入ってしまった時からだろう。
別に、二つ目の噂は好きに流し目もらっても良い。どんどん流して、桜佳に自分が愛されていることを理解させて欲しいぐらいだ。しかし、噂とは悪い尾ひれがついていく物。今は怪我で安静に部屋で過ごしている桜佳だが、もうしかしたら彼が侮辱されている噂がいつかは彼の耳に入るかもしれない。しかも、その尾ひれのついた噂が母に伝わる可能性がある。めちゃくちゃに身分主義の母だ。桜佳をどう思うか、桜花に何を言うかは分かりきっているだろう。警戒しておこう。
そう決意したのだが、その数日後に使用人が母へ、私が桜佳を家に連れ込んでいて、恋仲であることを告げ口をした。今すぐにでもその使用人を解雇したかったが、私の一存でできるわけもないので我慢しておく。恨みはするが。
それからというもの、母が桜佳を追い出せとうるさいのだ。母は身分主義が通常の上流階級出身で、身分の低い桜佳と同じ屋敷に住むのも、将来私と桜佳が結婚して家族になるのも嫌だと、ヒステリックに泣き喚きながら私に訴えかけていた。
まあ、この家の絶大な決定権を持つのは父なので、母になんと言われようとあまり関係がないのだが。
ちなみに、母より先に伝えていた父は、勉強熱心でどんどん知識を身につけていく桜佳の頑張りを認めているらしく、桜佳の身体が治ったらうちの店で働かせようと言っている。
桜佳の頑張りが認められるのは嬉しいことだ。桜佳は父に会ってから、怪我に支障をきたさない程度に必死になって知識を詰め込んでいた。なので、それが報われることが、本当に嬉しいのだ。
***
母に使用人が告げ口をした頃から一週間が経ったある日の夕方、仕事の手が空いたので桜佳の部屋に行くと、敷布団に腰掛けて掛け布団にくるまっている桜佳がいた。心配して、桜佳の隣に座り顔を覗き込む。桜佳の顔は、顔面蒼白と言った様子で、明らかに体調が悪そうだった。
「どうしたの?そんな青白い顔をして。」
私は桜佳に聞く。
桜佳は話したくないのか、しばらく無言の時間が続いた。私が「桜佳?」と聞けばボソボソと、己の不安を吐き出すように桜佳は言葉にした。
「……ここに、あんたの母親が来た。そいつは……。そいつは、俺に千莉と別れて、この屋敷を出ていけ、と言った。出ていかなければ……、奉行所に連れていって、処刑する、と……。」
絶句した。そして後悔した。母は、身分の低い人がいっそ嫌いだと言ってしまってもいい。だから、ひどいものだが、桜佳には近づかないと思っていたのだ。しかし、私の想定が甘かったが故に母はわざわざ桜佳に会いに行き、ほぼ脅しのようなことを言ったのだ。
私は自分の詰めの甘さを悔やんだ。おそらく、桜佳はまだこの状況を信じきれていない。そんな状況であんなことを言われると、どうなるかは分かり切っていたのに。
「なぁ、千莉。……俺は、どうしたらいい?千莉のことを思うなら、確かに、……俺は千莉から、離れるべきだ。でも……。でも、俺は千莉から、……離れたくない。離れるなんて、思い浮かべるだけで苦しくて、呼吸ができなくなる。……あんたを殺して、俺も死にたくなる。おかしいよな。それは、わかってる。」
何度も口を挟みたかったが、桜佳はこちらが反論できないぐらい矢継ぎ早に言う。桜佳の目にはもう涙が溜まっていて、顔は悔しそうに、つらそうに歪めている。
「俺は……。俺は…………。」
桜佳は私の着物の胸元を掴み、縋りついていた。まるで、捨てられる直前のように。私は自分の着物から桜佳の手を離した。桜佳は一瞬、絶望したような表情になったが、私が彼の手を包み込むように握ると、心底安心したように息をついた。潤んだ目で真っ直ぐこちらを見つめている桜佳に、私は幼子を嗜めるように言った。
「桜佳は何で、私と離れるべきって思ってるの?」
「それは……。あいつに言われて、俺もそう、思ったから……。」
苦々しく重たいものを吐き出すように言う桜佳に、私はまた質問を重ねる。
「そっか。じゃあ何で、桜佳はお母様に言われたことに同意してるの?」
桜佳は、悲しそうに、苦しそうに、理由を口にした。
「……俺は醜くて、身分なんてものはなくて、罪人で、どうしようもない奴だから。……だからっ。」
私は、桜佳の言うことを一つ一つ否定していく。
「私は桜佳のことをかっこいいと思ってるし、身分とかただの肩書きだし、罪人は私が揉み消してるから大丈夫。」
矢継ぎ早にどんどん否定していく私に、桜佳はポカンと放心している。
しかし桜佳はすぐに復活して、顔を赤くしながら聞き返してくる。
「かっ、かっこいい?」
「そうよ。」
聞き返した桜佳の言葉に間髪入れずに返す。
桜佳に前世のことを言うつもりはない。言ったところで混乱させてしまうだけだと思うからだ。なので、私は『感性が特殊』ということでごり押すことにした。
「私、ちょっと感性が特殊なんだ。」
「……なるほど?」
困惑で涙も止まってしまった桜佳を眺めながら、私は自分の気持ちを伝える。
「離れるべきなんて思わないでね。私が離れたくないから。」
「……っ!」
桜佳は、そう言われるとは思わなかったというように驚く。私は結構好きって言ってたはずなのだけれど。
「あ、あと死なないでね。ついでに私も殺さないでちょうだい。」
「…………わかった。」
そういえば物騒なことを言っていたな、と一応釘を刺しておいた。




