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桜佳と出会った日の夜が明けた。
彼には、私の部屋の隣にあった客室をあげて、そこへ寝かせた。
朝、身支度を終えて仕事をしていた私は、さすがにそろそろ昼なので彼を起こそうと、彼の部屋の前に来ている。私は、新たに桜佳のものとなった部屋に勢いよく入る。
「おはよう!桜佳!」
そう言うとともに気づく。彼の少しはだけた着物から、大きな傷痕が複数個見えた。自分の顔が青ざめたことがわかった。
***
桜佳side
(あれ……。ここ……、どこだ?)
視界に入ってくるのは牢屋ではなく、清潔で品のある綺麗な部屋。砂に混じった石で痛い床ではなく、肌触りの良い柔らかく、身動きを取ればその通りに沈む布。自分が着ているものも、いつもの囚人用のボロ布とは違う、濃紺の上等だとわかる布でできた着物だ。
目覚めたてのぼんやりした頭で一生懸命思い出す。
だんだんと覚醒していき、昨日の出来事を思い出せた。
(そうか……。夢じゃ、なかったのか……。……よかった。)
昨日のことが夢ではなく現実だったことにホッとした。もしかしたらまだ夢かもしれないが、ひとまずは安心した。
ようやく完全に目が覚めた俺は、怪我で立ち上がれないので、布団に座っておく事にする。
すると、程なくして千莉が勢いよく部屋に入ってきた。
「おはよう!桜佳!」
そう言った彼女は、一瞬で怯んだような顔になる。
なぜそんな顔を千莉がするのか最初はわからなかったが、すぐに理解した。
だんだん呼吸が浅くなる。手が震え出す。喉から変な音が鳴った気がした。
(正気に、戻ったのか……?俺なんかを買った事を、後悔したのか……?)
胃がキリキリと痛む。中のものが迫り上がってきた気がした。呼吸もおかしくなってきた。息が苦しくて、目に涙が滲む。初めてのことに困惑して不安で不安で仕方なかったが、なんとか千莉から隠そうと、長い前髪を顔に持ってきて俯き、喉に手を当てて軽く首を絞める。さらに呼吸がしにくくなった気がする。意識が飛びそうだ。
「桜佳!?どうしたの?大丈夫?」
千莉が言うが、返事ができない。
返事をしなければと思うが、声も出ないし呼吸もままならない。
『どうしようどうしよう』と混乱していると、なぜか千莉が抱きしめてきた。
「大丈夫、大丈夫よ。私がついてる。」
背中に手を回され優しく撫でられる。さっきまで埋め尽くされていた不安が少し減った気がした。こうまで優しくされると、まだ捨てられないのではないかと期待を持ってしまう。そんなはずないのに。
「私に合わせて呼吸してね。吸って……。……吐いて。」
そうして意識が朦朧としている中、なんとか千莉の言う通りに呼吸を繰り返す。どれぐらい経ったのかわからないが、やっと呼吸が落ち着いてきた。
感謝をしなければと、ようやく声が出せるようになったので掠れた声で言う。
「……ありがとう。」
「もう、大丈夫?」
「あぁ。」
「そう。よかった……。何かあったら遠慮なく言ってね。」
とてもホッとした様子の千莉は、俺の身体を離す。
名残惜しく思ってしまうのは多分、もうこうして抱きしめてなんか貰えないからなんだろうな。
我ながら、女々しくなってしまった。
***
桜佳の呼吸がおかしくなった。
私は桜佳の古傷が見えて彼の境遇を察し、それで顔が青ざめただけなのだが、桜佳はそれを本来の意味とは違う捉え方をしてしまったらしい。
本当に焦った。しかし、私まで混乱していると当の本人がさらに混乱しそうなので、なんとか自分を落ち着かせて対応する。
やっとのことで落ち着いてくれた桜佳に、ホッと安堵しながら、私は空気を変えるように言った。
「じゃあ、朝ごはんを持ってくるわね!」
私は桜佳の頭を一撫でしてから、近くで仕事をしているだろう使用人に声をかけに行くことにした。
桜佳は何故か顔を真っ赤にさせて、尚且つ心底分からないといったような表情をしていた。
***
使用人に私の朝食にお粥をつけて欲しいと頼むと、怪訝な表情をしていたが快く用意してくれた。お盆に朝食とお粥を乗せる。部屋へ戻るだけなのに、屋敷が広すぎて数分かかることに苛立ちつつ、桜佳の部屋に着いたので行儀が悪いが両手が塞がっているので足で襖を開け中へ入る。桜佳は物珍しそうに朝食を眺めていた。一度お盆を床へ置き、折りたたんであった、布団を跨いで置ける机を桜佳のところへ置く。桜佳の前にお粥を置き、私の前に自分の朝食を置いた。
不意に、桜佳が話しかけてくる。
「あんた、食べる量多いんだな。」
私の朝食は平均的な量だ。……もしかして、お粥も私のものだと思っているのではないだろうか。もし、そうだとしたら、桜佳は一向にお粥に手をつけない可能性があるので、一応言っておく。
「普通だと思うけど……。お粥は桜佳の分ね。残しても大丈夫よ。あと、なるべくゆっくり食べて。」
「俺の分なんかあるのか……?」
桜佳はそう言ってくる。
やはり、お粥を自分の分だと思っていなかったのか。
「当たり前じゃない。ほら、冷めないうちに食べましょ。」
私は手を合わせる。桜佳は怪訝そうな顔をしたので、目を合わせて催促した。
「いただきます。」
「い、いただきます……?」
二人で朝食を食べる。
会話らしい会話はなかったが、終始心地の良い空気が漂っていた。




