9話 オヤジさんの正体
千田邸は、誰が見てもため息の出るようなご近所の豪邸だ。
立派な門構え、手入れの行き届いた庭、そして二階建ての堂々とした洋館。近所の人たちは「千田さんちはお金持ちねー」と噂しているが、通い慣れたその門の奥に、魔法の異世界が広がっていることを知る者は少ない。
そして今、その門の前に立つのは、16歳の少年・鳥内瑠散だった。
「瑠散くん、今日は大事な試練の日よ」
魔法使いのようなとんがり帽子とローブに身を包んだ千田さんは、踊り子としての風格と、おかしみのある優しさを漂わせていた。杖の先端には小さな鈴がついており、歩くたびにチリンチリンと音がする。
彼女の手元のフランスパンが、ぽこん、と音を立てた。なぜフランスパンが音を立てるのかは、千田界の謎の一つである。
「完璧に焼けない鮭のために、ダンジョンで教えてもらいなさい。焼き鮭の試練へ行くのよ!」
千田さんは杖を振りながら、まるで魔法少女のような決めポーズを取った。
門の下で、しっぽを揺らす犬が一匹。まんまるの目、ちょっと短い足、そしてどこか達観したオヤジ感。茶色い毛並みで、首輪には「オヤジ」と書かれた名札がついている。
「この子が案内役。オヤジさんよ。疲れた目がチャームポイントよ」
千田さんがオヤジさんの頭を撫でると、オヤジさんは気持ちよさそうに目を細めた。
瑠散は眉をひそめた。「オヤジさん?しゃべったりします?」
「ワン」と一声。だがその目は、「うん、まあしゃべれないけど察してくれ」とでも言いたげだった。どこか人間臭い表情を浮かべている。
「オヤジさんは植木の手入れが得意なのよ。庭がこんなにきれいなのも、この子のおかげなの」
確かに千田邸の庭は見事に手入れされており、花々が美しく咲いていた。
炎の塔の料理研究所、そこにあるのは、神々と魚の香ばしい歴史が眠る、神殿のような調理場。まるで古代ギリシャの遺跡のような石造りの建物だが、なぜか現代的な調理器具も完備されている。
「ここで、焼き鮭を極めるための三つの試練が待ってるの。頑張りなさいね」
千田さんが手を振ると、オヤジさんが先導するように歩き始めた。
【一の試練:火加減の洞窟】
最初の試練場は、薄暗い洞窟だった。壁には古代の壁画が描かれており、鮭を焼く古代人の姿が見える。
瑠散は手にした木べらを握りしめ、立ちはだかる火の精霊たちに挑んだ。火の精霊たちは小さな炎の玉のような姿で、くるくると宙を舞っている。
「火加減って、心の火加減かよ!」
怒れば炎は暴れ、ビビれば煙だけ。感情のコントロールが直接火の強さに反映される、なんとも不思議な洞窟だった。
オヤジさんが吠える。「ワン!(心を整えろ!)」
その声には、なぜか説得力があった。まるで人生経験豊富な大人が言っているかのような重みがある。
「オヤジさん、なんかすごく人間っぽいな……」
瑠散は火の精霊たちと向き合い、深呼吸をして心を落ち着けた。すると、炎が穏やかになり、ちょうど良い火加減になった。
【二の試練:塩風の谷】
次の試練場は、風が吹き抜ける美しい谷だった。しかし、その風は普通の風ではない。
風そのものが塩でできているこの谷では、風向きや湿度で味が変わる。瑠散は鼻をひくひく、舌をぺろり。
「これ魚に合うの?しょっぱすぎない?」
「ワン!」オヤジさんが飛び跳ね、葉っぱを一枚運んでくる。そこには「うす塩」と書かれていた。
まるで文字が読めるかのような行動に、瑠散は首をかしげた。でも今は試練に集中しなければ。
オヤジさんの案内に従って、瑠散は風の強さと方向を調整し、ちょうど良い塩加減を見つけることができた。
【三の試練:皮パリ神殿】
最後の難関は、皮パリの極意。神殿のような厳かな建物の中で、鮭の皮をパリッと焼けるかどうか、それが世界の命運を左右するという(大げさな設定付き)。
「火が強すぎる、でも弱すぎると皮がパリパリにならない」
瑠散が苦戦していると、オヤジさんが火の調整を手伝うため歩み出た。
そのときだった。
ピタッと火の前に立ち止まると苦しそうに身を捩り始めた。すると背中に突然淡い光を浮かべ始める。
段々と広がる光が強くなり、中に何かの影が見え始めた。中年男性の輪郭、優しそうな目、器用そうな手。
「とーちゃん……?」
離れた場所にいた千田さんのつぶやきが、風に乗って聞こえた。
その光は、次第に大きくなり光をまし形を取り始め、目が眩むほどの強い光になった。
そして、光が徐々に小さく弱くなり、ついにオヤジさんの小さな体が薄れていき人間の姿が現れた。
それは、かつて千田さんの夫だった男とーちゃん。十年前、庭で八木節の練習中に魔法事故を起こし、姿を消した器用な植木職人。
「……オレ、帰ってこれたのか?」
「八木節の笛を途中で失敗してしまい、犬の姿になってしまった。でも、やっと」
幽かな声が、風のように聞こえた。
「多分、瑠散くんの鮭が完璧に焼けたおかげで、呪いが解けたんだ」
瑠散をシッカリ見ながらつぶやいた。
「オヤジさん……焼き加減、完璧だったよ!」
瑠散はふっと笑って、焼き立ての鮭を見せた。皮は見事にパリッと焼き上がり、中はふっくら、脂はじゅわり、香りは天にも届きそうなほど素晴らしかった。
その焼き鮭の湯気の中から、オヤジさんは完全に人間の姿で戻ってきた。皺の寄った笑顔、手には剪定ばさみ、とーちゃんは帰ってきたのだ。
そこへ千田さんが走りよってきた。
「すまなかった。八木節の練習で調子に乗って、魔法を混ぜるなんて」
千田さんは涙ぐみながらも、にっこり笑った。
「いいのよ、とーちゃん。あなたがオヤジさんとして植木の手入れをしてくれてたじゃない。おかげで庭がきれいになったわ」
「でも十年も……」
「その分、これからたくさんお話ししましょうね」
瑠散は二人の再会を見て、胸が熱くなった。自分の鮭焼きの修行が、こんな奇跡を起こすなんて。
「ありがとう、瑠散くん。君のおかげで帰ってこれた」
とーちゃんが瑠散に頭を下げると、瑠散は慌てて手を振った。
「いえいえ、僕は鮭を焼いただけです。でも、良かった、本当に良かった」
その晩、千田邸では盛大な宴が開かれた。
焼き鮭は主役となり、精霊たちは酒盛りをし、とーちゃんは十年分の植木の手入れについて千田さんに報告していた。
五十嵐さん、荻野さん、周東さんたちも駆けつけ、みんなで再会を祝った。
「とーちゃんがいなくなってから、鮭ばかり焼いてたのよね」千田さんがぽつりと言った。
「あなたが鮭好きだったから」
「気づいてたよ。犬になってても、優しさはちゃんと分かってた」
「今度は八木節の練習、もう少し慎重にやりましょうね」
「ああ、今度は魔法と混ぜたりしないよ」
みんなが笑い、千田界はいつもより温かい夜に包まれた。
瑠散は思った。千田界の不思議な縁は、きっとこうして人と人をつないでいくんだろう。鮭を通して、愛を通して。
そして千田さんは、とーちゃんの手を取りながら言った。
「明日からまた、二人で千田界を盛り上げていきましょうね」
「ああ、楽しみだ。でも今度は、普通に人間として手伝うよ」
「でも時々、オヤジさんの格好も懐かしいわね」
「それは勘弁してくれ」
みんなが笑い声に包まれる中、瑠散の鮭修行は思わぬ家族の再会という奇跡を生んだのだった。
千田界は今日も平和で、愛にあふれた不思議な世界だった。そして、相変わらず鮭が重要な役割を果たす世界でもあった。
鮭は奇跡を呼ぶ!かな?
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