7話 チダプール
千田界それは不思議の花が咲き、不条理な魚が跳ね、理屈とロジックが時折うっかり道に迷う異世界である。そしてこの世界のほぼ中央には、地元民から「チダプール」と呼ばれる池がある。
湖でもなく、沼でもなく、ましてやプールでもないだが泳げる。しかも時々、鮭が喋る。これが千田界では至って普通なのだ。水質は魔法で浄化されており、いつでもプールのように透明で清潔。深さも魔法で自動調整されるため、子どもから大人まで安全に泳げる不思議な池だった。
その日の朝、池には陽が差しこみ、光が水面を照り返していた。パラソルが並び、浮き輪がぷかぷか揺れ、かすかにレモングラスの香りが漂っている。
池の周りには
「チダプール利用規約:1.騒がない 2.走らない 3.鮭との会話は敬語で」という千田さん直筆の看板が立っていた。
そんな中、ひときわ派手なバスタオルを肩にかけて登場したのが、魔法おばちゃん・千田さんだった。水着の上には「千田界チャンピオン」と刺繍されたハッピを羽織っている。
「さあて、今日も張り切って泳ぐわよー!朝の一泳ぎで体調バッチリ!」
バシャンッ!
足音を残さず、千田さんは見事な飛び込みを決めた。水しぶきはキラキラと空中で輝き、千田さんのバタフライが始まると、まるで湖面が舞踏会でも開いたかのようだった。その泳ぎっぷりは、まさに千田界の女王の名にふさわしい。
「ひと掻きで5メートルは進んでるわよ、あの人……」
パラソルの下、日除けのサングラスをかけた折茂さんがつぶやいた。彼女は今日、絵葉書のように優雅な姿で寝そべっている。手元のジュースには魔法のミントが浮かび、氷は自動でカランカランと回転していた。千田界産の特製リゾートドリンクである。
「あ、折茂さーん、あのバタフライ、反則級じゃないですかー?」
と声をかけたのは、池の縁に立つ荻野さん。ラメ入りの水着に貝殻の髪飾り、まるで人魚から直接仕入れたような装いだった。足元にはカメの形をした浮き輪、そして片手にはフルーツぎっしりのスムージー。見るからにリゾート気分満載の格好だ。
「水着が魔法を帯びてるのよ、泳ぐと自動で髪が乾くの。便利でしょ?私にも千田さんが去年の誕生日にくれたのよ」
折茂さんが魔法の水着を自慢していると、その時だった。
「誰か……オレと勝負しようってやつあ、いねえのかァァア!」
池の中央から、水しぶきを割って飛び出してきたのはなんと、鮭だった。体長1メートルはある立派な体格。銀の鱗が七色に光り、眉毛のような海苔がキリリと決まっている。
「ボク、シャケノスケっていいます!千田界北の海出身です!今日のために遠い北の海から泳いできました!」
シャケノスケは自己紹介しながら、見事な宙返りを披露した。銀の鱗がキラキラと輝いて美しい。
千田さんが立ち止まり、ゴーグルをずらして目を丸くした。
「鮭が喋ってる!?しかも挑戦状!?……面白いじゃない、受けて立つわよー!」
千田さんの目が輝いた。競争と聞けば血が騒ぐのが千田さんの性分である。
その瞬間、池の空気がピンと張りつめた。
折茂さんはサングラスをそっと外し、荻野さんはスムージーをストローごと一気に吸い込んだ。
「やるわね……千田さん、本気だわ」
「これは見ものですね!」
魔法で描かれたスタートラインに立つ千田さんとシャケノスケ。水面には光の波紋が踊り、周囲からは応援の妖精たちが、手作りのうちわを振っている。
「今日は特別に、瑠散くんと五十嵐さんにも審判をお願いしたわ」
千田さんの声で、池の向こうから瑠散と五十嵐さんが現れた。二人とも水着姿で、手には審判用のフラッグを持っている。
「えー、僕が審判ですか?」
「千田さんの泳ぎを間近で見られるなんて、光栄ですわ」
「位置について——よーい、ドン!」
五十嵐さんがフラッグを振り下ろした瞬間——
パシャァァンッ!
二つの水柱が同時に跳ね上がり、まるで鏡合わせのようにバタフライが始まった。千田さんのフォームは完璧だった。手を広げるたびに水が割れ、まるで蝶の羽ばたきのように進む。シャケノスケも負けていない。尾ひれを巧みに使い、S字を描くように水を切っていく。
「いけええ!千田さん!ファイトー!」
荻野さんの声援がこだまし、折茂さんはワインのグラスを傾けながら「魔法による後押しなし、さすがだわ」とつぶやいた。
「シャケノスケさんも頑張って!」瑠散も応援している。
半分を過ぎたところで、千田さんが加速する。
「焼き鮭を食べるためには、泳ぎきらなきゃいけないのよオオオ!!」
一族に伝わる「鮭神功」が発動したのかもしれない。水が左右に割れ、池の鴨たちが慌てて飛び立ち、魚たちが「うおお」とざわめいた。
一方、シャケノスケも意地を見せた。
「生き残りを賭けてるんだ!この戦いに負けたら……次の煮付けはボクかもしれないッ!生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」
しかし、その言葉には少し悲しい響きがあった。シャケノスケの両親は、産卵の川上り途中で捕まり、美味しくいただかれてしまったのだ。だからこそ、彼は強くなりたいと思って泳ぎを続けてきた。
「でも!ボクは負けない!両親の分まで、精一杯泳ぐんだ!」
その気迫に、千田さんも感動した。
「あなた、いい根性してるじゃない!だからこそ、手は抜かないわよー!」
ふたりの泳ぎは、もう水ではなく空を切る勢いだった。池の水面が波立ち、まるで海のような迫力だ。そして——!
ゴールの杭に、二人同時にタッチ!
「こ、これは……引き分け!?」
瑠散が驚きの声を上げる。
「いい勝負だったね……」と、シャケノスケが水中でふうっと泡を吐くと、千田さんは笑って肩を組んだ。
「いいえ、あなたも立派だったわ。でも私はまだ、焼き鮭が好きよ」
「ボク……ボクも、ちょっとだけなら塩焼きになってもいいかもって思ったよ。でも、やっぱり泳いでいる方が好きだな」
シャケノスケは笑った。負けたけれど、清々しい表情だった。
池は笑い声に包まれた。
パラソルの下で折茂さんが拍手し、荻野さんがスマホで写真を連写していた。妖精たちは花火を打ち上げ、デコレーションされたスイカが割られ、魔法スピーカーから八木節が鳴り響く。
「今日から君も千田界の住人よ」
千田さんがシャケノスケに言うと、彼は嬉しそうに尾ひれを振った。
「本当ですか!?じゃあ、毎日泳ぎの練習ができますね!」
「ええ、でも時々は焼き鮭にもなってもらうかもしれないけどね」
「え……」
「冗談よ、冗談!あなたはもう大切な仲間だもの」
千田さんが笑うと、みんなも安心して笑った。
五十嵐さんが感心しながら言った。
「千田さんの泳ぎ、本当に見事でしたわ。今度、料理の時の手の動きも参考にさせていただきたいです」
「シャケノスケさんの泳ぎも素晴らしかったです。僕も見習わなきゃ」
瑠散も感動している。
この日以来、「チダプール」では毎年、千田さん vs 鮭の水泳大会が開かれるようになったという。そして大会ポスターには、いつも同じ言葉が書かれている。
「バタフライに年齢制限はない!種族制限もない!」
シャケノスケはその後、チダプールの名物として親しまれ、時々子どもたちに泳ぎを教えたり、千田さんと一緒に朝の水泳を楽しんだりしている。焼き鮭になることもあるが、それは特別な日だけの話だ。
「明日も泳ぎましょうね、シャケノスケさん」
「はい!千田さん!」
夕日に照らされた池で、二人の友情が深まっていく。
めでたし、めでたし。
千田界は今日も平和で、ちょっと変わっていて、とても温かい世界だった。