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3話 トラップ部屋

 炎の塔は、ただの塔ではなかった。


 幾層にも分かれたその内部には、修練の部屋、儀式の間、料理研究所、八木節ホールなど——多様で奇妙な空間が存在していた。千田さんの趣味がところどころに反映されており、三階には「踊り場」という名前の文字通り踊るための場所まであった。壁には「八木節は心の炎をもやせ」という千田さん直筆の書が貼られている。


 そして、その中にひときわ異質な部屋があった。


「うわっ、やっば……っ!」


 瑠散は床にぽっかり開いた穴に気づかず、足を踏み外した。看板があったのだが、「トラップ注意!でも大丈夫だよ♪」という千田さんらしいゆるい警告文だったので、完全に見落としていた。油断は禁物である。


 ごおおおん——と重い音がして、空間がねじれたかと思うと、彼はふわりと柔らかい何かの上に落ちていた。ふかふかした、毛のような、でもどこか温かみのある……まるで高級なクッションのような感触。


「貴様、背中に乗るとは無礼千万(ぶれいせんばん)な」


 低くて威厳のある声が響いた。


 瑠散は慌てて飛び跳ねた。自分が乗っていたのは、体毛を艶やかに整えた巨大な猫だった。体格は人間の大人ほどもある立派な猫である。


 ただの猫ではない。


 その背は一直線に伸び、腰には刃を収めた小太刀を帯びている。鼻先には白ひげが威厳を持って揺れ、紫色の瞳がきらりと光った。まるで時代劇から抜け出してきた武士のような貫禄がある。


 猫が、ゆっくりと頭をもたげる。毛並みは漆黒、紫の瞳は人間より遥かに冷静な光をたたえていた。背には小太刀。額には折れ耳。目の下には、うっすらと武士道のしるしのような傷跡。


 この猫、只者ではない。


吾輩(わがはい)の名は、ネコムネ・タマ次郎。千田界毛刃流(けじんりゅう)最後の継承者である」

「……ね、猫が喋った……!?しかも剣道使い!」

「剣道ではない。剣術だ。道とは甘さ。術とは峻厳(しゅんげん)……心して学ぶのだ、少年」


 ネコムネはにゅるりと背を伸ばし、前足で器用に柄に触れた。カチリ、と鞘から少しだけ抜かれた刀身が、部屋の空気をピリリと裂く。その居合(いあい)の構えは、まさに達人の域だった。


 ネコムネはくるりと体をひねって起き上がり、背筋を伸ばして座った。どこか道場の師範のような佇まいである。ひげをしゅっと舐め、しっぽを優雅に整えながら、鋭い一瞥を瑠散に送る。


 猫なのに、なぜこんなにかっこいいのだろう。


「おまえ、お魚クラスを授かりし者だな?」

「え、まぁ……はい」


 千田界の召喚階級制度は本当に謎だった。なぜ魚。


「ならば次の段階に進むため、吾輩のトラップ部屋、この毛刃試練(けじんしれん)を乗り越えねばなるまい」


 そう言うやいなや、ネコムネはぴょん、と空中を跳んだ。その動きは流麗で、まさに猫科の身体能力を活かした剣術だった。そして、あらゆる角度から瑠散に木の棒を投げ始めた。左から、右から、上から!どれも猫の毛で巻かれていてフカフカしているが、意外とスピードが早い。


「わ、わっ!何だこれ!」


 瑠散は必死に木の棒を避けながら叫んだ。猫の毛で包まれているとはいえ、当たったら結構痛そうだ。


「反射神経と、空腹時の判断力を試している。おぬし、さきほど『焼き鮭が食べたいな〜』と心で思ったであろう?」

「な、なんで分かるんだよ!」

「吾輩の耳は飾りではない。猫の聴覚を侮るなかれ。…ふむ、まだまだ雑念が多い。腹が減ったならば、斬れ」


 ネコムネが華麗な前転を決めながら放った木刀の最後の一本には、小さな鮭の切り身が結びつけられていた。なぜか美味しそうな匂いがする。


「己の空腹を断ち切る心こそ、火と鮭の調和を生むのだ」

「それ、誰の名言だよ!」

「うちの先代『ミケ之進』の遺訓(いくん)である。偉大なる猫剣士であった」


 ミケ之進って誰だ。千田界の猫剣士の系譜は一体どうなっているのか。


 瑠散は半ば呆れながらも、飛んできた鮭つきの棒を避けずに真正面から受け止めた。そして握り、深く呼吸をした。ネコムネの真剣な眼差しを見て、これがただの遊びではないことを理解した。


 斬るものなど、なかった。ただ、感じ取るだけだった。


 炎の香り、鮭の湯気、自分の指先の熱。火への恐れではなく、火への信頼。そして、空腹への執着ではなく、料理への愛情。


 すると、部屋の中にぽん、と小さな火の光が生まれ、それはふわりと鮭を包み込んだ。優しい炎が、表面だけを軽やかに焼いていく。完璧な火加減だった。


 ネコムネはにっこりと、いや、猫だから分かりづらいが、たぶん笑っていた。ひげがぴくぴくと動いている。


「合格だ、炎の少年。おぬしの中に、火を恐れぬ心と、鮭への愛を見た」


 その声と共に、床に浮かび上がる光の円。トラップ部屋の出口だ。まるでRPGゲームのワープポイントのような光る円が現れた。


 瑠散が光に吸い込まれる直前、ふと後ろを振り返ると、ネコムネはもう一心不乱に自分の後ろ足の毛づくろいをしていた。


「剣術も、毛づくろいも、手入れこそ命だからな……ペロペロ」


 さっきまでの武士の風格はどこへやら、完全にただの猫である。しっぽがゆらゆらと幸せそうに揺れている。


「……うん。ありがとう、ネコムネ師範!」


 瑠散は感謝を込めて頭を下げた。短い時間だったが、この猫から大切なことを学んだような気がした。


 光に包まれながら部屋を出る間際、瑠散は再び振り返った。


 そこには、柔らかく身体を丸め、ひたすら後ろ足の毛づくろいに没頭するネコムネの姿があった。あの鋭さはどこへやら、まるでただの巨大で人懐っこい猫だった。武士の魂と猫の本能が同居している不思議な存在である。


「剣も毛も、放っておくと乱れるからな……ペロペロ……ではまた会おう、少年よ」


 ネコムネの声が遠ざかっていく。


 光が閉じる。


 瑠散は次の部屋へと運ばれながら思った。千田界の住人たちは皆、どこかユニークで愛すべき存在ばかりだ。猫の剣士なんて、普通に考えたら意味不明だが、ネコムネと話していると、なぜかとても自然に感じられた。


 その日、瑠散はひとつ、「焼く」ことの本質に近づいたのだった。


 技術だけではなく、心を込めること。火を恐れるのではなく、信頼すること。そして、自分の欲望に振り回されるのではなく、相手(この場合は鮭)への愛情を持つこと。


 ネコムネの教えは、料理の域を超えた人生の哲学でもあった。


「毛刃流、奥が深いな……」


 瑠散は苦笑いしながら、次なる試練の場へと向かった。きっとまた、変わった先生が待っているのだろう。千田界での修行は、予想以上に楽しくて学びの多い冒険になりそうだった。


 そして遠くから、ネコムネの「ペロペロ」という毛づくろいの音が微かに聞こえてくるのだった。

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