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2話 火弁当術師

 その日、久々に裏口から現実世界へ戻った瑠散は、肩を落として歩いていた。ほんの五分の距離なのに、なんだかすごく遠い場所から帰ってきた気がした。異世界の余韻が、まだ体に残っている。


 そして、家の角を曲がったとき。


「ふーん、千田(ちだ)さん()、行ったのね」


 そう言って、植え込みの陰から現れたのが折茂(おりも)さんだった。


 折茂(おりも)さんは近所でも有名な謎の女性である。年齢不詳、職業不明。いつも日傘を差しながら、庭でミントティーを淹れている姿が目撃されている。誰に教わったわけでもないのに海外の占星術に詳しく、毎月の満月には「今日は危ない日ね」とだけ呟いて買い物に出ない。子どもは二人いるらしいが、姿を見たことがない。


「な、なんで知ってるんですか?異世界のこと……」

「知らないわけないじゃない。あそこ、私の実家よ」


 折茂さんはにこやかに笑いながら、さらりと爆弾発言をした。


「え!?実家!?」

「そうよ。千田さんは私の師匠でもあるの。昔、こんにゃくが上手に煮えなくて召喚されたのよ」


 この折茂さん、何者!?というか、こんにゃく!?


「あなた、今は初級召喚者ね。千田界ではお魚クラスと呼ばれてる」

「魚クラス?」

「大丈夫よ。私も最初はこんにゃくクラスだったから。その後、こんにゃくを(コンニャクフ)煮込む者(レキブルex)、そして火の召喚士まで昇格したわ」


 謎の階級制度に混乱する瑠散に、折茂さんは日傘をくるりと回した。


「そうね。せっかくだし、あなたに紹介しておくわ。本格的な師匠を。上手に鮭を焼くには、火を理解しなければならないの。火を支配する者、つまり」


 ぱたん。折茂さんは、手にしていた日傘を軽く地面に突いた。


 すると、空気がぱちりと弾けたかと思うと、住宅街の真ん中に古代遺跡のような立派な扉が現れた。石造りで、炎の装飾が施されている。


「開けたら、すぐ炎の塔よ。中には、私の師匠であり千田界の火の守護者ゾクヤケシャ様がいるわ」


 瑠散は思った。


 なぜこんな重要キャラを、近所の人が勝手に紹介してくるんだ。しかも住宅街に突然扉を出現させるな。


 だがもう、異世界召喚とはそういうものだと理解し始めていた。常識なんて、最初から存在しなかったのだ。


「ゾクヤケシャ様は少しエキセントリックな方だけれど、火の扱いに関しては千田界一よ。きっと良い修行をつけてくださるわ」

「ありがとうございます……」

「頑張ってね。私も応援してるから」


 折茂さんはそう言うと、日傘を差し直して歩き去っていった。後には、炎の扉だけが残された。


 ゾクヤケシャ様のもとへ向かうべく、「炎の塔」の第一層に足を踏み入れた鳥内瑠散は、思いのほかのどかな空気に面食らっていた。


 もっとこう、灼熱地獄のような場所を想像していたのだが、天井は高く、あちこちに浮かぶ火の玉たちはまるで提灯のように赤く揺れており、温かく穏やかな光を放っている。しかも、どこからか美味しそうなカレーの匂いが漂ってきた。


「異世界でカレー?」


 鼻をくすぐるスパイスの香りに導かれるまま、瑠散は塔の中央部分へと歩いていく。すると、赤い布の敷かれたピクニックスペースが見えてきた。


 そこには一人の女性が座っていた。年の頃は三十代前半といったところか。長い黒髪を後ろでゆるく束ね、エプロン姿で三つの小さなお弁当箱にご飯を詰めている。その手つきは慣れたもので、きっと毎日やっているのだろう。


「あら。あなた、新入りさん?」


 ふと顔を上げた女性は、にこやかに微笑んだ。だがその背後では、三人の子どもたち全員が小さな炎をまとうモンスターと楽しげに追いかけっこをしている。


「え、あの子たち、火ついてません!?危ないですよ!」

「大丈夫よ、うちの子、もう耐火スキル持ってるから」

「子どもが耐火スキル!?」


「ええ。火の精霊たちもすっかり懐いてるのよ。長女のニシが三歳、次女のキタが生後九ヶ月のときに召喚されてから、もう八年になるわ」

「八年!?」


 彼女の名は周東香澄(しゅうとう かすみ)さん。三児の母であり、千田界に召喚されてもう八年目。異世界育児歴八年の、熟練の火弁当術師(ひべんじゅつし)である。


「なんで召喚されたんですか?」

「そうねえ確か、次女の誕生日にキャラ弁を失敗して、サンドイッチがオオタ侯爵に似ちゃったのが原因だったと思うわ」

「オオタ侯爵って誰ですか!?」

「千田界の貴族よ。子どものお弁当に自分の顔を模されたのが耐えられなかったらしくて、怒って呪文詠唱しちゃって。気づいたらこっちに来てたの」


 その語り口は、まるでスーパーで野菜が安かった話をするかのように平坦で、優しく、時々ユーモラスだった。八年もいれば、きっと慣れるものなのだろう。


「でもね、ここの食材は本当に素晴らしいのよ。ほら、これが火炎トマト。熱すると逆に甘くなるの」


 彼女は器用にそれをスライスし、小さなサラダに添えた。赤いトマトが、微かにオレンジ色の光を放っている。


「それから、これは氷結レタス。火で炙ると、シャキシャキ感が増すのよ」

「すごい!」

「調理魔法も使えるようになったし、火属性の魔物の扱いにも慣れたわ。『育児×ダンジョン攻略』っていう、我ながら珍しいジャンルを開拓してるの」


 周東さんはくすりと笑った。その笑顔には、たくましさと母としての強さがあった。


「強いですね」


 思わずこぼれた言葉に、周東さんは首を振った。


「そんなことないわよ。ただ、子育てってどこでも大変なのよね。異世界だろうと現実だろうと。でも」


 その視線は、今まさに火の精霊の背中に乗って飛び跳ねている次女のキタちゃんへと向けられた。


「ここにいると、ちょっとだけ日常が特別に感じられるの。たとえば、ご飯が焦げなかった朝は、もうそれだけで奇跡みたいに嬉しくて」


 その言葉に、瑠散の胸の奥がきゅっとなった。


 そうだ。


 自分も、ただ焦げない鮭が焼きたかっただけなのに、いつの間にか火を操るだの、塔を登るだの、話がややこしくなっていた。


 だが今、目の前で楽しそうに笑う母子の姿を見て、ほんの少しだけ、異世界にいる理由がわかった気がした。


「よかったら、お弁当どう?今朝、焼いたのよ。鮭」


 周東さんが差し出したお弁当箱の中には、完璧に焼かれた鮭の切り身があった。表面は香ばしく色づき、中はふっくらとしている。まさに理想の焼き鮭だった。


「食べます!!」


 瑠散は目を輝かせて答えた。


 口に含むと、皮はパリッと香ばしく、身はしっとりとして甘い。これだ、これが自分の作りたかった鮭だ。


「美味しい!どうやって焼いたんですか?」

「秘密は火加減よ。それから、愛情をたっぷり込めること」


 周東さんは微笑みながら、三女のミナミちゃんの頭を撫でた。


「料理って、技術だけじゃないのよね。誰かのことを思いながら作ると、自然と美味しくなるものなの」


 こうして、鳥内瑠散の本格的な異世界修行が始まった。


 歩いて五分の異世界で、焼き鮭のために。それはきっと、とても素晴らしい冒険の始まりだったのである。


カレーはどこに!

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