13話 八木節ナイト
十年前のある夏の夜。
五十嵐麗香は、人生のどこかで足をくじいたみたいに立ち止まっていた。
彼女の手には、油染みのついた包丁ケース。中には愛用の包丁が数本、丁寧に手入れされて収められている。料理人になる夢を抱いて故郷を離れ、都会の有名レストランで修行を積んでいたはずだったのに。
料理人になる夢を抱いて都会へ出てきたものの、あまりに現実は塩辛くて、もう舌が痺れてしまいそうだった。レストランの厨房では怒鳴り声が飛び交い、理想と現実のギャップに心が折れかかっていた。
「また失敗した……」
その日も、シェフに怒られて早退させられた五十嵐は、夜の街を当てもなく歩いていた。技術はあると自負していたが、プレッシャーの中では思うように手が動かない。完璧主義が災いして、小さなミスを引きずってしまう性格も問題だった。
そんな迷いの中を歩いていると、住宅街の一角に場違いなほど立派な洋館が現れた。
どの窓にも重厚なカーテンがかかり、黒い鉄製の門には黄金の装飾。門柱には優雅な彫刻が刻まれ、立て札には堂々とこう書かれている。
【千田邸】
一般住宅街所属・外観:一級豪邸
内容物:異世界・魔法・八木節
「なんなの、ここ。内容物って何よ」
五十嵐はそう呟きながら、なぜか引き寄せられるように門に近づいた。普通なら「怪しい」と思って避けるところだが、今の彼女にはそんな常識的な判断力も残っていなかった。
ノブを回してみると
ボワッ!
紫色の煙と一緒に、何かが爆発したような音が響いた。煙の中から現れたのは、とんでもなく派手な格好の女性だった。
「おや、お嬢さんね!魂が焦げてるわよ!焼き加減、ミディアムレア!」
赤紫色のローブに、銀色の杖。腰にお玉をぶら下げ、頭にはとんがり帽子。まるでファンタジー世界から飛び出してきたような人物だった。
「ようこそ、ここは異世界の入り口、私は千田よ!」
「料理人、ですか?」
五十嵐が恐る恐る尋ねると、千田さんは首を振った。
「半分ね。あと半分は八木節踊り子よ」
そう言った彼女は、くるりと回転しながら、一瞬で装束をチェンジした。煌びやかなハッピ、金色の鉢巻、腰帯は貝の口。手には舞扇子が光っていた。
「今夜は特別。異世界八木節ナイト!踊れば心の塩抜きができるわよ。踊る?焼く?それとも両方?」
千田さんは手をぱんぱんと叩くと、どこからともなく音楽が響き始めた。
「それでは皆様あああ!今夜限りの八木節ナイトへようこそおお!!踊って、歌って、餅ついて、最後は鮭の塩焼き振る舞いますう!!!」
それが、千田さんとの出会いだった。
気がつけば、庭には異世界の住人らしき観客たちが現れていた。空を舞うイカ型妖精、手拍子をする三つ目の子ども、拍手を送る料理用スプーンの精霊たち。
「え、え?これ、夢?幻覚?」
五十嵐は目をこすったが、光景は変わらない。むしろ、どんどん賑やかになっていく。
派手な動きと変幻自在なステップ。袖から出てくる「飾り団子」、頭に乗った「フライパン笠」。八木節のリズムに合わせて、会場中を軽やかに踊りまくる千田さん。
「そうかいなっソー!ヤンチキどっこいしょー!」
千田さんの華麗な舞踊に、観客たちは大盛り上がりだった。
「お嬢さん!人生に失敗はあっても、味見に失敗はないよ!踊ってみて!塩気がわかるからね!」
「は、はい?!」
そう言って千田さんは、五十嵐を無理やり舞台へと引き上げた。
「ちょっと、私踊れませんよ!」
「大丈夫、心に従って動けばいいの!」
気づけば五十嵐は、太鼓のリズムに引き込まれていた。なんというか踊るというよりは、魔法にかけられたような、体が自然に調味されていく感覚だった。心の重荷が、音楽と共に少しずつ軽くなっていく。
「ほら!もっと腰を利かせて!そこは火加減!焦げるわよ!」
「火加減!?」
「人生はね、焦がすくらいじゃないと香ばしくないのよ!」
ドン・ドン・カッ! ドン・カッ・ドドン!
五十嵐は無我夢中で踊った。完璧でなくてもいい、上手でなくてもいい。ただ、音楽に身を任せて動くだけ。そんな単純なことが、こんなにも心地よいなんて。
観客たちも一緒に踊り始めた。イカ型妖精はくるくると宙を舞い、三つ目の子どもはリズムに合わせて跳ね回り、スプーンの精霊たちは美しいハーモニーを奏でる。
「そうそう!いい感じよ!」
千田さんが励ましの声をかけてくれる。五十嵐は久しぶりに、心から楽しいと思えた。
踊りが終わった頃、千田さんは小さな七輪で鮭を焼き始めた。鼻をくすぐる香りが夜風に溶け、五十嵐の胃袋だけでなく、心の奥もじわりと満たしていく。
「この香り……」
五十嵐は驚いた。レストランで使う高級な調理器具でもなく、複雑な調味料でもない。ただの七輪と塩だけなのに、こんなに食欲をそそる匂いがするなんて。
「料理って、技術だけじゃないのよ」
千田さんが鮭をひっくり返しながら言った。
「心を込めること。誰かのことを思いながら作ること。それが一番大事な調味料なの」
鮭が焼き上がると、千田さんはそれを小皿に乗せて五十嵐に差し出した。
「あなた、いい動きしてたわ。中はふっくら、表面はカリッとしてて、まるで焼き鮭のようだった」
そう言って渡された一切れの鮭は、彼女がこれまで味わったどんな高級料理よりも、やさしく、そして泣きたくなるほど美味しかった。
技術も大事だが、心を込めることの大切さを思い出させてくれる味だった。シンプルだけど、愛情がたっぷりと込められている。
「美味しい……」
五十嵐は涙がこぼれそうになった。
「どうして、どうしてこんなに美味しいんですか?」
「秘密は愛情よ。それから、楽しい気持ち。あなたも今、踊って楽しかったでしょう?その気持ちが味に出るの」
千田さんの言葉に、五十嵐ははっとした。確かに、踊った後の心地よい疲労感と、久しぶりに感じた解放感が、味覚を研ぎ澄ませているようだった。
観客たちも鮭をもらって、みんなで楽しく食べた。イカ型妖精は「ぷるぷる〜♪」と喜び、三つ目の子どもは「美味しいー!」と叫び、スプーンの精霊たちは「これぞ究極の塩焼き!」と絶賛した。
「また、来てもいいですか?」
五十嵐が恐る恐る尋ねると、千田さんは優しく微笑んだ。
「もちろんよ。家はいつでも開いてるわ。八木節か料理か選びなさい。あ、選ばなくていいか。どっちもやればいいわね、あなたの味付けで」
その夜、五十嵐は初めて心から安らかに眠ることができた。
翌日からも、五十嵐は千田さん家に通うようになった。昼間はレストランで修行し、夜は千田さんから料理の心得を学んだ。
「料理は愛よ」
千田さんはいつもそう言った。
「技術は後からついてくるもの。まずは、作る喜びを思い出しなさい」
千田さんの教えは、料理の技術だけでなく、人生の哲学でもあった。完璧を求めすぎて苦しんでいた五十嵐にとって、それは救いの言葉だった。
八木節も教わった。最初は恥ずかしがっていた五十嵐だったが、踊ることで心が軽やかになることを覚えた。
「そうかいなっソー、ハッハ愛情!ヤンチキどっこいしょー、ハッハ笑顔!」
千田さんと一緒に踊りながら、五十嵐は少しずつ本来の自分を取り戻していった。
それから十年後、五十嵐麗香は。
異世界で鮭を焼きながら、誰かの心を溶かす料理人になっていた。
千田界グルメ選手権で瑠散と同点優勝を果たした彼女は、今では「銀の包丁魔女」として知られている。その技術は「静の炎」と呼ばれ、完璧でありながらも温かみのある料理を作る。
「食べる前から料理は始まっている」
これが彼女の決め台詞だが、その根底には千田さんから学んだ「愛情こそが最高の調味料」という教えがある。
あの夜の八木節が、彼女の人生を変えた。技術だけでなく、心を込めることの大切さを教えてくれた千田さんに、五十嵐は今でも感謝している。
時々、千田さん家を訪れて、一緒に八木節を踊ることもある。その時の五十嵐は、普段のクールな表情とは打って変わって、子どものように楽しそうに笑うのだった。
「五十嵐さん、今度は鮭以外の料理も教えてくださいね」
瑠散がそう言うと、五十嵐さんは微笑んで答えた。
「もちろん。でも、まずは八木節から始めましょうか。心が軽やかになれば、自然と美味しい料理が作れるようになるものよ」
千田界の夜空に、今夜も八木節の音色が響いている。
踊って、笑って、美味しいものを食べてそんな単純で幸せな時間が、千田界には溢れていた。
五十嵐麗香の物語は、まだまだ続いていく。千田さんから学んだ愛情の料理と、八木節の心で。