10話 千田界大戦
千田邸、ご近所の誰もが「ちょっと立派すぎない?」とひそひそ噂する豪邸。けれどその重厚な門をくぐった者だけが知る、門の向こうに広がる異世界千田界の真の姿。
今日は朝から、庭の剪定バサミが軽快な音を鳴らしていた。戻ってきたばかりのとーちゃんが、植木を整えているのだ。かつて八木節の練習中の魔法事故で犬(=オヤジさん)にされていた千田さんの夫である。
「やっぱり人間の体はいいな。手が使えるってのは素晴らしい」
とーちゃんは剪定バサミを握りながら、しみじみとつぶやいた。十年ぶりに戻った人間の体に、まだ慣れていない様子だ。
そのとき、門の前に一人の女性が現れた。
折茂さん謎の女性、年齢不詳、笑うと花が咲き、怒ると風が吹くという噂の持ち主。普段は普通の(?)主婦として近所に住んでいるが、その正体は千田界の出身者である。いつものように白いレースの日傘を差していた。
「やっぱり戻ってたのね、とーちゃん。おめでとう」
彼女はどこからともなく取り出した日傘をくるくる回しながら、ニッコリ笑った。その笑顔には、どこか懐かしさが込められている。
とーちゃんは手を止め、バツが悪そうに頭をかいた。
「お、おう。なんだかんだで、な」
「いやぁ、まあ……犬の頃もけっこう楽しかったけどな。植木の手入れは変わらずできたし」
とつぶやいた。実際、オヤジさん時代も庭は完璧に手入れされていた。
折茂さんは庭を見回し、ニコリと笑った。しかし、その目には少し心配そうな色が浮かんでいる。
「庭の魔力、まだ不安定ね……ツタが動くわよ?」
まさにその瞬間、千田邸の裏手からドォン!と不穏な音が鳴った。
地面がぐらりと揺れ、異界のツタが地面を割って現れた。千田邸の裏手にある、まだ手入れされていない荒れ地から、ぶわっ!と音を立てて、巨大なツタが天へと伸びた。
「またか……!」
以前、千田界の地脈をいじくり回した精進料理作る団のせいで、異界の草木が暴走し始めていたのだ。彼らが封印を解いた影響で、千田界のバランスが崩れてしまったのである。
「千田邸の庭は、千田界の一部なのよ」
と折茂さんがさらりと説明する。
「ほら、魔力が満ちてきた。千田さん、出番よ」
千田さんが庭の中にすっと立つと、空気が変わった。ローブを脱ぎ捨て、手早く着替えたのは、見事な八木節衣装!太鼓の音がどこからともなく響き、千田さんの足元に魔法陣が浮かぶ。
「いーやそうだ ヤンチキどっこいしょー!」
「八木節魔法・式一番!舞踏の刃!」
舞うように踊りながら、扇子で空を切るたびに風が生まれ、ツタが次々と斬られていく。千田さんの八木節は、まさに戦闘用舞踊だった。
「こっちもやるぞ!」
とーちゃんの手元で剪定バサミが輝き、地面から一斉に木々が応えるように立ち上がる。枝が剣のように伸び、ツタと真っ向からぶつかりあった。
「植木ってのはな、言葉じゃなくて剪定で語るんだよ!」
「はあー、ハッハッ ヤンチキどっこいしょー!」
千田さんの舞に、とーちゃんの枝剣が呼応する。リズムと魔力が交わり、庭全体が一つの踊る精霊のように動き出した。
「奥義!八木節植木剣舞!」
爆音と共に、ツタの心臓部が斬り裂かれ、周囲の空気が一気に澄み渡った。
「ふぅ……」
とーちゃんが額の汗をぬぐうと、庭の木々がざわりと風に揺れた。まるで「おかえり」と言っているかのように。
折茂さんがぱちぱちと拍手を送る。
「まるでミュージカルみたいでしたね。八木節でツタを倒すなんて、どこの庭芸術祭かしら?」
千田さんはふっと笑って、ローブからまたお団子を取り出した(どこから出したのかは、やはり誰も聞かなかった)。
折茂さんはいつものように白く細やかなレースの日傘をくるくると回していた。
「ここも、昔とくらべ静かになったわねえ」
その言葉に、千田さんととーちゃんが顔を見合わせる。この地の十年前、千田界を揺るがす大戦があったことを、彼らは忘れていなかった。
あれは十年前の春のこと千田界は、油揚げ評議会のクーデターによって分裂寸前だった。
反乱軍は「焼き文化」を否定し、「全ては蒸しの時代」と主張。その中心にいたのが、黒いフードに包まれた蒸し主義者たちだった。彼らは「味気なき者」と呼ばれた。
「蒸し料理こそが至高!焼くなんて野蛮な調理法は時代遅れだ!」
彼らは千田界の各地で蒸し器を設置し、焼き物文化を根絶やしにしようとしていた。
千田界の要所・出汁の泉を制圧されたとき、立ち上がったのが、
八木節魔法舞傘・折茂
八木節魔法の正当継承者・千田
剪定の戦士・とーちゃん
彼ら三人だった。
当時の折茂は、今よりもさらにしなやかで、その目には雷のような知恵が宿っていた。
戦場で、折茂はそっと舞傘を開く。パチンという音と共に、傘の内側に燃えるような文様が浮かび上がった。
「術式・舞傘転陣全火転写!」
その瞬間、傘の骨から迸ったのは、赤金色の炎。空が割れ、火の龍がうねるように天へ舞い上がる。
「焼きの底力、見せてあげるわ!」
燃え盛る傘が彼女の周囲を巡り、敵軍の鍋蓋を吹き飛ばし、蒸気を炎で浄化していく。まさに火の女神の如き戦いぶりだった。
「さあて、出番かねえ!」
「いーやそうだ いやそうだ、ヤンチキどっこいしょー!」
千田さんは戦場で舞った。八木節のリズムが雷鼓となり、敵の鼓膜を揺らす。一拍ごとに空間がひずみ、敵の蒸し器が爆発した。
「八木節は愛と平和の踊りよ!でも邪魔する者は容赦しないわ!」
一方とーちゃんは、斬る。枝を操り、ツタを制し、蒸し軍の作る蒸し野菜の壁をばっさばっさと切り崩す。
「おれの剪定は、景観整備じゃない。整えることで戦うんだよ!」
剪定バサミが光ると、大地から巨大な樹木が生えて敵を吹き飛ばす。まさに自然の力を操る戦士だった。
三人の連携で、ついに蒸し魔王・ミストシェフを打ち倒した。
「ぐあああ!焼き文化め……まだ終わらんぞ……」
ミストシェフは蒸気となって消えていったが、その言葉には不気味な響きがあった。
千田界は焼き文化を守り抜き、焼き鮭も、焼きおにぎりも、焼きナスも無事に人々の食卓へ戻ってきた。
それから十年。折茂さんは千田界を出て、主婦としての生活を始めた。けれど今でも、日傘の内側には炎の印がかすかに輝いている。
「……また来るわよ、味の無い時代が。そのときはまた、私たち三人で戦いましょうね。千田さん、とーちゃん」
折茂さんが何もかも知っている目で、そっとつぶやく。
千田さんが笑う。「もちろんよ!八木節がある限り、千田界は不滅よ!」
とーちゃんが庭の剪定ばさみを肩に乗せ、にやり。「剪定はいつだって本番さ。庭も、平和も、ちゃんと手入れが必要だからな」
三人の笑い声が庭に響く。平和な午後だが、いつでも戦える準備はできている。
千田界の平和は、この三人の友情と、決して折れない心によって守られているのだった。
そして遠くから、瑠散の「今日の鮭、うまく焼けました!」という声が聞こえてくる。
「あら、瑠散くん。今度は私たちの武勇伝も教えてあげなきゃね」
「そうですね。でも八木節の練習から始めましょうか」
「おい、今度は魔法と混ぜるなよ」
「分かってるわよー」
千田界は今日も平和で、少し騒がしく、とても温かい世界だった。
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