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1話 焼き鮭召喚

 異世界召喚といえば勇者や聖女が魔王との壮大な戦いで涙と血にまみれた冒険というのが定番だが。

 時には千田(ちだ)さん()のように「歩いて五分」という散歩感覚のアクセス距離で異世界がある。

 しかも召喚理由が「鮭がうまく焼けない」という、およそ勇者らしからぬ理由だったりするのだ。命がけの冒険?最大の敵は焦げた鮭の皮である。



 鳥内瑠散(とりうち るちる)がその日、少し焦げた鮭の切り身を皿にのせてため息をついたのが、全ての始まりだった。


 台所には煙がもくもくと立ち込め、換気扇が悲鳴のように回っている。コンロの周りは油と魚の欠片でカオス状態だ。


「また焦げた……!どうしてだよ、もう……」


 母は仕事で不在。妹の実散(みちる)はテスト勉強中で構ってくれない。「お兄ちゃん、また何か焦がしてる〜」という冷たい声が二階から聞こえてくる始末。コンビニ弁当にはもう飽きた瑠散は、己の手で夕飯を作ろうと奮起したのだったが、結果は炭色の魚の残骸である。


 火加減が分からない。タイミングも分からない。なぜ料理というものは、こんなにも奥が深いのか。瑠散(るちる)は黒焦げの鮭を見つめながら、自分の料理センスを呪った。


 そこへ、玄関のチャイムが鳴った。ピンポーン、と軽やかに。


「誰だよ、こんな時間に」


 扉を開けると、そこには隣に住む千田(ちだ)さんが立っていた。いつものカーディガン姿ではなく、なぜか今日は金色のローブを羽織り、手には立派な杖を持っていた。どう見ても魔法使いである。帽子まで被っている。完璧なコスプレだ。


「あなた、(さけ)がうまく焼けないんですってね?」


 第一声がそれだった。


「え、ええと……はい?」


 なぜ知っている。窓でも開けていたのだろうか。確かに煙は結構出ていたが、まさかそれで。


「なら、うちに来なさい。異世界に召喚してあげるわ」


 千田さんは杖をくるりと回しながら、まったく悪気のない笑顔でそう言った。


 普通なら、変なおばさんの妄言で終わるところだろう。しかし、千田(ちだ)さんの(いえ)はこの辺ではちょっと見ない豪邸だ。門構えからして違うし、庭も広い。しかも昔から奇妙な噂があった。夜中に屋根の上で猫が空中浮遊しているとか、ポストから火が出たとか、二階の窓から覗いていたのが人間じゃなかったとか。母も「あの家は不思議よね」と言っていたし、近所でも有名な謎屋敷だった。


 要するに、千田(ちだ)さん()は昔からちょっとおかしい。


 そして何より、瑠散は鮭に絶望していた。もう何も失うものはない。


「行きます」


 こうして、彼はスリッパのまま、異世界に向かうこととなった。


 千田さん家の敷地は思っていた以上に広く、裏庭には見たこともない植物が生い茂っていた。紫色の花をつけた木や、光る苔のようなものまである。そして裏口は、やけに重厚な扉だった。


「さあ、入って」


 千田さんが扉を開けると、そこは——魔法の広間だった。


 天井が異様に高い。宙に浮かぶシャンデリア、うねうねと踊る絨毯、口を利く植木鉢が「ようこそいらっしゃいました」と丁寧にお辞儀をして彼を歓迎する。壁には動く絵画がかかっており、そこに描かれた貴族らしき人物が手を振っている。


「ここ、普通に異世界じゃん……!」


 瑠散は口をあんぐりと開けた。リビングなのに、リビングじゃない。ソファも浮いているし、テーブルも勝手に位置を変えている。


 千田さんは杖を床にトンと突いて言った。


「ここは千田界(ちだかい)。私が築いた異世界よ。鮭が上手に焼けるようになるまで、少し修行してもらいますからね」


「焼き魚の修行で異世界召喚!?」


「そうよ。大丈夫、歩いて五分で帰れるから」


 そんな気軽な異世界があるか。


 だが、それは序の口だった。


 リビングの奥には、下に続く螺旋階段があった。千田さんは「こっちよ」と手招きしながら降りていく。階段を下りると、そこには本格的なダンジョンが広がっていた。石造りの通路、松明が燃える壁、どこからか聞こえてくる不思議な音楽。


「地下には迷宮があるの。火の塔、海のエリア、空中庭園、それから街並みまで。トーキョードーム136個分の広さがあるのよ」


「規模がでかすぎる!!」


「鮭の焼き加減を司る火の守護者が、火の塔に棲んでいるの。そこで修行すれば、きっと上手に焼けるようになるわ」


 天井からぷかりと浮いてきたのは、見慣れた家電製品だった。トースターである。しかし、よく見ると目玉がついている。感情豊かな目玉が。


「また新しい召喚者か……僕の名前はトトス。浮遊トースター兼焼き加減アドバイザーだ」


「トースターがしゃべってる……」


「君の焼き鮭を見せてもらったが、ひどいものだった。表面だけ焦げて、中は生焼け。火加減というものを全く理解していない」


 トトスは明らかに疲れた表情を浮かべながら言った。


「僕は焼き加減にはうるさいんだ。でも最近の召喚者たちときたら……ああ、情緒が不安定になってしまう」


 千田さんは「トトスはちょっと神経質なの」と苦笑いを浮かべた。


「でも安心して。心配になったり疲れたりしたら、いつでも裏口から帰れるから。ただし——」


「ただし?」


「焼き魚が焦げていたら、また召喚されるという呪い付きよ」


 瑠散は青ざめた。これは思った以上に本格的な縛りプレイである。


 それでも、千田さんの優しい笑顔と、「大丈夫よ、みんなで手伝うから」という言葉に、なんとなく安心感を覚えた。


 異世界千田界に来て三日目、鳥内瑠散は焦げない鮭の焼き方を学ぶどころか、火の精霊に追いかけられ、踊る絨毯に飲み込まれそうになり、トースターのトトスと口論していた。


「俺はただ、表面がパリッとして中がふっくらの鮭を焼きたいだけなんだよ!!」


「それが一番難しいんじゃああああ!!!」


 と、叫んだのは浮遊トースターのトトスである。彼は明らかに疲れていた。精神的に。目玉がくるくると回っている。


「火加減は繊細なんだ!強すぎれば焦げる、弱すぎれば生焼け!タイミングを見極めるんだ!感覚で!感覚で覚えるんだああああ!」


「感覚って言われても分からないよ!」


「だから僕の情緒が不安定になるんだ!ああああ!」


 トトスはふらふらと宙を漂いながら、「もうだめだ、僕はただのトースターに戻りたい」と呟いている。


 千田さんは「まあまあ」と言いながら、トトスの頭(?)を優しく撫でた。


「落ち着いて。お茶でも飲みましょ」


「僕はトースターだから飲み物は無理だよぉ……」


 なんだか可愛らしい光景だった。


 そんな中、瑠散はふと思った。確かに異世界は不思議で、住人たちも変わっているけれど、みんなとても親切で温かい。これなら、きっと鮭を焼くコツも掴めるかもしれない。


「よし、もう一回挑戦してみます!」


「その意気よ!」千田さんが拍手をした。


「千田界では、料理も冒険の一つなの。楽しみながらやりましょう」


 こうして、瑠散の本格的な鮭修行が始まった。歩いて五分の異世界で、焼き鮭のために。それはきっと、これからの素晴らしい冒険が始まりだった。

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