記憶を失ったら、氷の騎士団長が妙に優しくなりました
6日間短編毎日投稿2作目です
薬草の匂いで目が覚めた。天井は白く、窓は高い。指を動かすと、包帯がこすれる音がした。
自分のことは、ほとんど何も思い出せなかった。けれど、名前だけは口にできる。
「……リラ。私は、リラ」
扉が静かに開いて、背の高い男が入ってきた。短く整えた灰銀の髪、薄い灰色の目。無表情と言われたら納得する顔つきなのに、歩みは驚くほど静かで、ベッド脇に立つときの距離がやけに近い。
「目が覚めたか」
「あなたは?」
「オリヴェル。王国騎士団の団長だ」
噂で“氷”と呼ばれる人だと、後で聞いた。今の彼は氷というより、冷たい水。熱に触れたところから、少しずつ溶ける。
「痛むところは?」
「少し、頭が重いです」
「寝返りは打てるか。背中は俺が支える」
肩に回された手は大きく、皮手袋越しでも手のひらの固さが伝わった。私は身を起こし、息を整える。彼は枕の位置を直し、カップを唇まで運んだ。口元までくる指先が、近い。
「魔獣討伐の帰り、お前は倒れた。高熱と、頭部の打撲。命は拾ったが、記憶が抜け落ちたらしい」
「……私が、騎士なのですか?」
「違う。お前は医務の補助をしていた。戦場の後始末は、騎士より医務のほうが忙しい」
そう言って、彼は私の手を包んだ。距離の取り方がわからない。けれど、不思議と怖くはなかった。
「しばらくはここで休め。医師の許可が出たら、少しずつ歩こう」
「はい」
「忘れていることは、俺が全部思い出させてやる」
彼はそう言って、薄く笑った。噂にある“氷”の顔ではない。けれど、その笑みはほんの少しだけ、私の知らない何かを含んでいる気がした。
数日は眠って、起きて、話して、また眠った。オリヴェルは忙しいはずなのに、時間を作っては顔を出した。食事の量を一緒に数え、歩数を一緒に数え、夜更けに熱が上がれば氷袋を替えた。距離は、常に近い。
侍医のナタリーは、淡々とした人だった。明るい茶髪を低く束ね、癖のない声で必要なことだけ言う。
「頭の傷は浅い。でも、記憶は気分と同じで波があるわ。焦らない」
「はい」
「団長は……まあ、珍しいくらい面倒見がいい。助かってる」
ナタリーはそこだけ少し笑い、すぐ真顔に戻った。私は笑い方を探すみたいに、口角を動かした。
歩けるようになると、オリヴェルは中庭まで付き添った。石畳の白が眩しい。端には薬草の畝が並び、風が触れるたびに葉が揺れる。
「何か覚えているものは?」
「匂いなら。焦げた毛、鉄、湿った土」
「戦の匂いだな」
「あと、誰かが私の名を呼ぶ声。……怒っていた。『無茶をするな』って」
「誰の声だ」
「わかりません」
オリヴェルは短く息を吐き、それから私の前髪に指先を触れた。癖のある黒髪。自分の髪がそうだと、私はここで初めて知った。
「散歩はここまでだ。疲れたろう」
「もう少しだけ」
「だめだ。約束しただろう、十数えたら部屋に戻るって」
子ども扱いみたいだと思って、笑いそうになった。十を数え終えると、彼はやはり背に手を添え、歩幅を合わせてくれた。近い、と思いながら、私はその温度に頼った。
彼が部屋を離れると、騎士たちが時々代わりに見舞いに来た。若い従騎士のユリウスは、そばかすだらけの顔で落ち着きがない。
「団長が笑うの、初めて見たんすよ」
「笑ってました?」
「はい。こわ……いえ、いや、よかったです」
彼は慌てて姿勢を正し、差し入れの干し果物を置いて逃げるように出ていった。軽い足音。私はそれを聞きながら、天井を見た。
夜、目が覚めた。静かだ。窓からの月明かりが、床に薄く伸びている。喉が渇き、水差しに手を伸ばすと、つけ根に薄い痛みが走った。手首に、細い跡がある。戒めのような、細い色。何の跡だろう。
翌朝、私はナタリーに訊ねた。
「この手首の跡は?」
「古い擦り傷ね。縄か紐か。——戦場では、いろんなことが起きるものよ」
さらりと言われると、それ以上聞けなかった。頭の奥で、何かがきしむ。私は息だけ深くした。
歩ける距離が伸びると、私は図書室にも通うようになった。文字は読めたし、数字も書けた。過去の自分が何者だったのかは、相変わらず霧の向こうだったけれど。
ある夕方、オリヴェルが私の前に一冊のノートを置いた。布張りの表紙に、私の名が薄く擦れている。
「お前の字だ。討伐隊の記録。覚えていなくても、手は覚えているかもしれない」
ページを開く。紙は薄く、端が少し焦げている。墨の匂いが懐かしいような、遠いような。
——三日目。北の峠。風向きが変わる。瘴気の匂い。前線、三列下げるべき。
——第五隊の隊長、オリヴェルと協議。判断は早い。言葉は少ない。
——「無茶はするな、リラ」。その声に腹を立てた。私は私の仕事をするだけだ。
私は指先で字をなぞった。自分の癖字は、見覚えがあるような、ないような。
「少し、思い出しました」
「何を」
「……私、あなたに腹を立てていたみたい」
「それはいつものことだ」
オリヴェルは淡々と答えた。私は顔を上げる。
「いつもの?」
「お前はよく走る。止めると怒る。その繰り返しだ」
「仲が悪かったのですか?」
「悪くはない。——俺のほうは」
最後だけ、彼の声は微かに揺れた。私は言葉を飲み込む。ノートの別のページに、短い走り書きがあるのが目に入った。私の字ではない。乱暴で、焦った線。
——北門に来るな。約束だ。来たら、俺はお前を止められない。
私は指先でそこを押さえた。心臓が、なぜか速く打つ。
「誰の字ですか、これ」
「……俺のだ」
「約束、破ったのは私ですか?」
「そうだ」
「どうして?」
「それを、思い出すのはお前だ」
彼はそれ以上は言わなかった。私はうなずくこともできず、ただノートを閉じた。
数日後、城下の市場へ短い外出を許された。護衛は二人。片方はユリウス、もう片方は長身の女騎士セシル。黒髪を短く切り、無駄がない。
「団長からの伝言。『疲れたらすぐ帰れ』以上」
「わかりました」
市場は賑やかで、焼いた蜂蜜の匂いが鼻をくすぐる。屋台の端で古い薬瓶を並べる老人が、私の顔を見て目を丸くした。
「嬢ちゃん、生きてたのか」
「私を知っているの?」
「ああ。峠でな、派手に血を流して……団長が担いで走った。あれは人の速さじゃなかった。背中から煙が上がるかと思った」
「団長が?」
「氷じゃねえ。あの時は火だったよ」
老人は笑い、代金をまけてくれた。私は礼を言い、護衛と足並みを揃える。ユリウスが、前を見たままぼそりと言った。
「団長、変わっちゃったんす」
「変わった?」
「前は、刀みたいな人だった。触ったら切れる。今は……その、鞘があるというか」
セシルが咳払いで遮った。「余計なことを言うな」
「すみません」
私はふと、指先を見た。手首の跡は薄い。けれど、消えない。誰かが、私を止めたのだろうか。私が、何かを止められなかったのだろうか。
帰り道、城壁の陰に、焼け焦げた跡が残っているのを見つけた。何の跡だろう。質問を飲み込む。言葉は簡単に、真実から逸れる。今はまだ、聞かない。
夜、私は夢を見た。走っている。霧の中、轡の音。誰かが私を抱き上げる。肩越しに見える空。冷たい声。
——無茶はするな。
目が覚めると、枕元にオリヴェルがいた。椅子に腰かけ、腕を組んで目を閉じている。眠ってはいない。私が目を開けるのを待っていたかのように、すぐに身を起こした。
「悪い夢か」
「いい夢かもしれません」
「どちらだ」
「どちらでも。……あなたがいました」
「それは、いい夢だ」
彼の声は低く、少し柔らかかった。
「明日、北門まで連れていってください」
「だめだ」
即答だった。私は驚いて彼を見た。
「どうして」
「俺がだめだと言ったからだ」
「子どもではありません」
「子ども扱いはしていない。……頼むから、今は俺のわがままを聞け」
その言い方は卑怯だった。私はためらって、うなずいた。
翌日、彼は代わりに訓練場へ連れて行った。騎士たちが剣を振るい、掛け声が乾いた空気に弾む。オリヴェルが隣に立つと、周囲の空気がぴんと張る。彼はやはり“氷”だった。けれど、その氷は私のほうへは刺さらない。
「剣は握れるか」
「握れます」
「俺の手に合わせろ」
柄を渡され、彼の手と重ねる。指の置き場所、力の入れどころ。角度。彼は淡々と教え、私は真似をする。動作は少しずつ滑らかになる。心は、少しずつ落ち着く。
「うまい」
「本当ですか」
「嘘は言わない」
短いやり取り。そこに余計な飾りはなく、息が合う。合ってしまう。私は怖くなった。
夕方、ナタリーが診察に来た。体温、脈、瞳の反応。いつもの手順。
「少しずつ戻っているわね。夢は?」
「断片的に」
「夢は嘘をつく。現実も嘘をつく。どちらも、はっきりする日が来るまでの仮置きよ」
「私は、何をしたのかしら」
「自分の仕事。人の血に手を突っ込む仕事。誇りにできる仕事よ」
短く言い切られると、泣きそうになる。私は唇を噛み、こらえた。
夜、廊下で小さな音がした。足音。私は扉を開け、覗いた。誰もいない。床に、紙切れが一枚落ちていた。拾い上げると、見覚えのある乱暴な字。
——北門に来るな。約束だ。来たら、俺はお前を止められない。
同じ文。ノートの走り書き。紙の端が、少し濡れている。雨か、汗か、それとも。
私は紙を握りしめた。心臓がうるさい。歩く。足音が自分のものではないみたいだ。気づけば、私は北門へ向かっていた。
夜気は冷たい。門の上では、見張りが槍を肩に置いている。石壁には古い焼け跡。私はそれに触れ、指を引いた。まだ熱が残っている気がした。あり得ないのに、そう感じた。
「リラ」
背後から呼ばれ、振り向く。オリヴェルが立っていた。月の光で、灰の目が薄く光る。
「だめだと言った」
「約束、破ったのは私でしょう。確かめたいの」
「何を」
「ここで、何があったのか」
沈黙。彼は私の横を通り、焼け跡の前に立った。右手をゆっくりかざす。火を思い出すみたいな仕草。
「魔獣は、ここまで来た。瘴気は風で押し戻せたが、群れの核が突破した。お前は北門の外で、負傷者の処置をしていた。俺は退却を命じたが、お前は残った」
「私が、残った」
「そうだ。俺は怒鳴った。無茶はするな、と。お前は、怒った」
「……よくやることだそうね」
「お前は大丈夫だ。そう言って、血の海に踏み込んだ。それで、倒れた」
彼の声はふと途切れた。私は言葉を待つ。
「俺は——」
彼は拳を握り、言葉を切ったまま、しばらく動かなかった。やがて、低く続けた。
「俺は何も間に合わなかった。だから、担いで走った。背中が焼けても構わずに」
「私を?」
「ああ」
その答えは、嘘に聞こえなかった。けれど、真実そのものにも聞こえなかった。私は焼け跡に手を当て、目を閉じる。胸の奥がじりじりする。
「私の手首の跡は?」
「俺が縛った」
「どうして」
「止めないと、お前はまた走るから」
「……そんなこと、する権利があなたにある?」
「ない」
即答。私は驚いて彼を見る。彼は月の下で、淡々とした顔をしていた。
「ない。だから、謝る」
「謝られても、跡は残るわ」
「ああ。俺は下手だ」
彼の落ちた声を、私は受け止められなかった。逃げたいのか、近づきたいのか、自分でもわからない。
「——もう戻ろう」
「待って」
私は彼の袖を掴んだ。彼は止まった。距離が、また近い。私は聞いた。
「私たちは、どういう関係だったの?」
彼は目を見ず、少しだけ視線を落とした。
「俺は、お前を部下として扱った。お前は、俺を上官として扱った」
「それだけ?」
「それ以上でも、それ以下でもない」
それなら、どうして今のあなたはこんなに近いの、と喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。彼の表情のどこかに、答えがある気がした。けれど、それは今はまだ、知らないふりをしたい答えだった。
部屋へ戻る途中、オリヴェルは歩幅を合わせた。手は出さない。距離は、半歩だけ空いた。
「思い出したいか」
「わかりません」
「俺は——」
彼は言いかけて、首を振った。
「忘れていていいこともある」
「私にとって、どっち?」
「それを決めるのはお前だ」
自分で決めろと言われるのは、少しだけ嬉しかった。私はうなずき、扉の前で彼に礼をする。
「おやすみなさい、団長」
「おやすみ」
扉が閉まる。静けさの中で、心臓が落ち着くのを待つ。窓の外で、風が薬草の葉を鳴らした。
翌朝から、私は少しずつ仕事へ戻った。薬草を刻み、包帯を巻き、熱の上がった兵の額を拭く。手は覚えている。身体は、意外と正直だ。時々、断片が浮かぶ。ユリウスが槍を落として私が笑ったこと。ナタリーに叱られて黙って頷いたこと。オリヴェルに「帰れ」と言われて反射的に反論したこと。
夕方、オリヴェルが扉のところに立っていた。騎士の礼装ではなく、簡素な上着。肩の線が少し落ちている。彼は躊躇するみたいに間を置き、それから言った。
「リラ。……城外の森に、まだ掃討していない影が残っている。俺が行く。お前は来るな」
「来ません」
「珍しいな」
「学びました」
彼は薄く笑った。私が笑い返せるくらいの、薄さ。
「帰ってきますか」
「必ず」
「嘘は言わない人でしょう」
「ああ」
「じゃあ、待っています」
彼はうなずき、踵を返した。背中が遠ざかる。私は指先をぎゅっと握り、離した。
その夜、また夢を見た。走っている。霧。肩。冷たい声。
——無茶はするな。
目が覚めると、窓の外は白んでいた。扉がノックされ、ユリウスが顔を出す。
「団長、帰還しました!」
息が詰まって、すぐに戻った。中庭。オリヴェルは血の匂いを少し連れていたが、歩いていた。まっすぐにこちらへ来て、立ち止まる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
それだけ。背中のどこかが緩む。彼は安心したように目を細め、すぐ仕事の指示へ戻っていった。私はそれを見送る。不思議と、胸は静かだった。
数日後、城の鐘楼で風を受けていると、オリヴェルが上ってきた。足音は静かで、階段のきしみで彼だとわかった。
「高いところは平気か」
「平気です」
城下が小さく見える。屋根が赤く、道が糸みたい。私たちは並んで風を受けた。言葉は少ない。
「記憶はどうだ」
「混ざっています」
「混ざっているなら、今のを優先しろ」
「今の?」
「お前が、笑っていること」
私は気づかないうちに笑っていたらしい。風に髪が揺れる。彼は視線でそれを追い、ふと目を伏せた。
「……俺は、変わったらしい」
「みんなが言ってます」
「氷だと思っていたら、違ったと?」
「鞘がついた、と」
「誰の言葉だ」
「ユリウス」
「減給だ」
「やめてあげて」
私が慌てると、彼は本当に珍しく、肩で小さく笑った。
「冗談だ」
「団長も冗談を言うんですね」
「必要なら」
沈黙。私はひとつ決めて、口を開いた。
「団長。……私に何か隠していることがあるなら、今は言わないでください」
「どうして」
「今は、今の私が選びたいから。思い出した私じゃなくて」
彼はしばらく私を見つめ、それからわずかにうなずいた。風が二人の間を抜ける。
「わかった」
「ありがとうございます」
「ただ、一つだけ言う」
彼は一歩だけ近づいた。距離が、またやけに近い。私は逃げなかった。彼の声は低く、落ち着いていた。
「忘れていても、覚えていても、どちらでもいい。どちらでも、お前は俺の側にいる」
「それは命令ですか」
「願望だ。——そして、祈りだ」
祈りという言葉が似合わない人だと思って、私は目を伏せた。胸の内で、何かが柔らかくほどける。恋と言うには早いし、友情と言うには近すぎる。その間に、今は立っていたい。
夕暮れ、私たちは鐘楼を降りた。中庭の薬草が影を伸ばし、石畳の白が薄く色を変える。階段の踊り場で、彼はふと足を止めた。私のほうへ体を傾け、耳元で低く囁く。
「——お前は俺のものだ」
返事はしなかった。する言葉を、まだ持っていない。けれど、拒むための言葉もまた、今の私にはなかった。胸の奥で、鐘が一度だけ鳴る。秘密の音色。私はそれを胸にしまい、彼と並んで、静かな夜へ降りていった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
次回も同様に明日20時投稿予定です。
夏のホラー2025の短編小説も同時に投稿しましたので、興味がありましたらご覧ください。
タイトル《桟橋で手を振る子ども》
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