小さな一歩
辛くても、痛くても朝は来るし、時間がたてば夜の帳が下りる。それはどこへ行っても、どこの世界でも同じだ。
そして、おなかは減る。
「…おはよう」
「うっわ…」
「……おはよう、ユウキ。制服、似合っているよ」
「2人も似合ってるね」
男子寮と女子寮の中間にはカフェテリアがある。ビュッフェ形式の食事は食べ盛りの子供たちに有難いが、料理人たちは朝から大忙しだろう。
この黒の国に来て、まともに食事をとるのはこれが初めてとなる。
トロトロとしたスープに、色とりどりの野菜とフルーツ。真っ白なパンに挟まれたローストビーフのような肉のサンドウィッチ。仔犬のことも話しが通っているのか、彼のご飯も渡された。
食堂の中ではなく、庭園が見えるテラス席に腰かけていたリオたちを見つけ、食事を共にする。
リノが驚き、という名の失礼な声を発したのは、夕貴の目が腫れていたからだ。いかにも“泣き明かしました”と言わんばかりに。
それを指摘しないのは優しさか、他にも多くの者が同じ目をしていた為か。
「おいしい。ツキもおいしい?」
「ワッフ!」
「ツキ?」
「名前決めたのかい?」
「うん。昨日の夜やっとね。この子に会った日…2人に会った日でもあるけど、あの日も昨日も綺麗に月が見えてたんだ。ひねりがないかもしれないけどね」
2人の反応が気になるが、名前を付けるというちょっと特別なことをしたことが恥ずかしく、顔を上げずにご飯を食べる。
そんなユウキをリオもリノも微笑ましく見ていた。
ユウキは2人が何も言わないのを有り難く思い、顔の周りにご飯をくっつけ、勢いよく食べているツキに安心する。中央街に来るまでの道中はまともにご飯を食べさせてあげられなかったのだ。
そして、昨日は5日ぶりの入浴と着替え、真夏ではなかったので、それほど汗はかかなかったが、森の中を進み泥ははね、煤で汚れていたので、とてもお風呂が気持ちよかった。
泣いたまま寝てしまったので、変な格好だったが、それでも地面ではなくベッドの上で寝たおかげで体が楽になった。ツキも一緒に洗ったので黒い毛が艶々と輝いている。
夕貴は学園に来るまでの5日間格好なんて気にしていなかった、というよりも気にする余裕なんてなかったが、やはり着替えるとスッキリする。
ハイウエストのフレアスカートは腰から裾まで飾りボタンで留めてあり、裾にはレースが施されている。シャツとネクタイは男子用の制服と変わらないが、ブーツはヒールが3センチほどあり後ろで編みこまれている。
可愛らしい制服目当てで学校を決める女子もいるのだから、この世界も制服にはこだわりがあるのかもしれない、と普段パンツスタイルを好む夕貴が選ぶことはない可愛らしい恰好で、少しばかり落ち着かない。
「この後、何の話しがあるんだろう」
「昨日もらった用紙を見る限り、授業の説明とかじゃないかな」
「…文字、勉強しなきゃ」
朝食に向けていた視線を、空に変え、夕貴が「あー」と声を出す。
文字が読めないのは目下最大の問題だ。
「そんなに気を落とさないで。授業の話し以外だと…学園の外の説明だって。許可を取れば露店街もいけるみたいだよ」
「外?…お金もないのに、外に出たってやることないよ」
「確かに」
気落ちしている年下二人に苦笑し、リオは紅茶を一口飲む。
黒の森は作物の栽培は盛んで、中でもお茶やハーブは国随一と言われるほどだった。森の恵みと人々の手が育んできたものだ。
学園のお茶やハーブも黒の森が産地らしく、まだ一週間ほどしか経っていないのに、懐かしく感じるのか、リオは口元に笑みを浮かべている。
「リオ、授業って何があるの?」
「昨日も言った通り、まずは言語授業。それに歴史、算術、馬術、第一体術…鉱石術は男女ともに必須だね。女子は裁縫とかもあるみたいだし、男子は剣術が必須科目だ。選択科目で女子も軽く運動する第一体術とは別に本格的な体術とか武術、剣術とかを選べるみたいだし、学年が上がる毎に選択科目も増えるみたいだよ」
「裁縫とか無理。縫えない。まっすぐ切れない。…体動かしたい」
「ははっ。黒の森の子供たちは体を動かす方が得意だもんな」
「うん」
この手の話題で嘘をつくことには慣れてきた。心苦しいが、説明が難しいのだから、言わない方がいい。
言語はありがたいが、歴史は日本史も世界史も苦手だったし、算術はきっと数学のようなものだろう。馬術や体術は体育と思えばいい。裁縫は家庭科だ。鉱石術は見当もつかない。
「部屋ってリオとリノは同じだったの?」
「いや、みんな一人部屋みたいだ。あくまでも俺たちの棟は、だけどね」
「?」
夕貴が首を傾げていると、カフェテリアが一層騒がしくなる。
「彼らは二人部屋とかじゃないかな。侍女や貴族同士の付き合いもあるだろうしね」
「ふーん」
食堂の騒めきは、この学園の生徒が出てきたからだ。制服は同じだが、身のこなしが洗練されていて、良い育ちだとうかがえる。
昨日到着した黒の森の子供たちが、急に大人しく居心地悪そうにソワソワし始めた。
「…剣術は難しいかな。体術か武術にしようかな」
「え?お前、そっち選ぶの?」
「なに、剣術の方が向いてそう?」
「いや、そうじゃなくて」
夕貴が手をグーパー、グーパーしながら、リオの持っていた用紙を覗き込んで唸っていると、夕貴の発言にリノは目を丸くして驚く。
「私、運動神経悪そうに見える?」
「そういう意味じゃなくて…!兄さん」
「ユウキ。リノはケガするんじゃないかって心配してるんだよ。素直に言えないけど」
「そっか。心配してくれてるのか、ありがとう」
「そんなんじゃねーよ!」と顔を赤くして叫ぶリノの声を無視して、残った紅茶を飲みほした夕貴は、後ろから感じる視線に顔をわずかに振り返り、様子を伺う。
視界には黒の森から来た子供たちと、つい先ほどこの場に現れた生徒たち、あとは数名の大人のみだ。
夕貴を知る人間は、ここでは片手で足りるほどでしかない。“解る”くらいの視線なんて感じたことはなかったが、背中がピリピリする。
(あの子かな?)
ツキを膝上へ持ち上げる際に、チラリと見えた少女。顔の判別は無理だったが、はっきりとわかるのは、燃えるような赤い髪。
小学校の時も、男子と仲良くしていた時に今ほどではないにせよ、似た視線を受けたことがあるな、とふと思い出した。
恋愛感情抜きで、友達として遊んでいても年頃のせいかそうは見えないらしく、恋だ、なんだと色めき立つ女子にとっては面白くない存在だったらしい。
総じていえば…。
「女の子も大変だよね…」
「お前、女の自覚あったのか?」
「リノ!ユウキは可愛い女の子だろ?何か嫌なことでもあったのか?」
「ううん。大丈夫だよ、リオ。…リノ、今の言葉覚えておくからね…私が体術をマスターした暁にはどうなるか…ふふふ」
「怖えよ!お前!」
学園へ来てから早、2週間程経った。
今まで“生きる為”に勉強したことなぞなかった夕貴は、改めて自分が如何に恵まれた生活をしていたのか、突き付けられた。
決して、この国がダメなわけではないし、リオたち黒の森の人々が貧しいわけではない。ただ、安穏と暮らしてきた自分を少しばかり恥ずかしく思ったのだ。
しかし、だ。しかし、それと学んだ内容を頭の中に詰めていけるかどうかは別物なのだ。
日本語は英語などの外国語よりも使う文字数が多く、難しいと言われるが、母国語以外は難しいに決まっている。
平仮名?カタカナ?漢字?完璧には遠いが、困らない程度には使いこなせている。
しかし、黒の王国の、この世界の言葉は頭の中に入ってこない。
「…しゃべれるのに…聞き取れてるのに、読めない…書けない」
この2週間、言語の授業が終わるたびに、夕貴は頭を机にくっつけて、ブツブツと何かを言っている。
「…お前、他の授業は大丈夫なのに、本当に言語ダメだな。第一体術は優秀なんだろ?」
「褒められた。女子なのに、いい瞬発力だって、持久力もあるって…男女差別良くない」
「周りが貴族様だけなら解るけど、他も一緒だから、本当に褒められてるんだな」
机に突っ伏している夕貴の頭に、ツキは鼻をくっつけてぐりぐりと慰めている。ツキの鼻水が付いているが、慰めてくれているのだ。
小中学校でバレーボールをしていた為か、兄たちと外で遊び続けていた為か、体力は自信がある。リノの言っている貴族様…お嬢様たちは夕貴から言えば体育の授業にもついていくのが難しいのでは?というレベルだ。一緒にされたくないのが本音である。彼女たちと比べられて褒められたのか、リオの言う通り、普通に褒められているのか判断できないのが悔しいが、体を動かすのは好きなのだ。得意科目で好印象を持たれたのはこれからの励みになる。
「リノたちは剣術してるんだっけ?楽しい?」
「楽しい、と言えるほど扱っていない。まぁ、摸造剣でやってるしな」
「いいなぁ。私もしてみたい」
「選択科目に武術あっただろ?しないのか?」
「やりたいと言ったものの拳に自信はない。他に何かあったっけ?」
「ユウキ、武術は拳を使うだけじゃないんだよ?ほら、棒術とか、弓とかいろいろあるだろ?剣術以外はここに組み込まれてるよ」
「読めない」
始めにもらった説明用紙をリオが見せるが、なんて書いてあるか解らない。ここまで解らないと、何かの呪いではないかと考えてしまう。
「ツキ、これ読める?」
「ワッフゥ!」
「そっか、ツキが読めるなら私が読めなくても大丈夫か」
「大丈夫なはずないだろ?お前が大丈夫か?」
紙を見せれば、何やら楽しそうなツキが「任せろ」と言っているように見えて、夕貴は安心した顔をする。それを見て、今度はリノが本気で心配する顔を見せた。
「ユウキ、来週から街に出れるし、興味があることだったら覚えも早いはずだ。文字を理解できる材料を探しに行こうよ」
「リオが優しい」
今の自分に興味があることは何なのだろう。言語学で使っている幼児向け教材で躓いているような状態だ、街に出たところでこの問題を解決できる何かに出会えるものなのだろうか。
英語もだが、本当に他言語というのは難しい。
「ユウキ、次の授業が始まるよ。鉱石術は初めてだな…」
約3か月間、黒の森の子供たちは一緒の場所で学ぶ。時折、通常クラスと共に受けるが、基本はこの教室だ。
「鉱石…石か」
頭を机にくっつけたまま、胸元に下げている祖母からもらい受けた指輪を握りしめた。祖母との約束を破るつもりはなく、リオやリノにもこの指輪は見せていない。
見せたのはツキだけだ。
「鉱石なんて一般的なもんしか見たことないから楽しみだよなー。扱えたら、いろいろと楽しそうだ」
リノは本当に楽しみなのか、ツキを突っつきながら鼻歌を歌っている。唸り、噛みつこうとするツキだが、本気で噛もうとしていないのは解っているので、夕貴は止めることはしない。
喧嘩友達なのだろう。
「コンポジットとかアゲートとかはどこの家にもあるけど、他の鉱石はなかなか見る機会がないからな。ユウキは他の鉱物見たことあるのか?」
「…ない」
(コンポジットとアゲートが何かすら分かりません)
「だよなー」
言語の他にもこの世界の生活様式や常識を身につけないと、いつかぼろが出る。夕貴は胃が痛くなる、という気持ちを初めて知った。
黒の国があるこの世界の生活には“鉱石”が欠かせない。
鍋やフライパンの下に引いたり、風呂を沸かしたり、物質を温める為の赤い鉱物コンポジット、水をろ過するアゲート、前2つよりは少しばかり値が張るが、光源のカナリ―はどこの家庭にもある鉱物だ。
その他に鉱石自体が火を纏っていたり、傷口を塞いだり、風を起こしたり、と様々な鉱石がある。
数ある鉱石の中でも、各国に鎮座する“国石”ほど珍しく、力のある鉱石はない。どの国の国石が一番強いか、素晴らしいかはさほど問題ではない。各々の国の鉱物が一番だと、皆信じて疑わないからだ。
そして、どの国も国石が国王を決めるのだ。
「太古の昔、龍が空を翔け、天馬が地上で羽を休め、大地に生命の根が張り始めた頃、神々の山を中心にこの世界は7つに分かれた。赤、緑、青、黄、橙、白、そして我らが黒の国だ。初代王たちは大いなる7人と呼ばれ、良い国を統べよ、と王として天命を受けそれぞれ国と国石が贈られた。その国石を創る過程で神々の山から地脈を伝った神の力と自然の力が合わさり、鉱石は誕生した、と言われている。水・火・土・光・風の鉱石が多いのは、この世界の水が美しく、豊かな土壌と、それを包む地熱、優しく吹く風、燦々と照らす光に満ち溢れている為、この5つの鉱石は潤沢である。黒の国と白の国を絶つモース山には様々な鉱石が発掘されている。この学園にもモース山への扉があるが、許可書がないと中に入ることはできないし、仮に勝手に入ったとしても出てくることは困難だ、もし興味本位で入ろうと思っているならやめておいたほうがいい。鉱石学で優秀であればおのずと入る機会もあるであろうから、興味がある者はぜひとも頑張ってもらいたい。鉱石学者であれば一度は夢見る光景が拝めるぞ」
鉱石学の初日、世界地図を広げた鉱石学者である教師、ジェットは大きな体躯をさらに大きく見せるかのように、両腕を開き“歴史”を語った。
夕貴にとっての物語はこの国の歴史なのだ。
「我々が日常で使っている光源のカナリ―は雷の鉱石の欄にも名が乗っているし、アゲートは水だけでなく、風や火、土にも名を連ねている。一年目の鉱石学では基本的な鉱石の見分け方から使い方、それにより発生する便利さや危険を勉強してもらう。もちろん、君たちが頑張れば頑張るほどに授業を面白くしていくつもりだ」
机の上にはB5ほどの大きさがある他の教科より厚い本が置かれている。茶色い羊皮紙の綺麗なそれにはきっと“鉱石学”やら“鉱石術入門”やら、タイトルが書かれているのだろうが、夕貴にはまだ読むことがままならない。
こちらをチラチラと心配そうに伺うリオの視線に気付かない振りをしながら、恐る恐る本をめくる。
「あ…」
小さな声は周りに聞こえずとも、隣にいたツキには聞こえたのか、小さな耳をピクリと動かし夕貴を覗き込む。その表情を声に出すのならば「どうしたの?大丈夫?」と言ったところだろう。
(カラーだ。他の教科書は全部白黒なのに)
この世界の印刷技術は知らないが、他の教科がモノクロなのだから、カラーにすることは容易いことではないのだろう。それでも、この教科書をカラーにするということは、それだけ“色”を見分けることが大切なのだ。
夕貴以外にも本を開いた生徒がいるのか、あちらこちらで楽しそうな声が聞こえてくる。
小学校の教科書も中学校の教科書もカラーがあるのが当たり前で、写真が載っているのもたくさんあった。
今、目の前にある教科書は写真ではなく、とても綺麗な“絵”だ。写真とは違う美しさを持った絵。指でなぞれば、実物を見てみたい気持ちが沸き上がる。
(そう言えば…)
黒の国に、森に足を踏み入れた日。ツキの瞳を“アンベルの瞳”と称した青年がいた。きっと飴玉のようにキラキラしていて、黄色という一言で言い表せられないほど美しい色なのだろうと、想像が膨らむ。
この本に載っているのかもしれないが、名前が解っていても夕貴には読めない。もどかしい。
ペラペラとめくっていると、いくつも出てくる黄色や淡いオレンジ色の鉱石。この中にアンベルがあっても、ツキにお前の石だよ、と教えてあげられないのが悔しい。
「他の教科と同じく、この教科書も君たちの物だ。書き込むも書き込まないも自由だ。他の教科書と違うところと言えば、各鉱石名の横に日付と場所を記入する欄と少しばかりの余白が付いている。ここには君たちがそれぞれの鉱石を発見した、もしくは目にした記録を付ける為に設けられた場所だ。ぜひ、この本全ての余白を埋めていって欲しい。ただ、触ると危険な鉱石もあるので、むやみやたらに素手で触ることのないように…さて、これからその為の専用手袋と発掘、採取のキットを配布するので、受け取ったら開かずに待つように」
この世界は鉱石に支えられているのだ、と解る。夕貴の世界でも気づいてはいないかもしれないが、鉱物は生活の中に溶け込んでいる。装飾品だけではない。冷蔵庫やテレビにも使われているのだ。ただ、この世界のように目に見えて役立っている、と分からないだけだ。
ベージュ色の皮手袋に厚みのある黒いポシェットが配られる。皆開けずに待っているが、やはり好奇心は抑えられないのか、持ち上げたり、ポシェットを押してみたりと、少しでも早く中を知りたいらしい。全員の手元に渡れば中身を確認する作業に移るのだろうが、それでも見えないものが気になるのが子供で、人間だ。
いや、人間にとどまらなかったようで、ツキも夕貴のポシェットに鼻をくっつけたり、手袋を甘噛みしたりしている。
鼻水が付くのは構わないが、もらってすぐに噛み切られるわけにはいかないと、手袋はツキから離して、小さな声で注意する。
「噛んだらダメ」
「フゥ~、ン」
「ははっ、何その抜けた声」
ツキの頭を少し乱暴に撫で、前を向くように伝える。授業中も一緒にいられるように願ったのだ、ツキとて授業を真面目に聞くべきだ。
たとえ、理解ができず、彼にとって苦行の時間とは言え。
「―よし。全員に行き渡ったようなので、これから中身の確認を行う。鉱石を採掘する道具は鋭利なものもあるので、ふざけて人に向けたり、遊んだりしないように。ケガで済まない恐れもある」
ポシェットの中に入っていたのは、手のひらに握り込めるほどの大きさのルーペ。5センチほどの長さがある空の蓋つき試験官が3本と刷毛と片方が尖っているハンマーが2本だ。
こういった道具は何故か心をくすぐる。使いこなせないけれども、初心者どころか使い方もよくわかっていないけれども、趣味の為に使えるかどうかも、続けるかどうかも分からない道具を一式揃える喜びに似ている。
口元のにやけを我慢しようとすると、変な風に歪んでしまう。また、リノにからかわれると思い、彼にチラリと目を向けると、年相応どころか幼い少年のように瞳をキラキラさせていた。
「「…可愛い……」」
思わず重なった声に、リオと夕貴は顔を見合わせた。二人とも同じ気持ちでリノを見ていたらしい。
「?どうしたんだよ。二人とも」
「「なんでもない」」
またも重なった声にリノはムッとするが、何も言わずにハンマーを2本持って見比べている。
整っている顔立ちなだけに、夕貴ですら可愛らしく見えるのだから、兄であるリオはとてもとても可愛く思っているのだろう。この一ヶ月に満たない付き合いの中で一等優しい目をしている。
慈しむ対象がいることはとても幸せなことだと、セトは言っていた。
学園内の説明が終わり、寮までの道すがら、セトは夕貴の腕の中で周囲を見回しているツキを優しく撫で、穏やかな声で話してくれた。
見守られ、育まれ、愛されることは当たり前のようであるが、そう思ってくれる相手がいることはとても素晴らしいものなのだ。それは隣国である白の国だけではなく他の国と幾度となく剣を交えてきたからこそ、強くそう思うのだと、セトは言った。
しかし、それ以上に己の時間を、両手を差し出せる相手がいることは何物にも代え難い宝、だと言う。そんな相手なかなか出会えるものではない、と。
家族を失った貴女に、こんなにも可愛らしく強い相手がいることを私は嬉しく思います。大切に、大切に思い、信じてあげてください。
教職者、というよりも神様に仕えている人間に近い雰囲気を持つ先生だと思った。小さな頃、家族で訪れたステンドグラスの綺麗な教会にいた初老の男性を、ふと思い出した。
きっとリオにとってリノが“慈しむべき者”なのだろう。世界でたったひとりの可愛らしい弟。幼いフィンは年上として、見守らなくてはいけない相手。情がないわけではないだろうが、そこにある感情は弟に対するものとは大きく違うはずだ。
「さて、持ち物に問題がないようならば、一度片付けて教科書の一ページ目を開いてくれ。…“鉱石とはなくてはならないものである。我々の生活は鉱石に支えられている。それは、この世界に生きてよいと許されているからだ”青の国の鉱石学者の言葉だ。この言葉が事実だと証明する一つにはならないかもしれないが、7つの国で大戦が起きた時、鉱石の産出量は減った。そして、戦が終わるとほぼ同時に元に戻った。それを、戦の為に鉱石を多く使いすぎたからだ、という意見が多い中、鉱石学者たちは挙って青の学者の意見が正しいと各国の上層部へ伝えたんだ。戦争を起こせば、自分たちの首を絞めるだけだ、と。しかし、現状は…まだ争いあっている。国という入れ物があれば仕方のないことなんだが、なんとも世界に申し訳ない。っと、すまない。話が脱線してしまったな」
夕貴がセトの言葉を思い出している間に、ジェットの話しが進んでいく。慌てて、一ページ目を開くが、やはり何と書いてあるかは解らない。
しかし、解らなくても何とかしなくては、と皮紐でまとめられている用紙に鉱石学者の言った文字を書き写し、教科書の表紙にある文字を見て、“鉱石”を見つける。
古代文字を読み解いた人々の作業はこんな感じなのだろうか、と用紙に文字を綴っていく。言葉は解るのだ、努力するより他はない。
「では、今日の授業はここまで。これから、セト学長がいらっしゃるから、ちゃんと話を行くように」
「「「「えっ?!」」」」
「ん?どうした?」
教室の至る所から上がったざわめきに、ジェットが反応をするが、誰一人として理由は言わない。
((((…学長だったのか))))
黒の森の子供たちの心が一つになった瞬間だった。そして、子供ながら口に出すことが失礼だと感じたのか、誰一人として、口を開くことはなかった。
余談だが、一年後には、この話しは笑い話として黒の森の子供たちの思い出で語られる鉄板ネタとなる。
学長自ら何の話しかと、少しばかり身構えていれば、外出が認められる日に合わせて、少しばかりのお金を配布する、というものだった。
それは今後も月いくらか、という形でもらえるのだが、プラスでもらいたい場合は学園の事務所へ行き手伝い、という名の学校の雑務を行うか、各教科の先生方に仕事をもらうか、とことだ。
親でも、親戚でもない大人からお小遣いのようなものをもらうのに、皆簡単には喜べないことが分かったのか、学園の寄付金から出されていることと、今回のようなことに巻き込まれて困っている子供たちの為に…と言う約束で学園に入ってきているので、気にせず受け取るように、とのことだった。
世の中にはいい人がいるものだ、と夕貴は感心してしまった。
飽食の時代に生まれ、衣食住には困らなかった生活が当たり前だったからこそ、有難く思う。
(ツキもいるし、何か手伝いしてお金貯めた方がいいに決まってるよなぁ)
そうは思っても、今まで仕事なんてしたことがないし、一抹の不安を抱えてセトの話しを聞く。
学園を出る際は、学園の指示がある場合以外は制服ではなく私服で出かけること。学園には良家の子女もおり、誘拐や窃盗などの犯罪に巻き込まれる可能性があるためだ。と、言っても貴族である彼らには四六時中と言っていいほど護衛が付いているので、巻き込まれる可能性はほとんどない。
勘違いされて、痛い目を見るのは他の生徒たちだ。
「それでは、これから皆さんに服とお金を渡します。寄付されたものです。名前の呼ばれた子から取りに来てください」
順番に呼ばれていく生徒たちを見て、ツキは首を傾げている。それが可愛く、思わず手が伸びてしまうが、その手が届く前に夕貴の名前が呼ばれた。
慌てて席を立つと、ついていこうとツキが飛び降りようとするのをリノが止めてくれた。ありがとうと言えば、気にするなとばかりに片手をあげる。
ツキがリノの顔にパンチをしていたのは見て見ぬふりだ。
「はい、ユウキ。貴女の分です。次のお休みはぜひ楽しんできてくださいね。何か質問はありますか?」
セトは一人ひとりに声を掛けていたようで、夕貴にも同じように質問してくれた。
「学長にではなくて…ジェット先生に聞きたいことが」
「何だ?」
まさか、自分に質問されると思っていなかったジェットが、細い目を僅かに開いて夕貴の話しを促す。
(青と灰色の間みたいな、目の色だ)
ジェットの瞳に見とれていると、彼が夕貴を覗き込むように、かがんでくれる。
「ユウキ?」
「あ、あの…鉱石学の、お手伝い…できることありますか?」
「ああ、さっきの話しか」
緊張して、セトから受け取った服と巾着に入ったお金を胸元にきつく抱きしめている夕貴が気になったのか、その肩に手を置こうとした。
それを振り切るように、夕貴は勢いよく話し始める。
「文字!…字がぜんぜん、読めないんです。それでも、お役に立てることがあれば…手伝わせてください」
可哀そうなくらい緊張している夕貴の前に膝をつき、ジェットは笑いかけた。
「なんで鉱石学なんだ?他にも算術や…ユウキは第一体術の先生からも覚えがいいだろうに、何か理由があるのか?」
公立の中学校に通っている夕貴は曰く“面接”なるものを受けたことがない。これを面接とするか否かは別として、初めて会った人にやりたい理由を聞かれるのは経験のないことだった。
「ツキの、私の家族の瞳を『アンベルみたいだ』って言ってくれた人がいたんです。ツキの目に似ている鉱石なら、きっと綺麗だと思って教科書を見たけど、文字を読めない私にはどれか解らなかった、です。ツキの眼の石を解るようになりたいし、鉱石について知りたいです」
本音を言えば、鉱石学に今はまだそこまで興味があるわけではない。アンベルを見たいというのは本当だ。
「…アンベルかぁ。また、難しい鉱石にたとえたもんだな。俺が教科書で、これだ、って教えるのは簡単だけど…それじゃ嫌なんだろ?」
「はい。ツキに見せてあげたい。…探したら自分の物にできるなら、ツキにあげたいんです」
「アンベルを?」
「はい」
ジェットは夕貴の発言に驚き、セトを見上げる。夕貴の前に膝をついたままなので、セトとの距離はあるが、学長である彼が嬉しそうに笑っているのを見て、呆れたものではないため息をひとつついた。
「ユウキ。鉱石学の手伝いは思っているより簡単じゃないぞ?洞窟はもちろんだが、危険地帯に行くこともある。今まで以上に体術にも力を入れる必要もある…それでもいいのか?」
「はい…」
断られたらどうしよう、今この場でお願いするのは失礼だったんじゃないか、安易に考えすぎなのでは…、と血の気が引き始め、さもすれば倒れるんじゃないかと思うほどの顔色をしていた夕貴の頭に優しく手が置かれた。
「へっ?」
「それじゃあ、詳しいことは休み明けの授業で伝える。鉱石を探すだけならそこまで字は重要じゃない…って言いたいところなんだけど、記録したり調べたりがあるからな。焦らず頑張って行こう」
「…お手伝いしてもいいんですか?」
「ああ。そろそろ、助手が欲しいと学長にも相談していたんだ。よろしく頼むよ」
「良かったですね、二人とも。ジェット、ユウキを連れていく時はツキ君も一緒に連れて行ってあげてくださいね」
「もちろんです。良いボディガードになりそうですし」
「まだ仔犬ですよ?」
「今は小さくても、たぶん天狼だろうから、ユウキを乗せれるくらいの大きさになると思うぞ」
「……」
ジェットの言葉に夕貴は日本人なら誰でも知っている、有名なアニメ作品の一つを思い出した。自分は人と戦い、神様に頭をお返ししないといけないのだろうか…と、夕貴が変な方向へ考え出すと、セトから席へ戻るように言われる。
「ユウキ、どうした?」
「クゥン?」
可愛らしいつぶらな瞳で見つめてくる、月。
「ツキ…戦う前に教えてね?それまでに、鍛えるから」
「…どうしたお前…大丈夫か?」
「リノ。お前って言い方止めなさい。それより、本当に大丈夫か?誰かと戦う予定でもあるの?」
クスクスと笑うリオに、夕貴は真剣な顔で頷く。
「いつか、そんな日が来るかもしれないから、体術だけじゃなくて棒術を習おうかと思います」
「うん?」
冗談で言ったつもりが、真面目に返され、弟であるリノとツキを見るが二人とも眉間にしわを寄せて、夕貴を見て首を傾げるばかりだ。
「おい、誰かと戦う予定あるのか?」
「ハゥン?」
「だよな、そんな予定あるわけないよな。じゃあ、なんか間違ってるだけか」
「ワン!」
「そうか。兄さん、ユウキの勘違い?みたいだから、気にしないでおこう」
「いつの間にツキとはなせるように…」
「「?」」
リノとツキは同じように首を傾げて、顔を見合わせた。
可愛いから、いいか。と、リオは考えることを止めた。