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開錠

貴方の家には「開かずの扉」はありますか?


その扉の先は、おじいちゃんやおばあちゃんの大切な物がしまってある押し入れかも知れないし、捨てるべきかどうか迷っている物を保管しておく物置かもしれません。

でも、誰に聞いても何があるのか分らず、誰も開けようとすら思わない扉だったら…貴方は開けますか?

開けた先にはもしかしたらー、、、



佐伯夕貴の同じ市内に住んでいる母方の祖父母の家にも、所謂〝開かずの間〟と思わしき部屋がある。

 なぜなら、子供の頃に住んでいたはずの母親に聞いても、部屋には入ったことがないと言われるし、叔母や叔父に聞いても同じように知らないと言われるだけだった。

 祖父母と同じ敷地内に住んでいる従兄は、存在は認識していても、興味はないのか空返事が返って来るだけ。夕貴の兄に至っては、そこに部屋があることすら解っているのか怪しいものだった。

 中学生になり学校生活にも慣れてきたある日、夕貴はその部屋が気になって気になって仕方がなく、ゲームをしている兄たちから離れ、ドアノブに手をかけた。

「どうしたの?」

「あ、おばあちゃん。ねぇ、ここって何が入ってるの?」

 後ろから祖母が優しく問いかけてきたので、夕貴は手を放し振り返る。

 いつも、この扉を気にかけている時は、祖母が必ず近くに来る。そのことに今まで疑問も感じなかったが、今日は何故か酷く違和感を覚えた。

「何をしまったか、もう忘れちゃったのよ」

「開けたらわかるんじゃないの?」

「…誰かがいる時は開けられないのよ。おばあちゃんもね、昔は開けられたの」

 祖母の言っている意味がわからず、眉をしかめながら首をかしげた夕貴に、祖母はただただ笑うだけだった。

「硬いドアならお父さんとか、お兄ちゃんに手伝って貰えばいいよ。お兄ちゃんなんてゲームしてるだけなんだし」

祖母が〝誰かがいる時は開けられない〟と言ったのを言い間違えたのだと思い、手伝いを呼ぼうかと踵を返そうとすると、祖母は夕貴の手を握り、その掌の上に指輪を置いた。

「大丈夫よ。心配してくれてありがとう。夕貴ちゃんにいつか渡そうと思ってたの…お守りよ、みんなには内緒ね」

 はぐらかせた様な言い方に夕貴は少し納得いかなかったが、それよりもお守りと言う単語に興味を惹かれた。

 占いやおまじないは信じないと豪語している夕貴だが、年相応に女子中学生らしく興味がないわけではない。

 雑誌に載っている占いもチェックはするし、友達から聞いたおまじないだってしている。

 そんな年頃の少女が〝秘密のお守り〟を手にするのだ、胸がときめかないわけが無いだろう。

 少しばかり、ドキドキしながら手の中にあるお守りをそっと覗いてみる。

「…真っ黒い石……」

 漫画や児童書に描かれているお守りは、大抵美しい色や形をしていて、心惹かれる物だが、祖母が渡したものは少女が胸躍らせる“指輪”とは形容しがたいものだった。

 石がキラキラ輝いている事と、細かい台座の細工は目を見張るものがあるが、それも夕貴の年頃からすれば、アンティークと言う言葉よりも、古臭いと言うのだろう。

 兄たちならば、ゲームに出てくるような指輪だと盛り上がったであろうが、、、。兄たちと遊ぶためか、気が強く自分の意見をハッキリと言う夕貴だが、人の好意を無下にする様なことはできず、顔には〝不満〟〝なんとも言えない〟と言った表情をしながらも、祖母に礼を言う。

「…ありがとう」

「夕貴ちゃんには、本当はもっとカラフルな色の石が合うとおばあちゃんも思ってるのよ?」

 では、何故この色なのだと夕貴は祖母を見つめる。

 二重のパッチリしたアーモンド型の目を、祖母は優しく見つめ、仕方がないことなのだ、と言い聞かす様に口を開いた。

「青や赤の石が付いているアクセサリーもあるし、夕貴ちゃんには、きっと緑やピンク、黄色だって似合うと思うわ。でもね、おばあちゃんが“お守り“としてあげられるのはこの指輪だけなの。可愛いアクセサリーは、今度の誕生日に買ってあげる」

「…別に嫌いなわけじゃないよ」

 そう。夕貴は別にこの指輪が嫌いなわけではないのだ、ただちょっと期待が外れただけ。

 祖母を困らせようとか、文句があると言うわけではないのだ。

 そして、祖母は、この指輪以外は“お守り“にはならない、と言っているのだから、仕方がないと思うほかない。

「夕貴ちゃんは優しいわね。指輪、大きいかもしれないから、このチェーンに通しておくと良いわ」

「うん。ありがとう、おばあちゃん」

 ピンクゴールドのチェーンに指輪を通して、ネックレスにする。

 指輪よりもチェーンの方が今の夕貴には輝いて見えた。

 チェーンを指先で遊んでいる夕貴に、祖母はさっきよりももっと小さな声で、真剣な声で話し始めた。

「もし、この指輪を欲しいっていう人がいてもあげちゃダメ」

「おばあちゃんから貰ったのに、誰かにあげるなんてしないよ」

 祖母の言葉に少しばかりムッとした夕貴は、強い声で言い返した。

「夕貴ちゃんを疑うわけじゃないのよ。ただ、この指輪を欲しがる人が出て来た時、その人が夕貴ちゃんの優しさに漬け込もうとするかもしれない、それでも渡しちゃダメよ。お願い、約束して」

 今まで、祖父母からプレゼントを貰ってもそんなことを言われたことはなかった。人から貰った物を、誰かに渡すなんて考えたこともないし、したこともない。

 この指輪だけ、なんでそんなことを言われるのか解らず、それでも普段優しい祖母の顔が、怖いほどに真剣なものだったので、夕貴は反射で頷いていた。

「お願いね?夕貴ちゃん」

「ん、約束する」

 〝約束〟と言う言葉を使うのは久しぶりで、そして、今まで使っていた約束の言葉よりも、重く感じるのは決して気のせいではない、と夕貴は僅かに緊張を覚えた。

「夕貴ぃ?おばあちゃーん?ご飯にするって!!」

 兄の声に夕貴と祖母は、いつもの空気が流れて来たのを感じ、顔を見合わせて微かな笑みを浮かべる。

「行きましょう?今日は夕貴ちゃんの好きな春巻きよ」

祖母から夕飯のメニューを聞き嬉しくなったっ夕貴は、頷いて扉の前を離れた。

「夕貴!お前が一番食べるんだから、手伝えよ!!」

「うるさいな!自分だっていっぱい食べるじゃん!!」

苛立った様な兄の声に、反射的に言い返せば祖母は困った様に笑う。

兄妹喧嘩はいつものことだ。

「2人とも、喧嘩するなら、夕飯抜き!!」

「喧嘩なんてしてないよ」

「言い合ってただけぇ」

 母親の仲裁に、調子を合わせる2人はやはり兄妹であり、生意気盛りだ。

 成長期の2人に夕飯抜きは辛いものがある。

 祖母に促される様に、ダイニングに足を進める夕貴はチラリと開かずの間を見て、春巻きを食べる為にその視線を外した。



 祖母から指輪をもらった日から1ヶ月程経っただろうか、特に誰に指輪を見られるでもなく、自分の胸元に指輪があるのが当たり前になって来た頃、夕貴はまた扉の前に立っていた。

 月に1度、母方の祖父母と夕食を共にするのが定例になっている夕貴たちは、今月もいつもと同じ様に祖父母の家にお邪魔していた。

 夕貴と兄である朝陽の部活が早く終わり、いつもよりも早めに訪れた祖父母の家で、お風呂を済ませ、肩程まである髪から雫を滴らせて、夕貴は扉の前に立っていた。

 ドライヤーで髪を乾かすのが面倒だ、とバスタオルでガシガシと髪の毛を拭きながら、夕貴はじっと扉を見つめる。

 滴る雫がティシャツに染み込み肩を濡らそうとも、彼女はただじっと扉を見つめていた。

 常ならば、ここで祖母が現れて「何しているの?」と聞いてくる。

 しかし、今日は祖母の姿が一向に見えなかった。確かに挨拶はしたので、家にいるはずだ、買い物に行くとは聞いていない。祖母どころか、この家に誰かがいる気配がしない。

 いや、気配というものを夕貴が感じ取れるか否かは別として、ただ物音すらしないのはおかしいのだ。

 おかしい、と頭でわかっていても、好奇心は抑えられず、夕貴はドアノブに手を掛ける。

 祖母はなんと言っていた?この扉を開けるな、と言っていなかったか?それとも、開かないと言っていたのか…、夕貴の中で、開けたい気持ちと開けてはいけない気持ちが競り合っていて、やけに心臓の音が大きく聞こえる。

 気になり続けるのならば、中を覗いて怒られたらその時だ、と最近あることが当たり前になっている指輪を握り締めようと、胸元に手を伸ばし、ドアノブを引こうとした。

「あれ?」

 押しても引いても、ドアが開かない。そして、胸元にあるはずの指輪が見当たらない。

「お風呂だ!」

 何の石か分からなかったし、金属を付けたままお風呂に入っていいものか判らなかった夕貴は、脱衣室に指輪を置いていたのだ。

 バタバタと脱衣室に走っていけば、リビングから、みんなの声が聞こえる。

「夕貴ぃ?お風呂あがったの?」

「うん!」

 指輪を首から下げ、リビングに行くと祖父と父親、叔父の酒盛りが始まっていた。

「え?お父さん、お酒飲んじゃったの?帰りどうするの?」

 母も免許は持っているが、持っているだけのペーパードライバーなので、同乗するのは御免被りたい。

「夕貴、明日部活休みでしょ?」

「うん」

 父親の前にあるツマミをひとつ取り、口に運ぶ。

「お兄ちゃんもお休みだから、今日は泊まっていきましょう。お父さん呑んじゃったから帰れないもの」

「別にいいけど。それなら、おばあちゃん、明日のお味噌汁ワカメと豆腐が食べたい」

 椅子の上で胡座をかいて、父親のツマミを取りながら、夕貴はちゃっかり明日の希望を言う。

「分かっていますよ。お魚は鯵の干物だからね」

 夕貴の家では、朝ほとんどがパン食なので、たまに食べる日本の朝食、というものが特別に感じられる。

 会話している間、祖母の視線は時折指輪があるか確認するかの様に、夕貴の胸元へいく。

 祖母からもらったあの日から、毎日の様に着けているが、父も母も兄も誰も何も言ってこない。学校に着けて行くのは憚られたが、常に着けていなければお守りの意味がないと、身につけているが、担任にも友達からも何も言われないのだ。

 まるで、何も見えないかの様に。

 そんな事があるのか、と不思議な気はしているが、バレないのであれば欲しがられることもないと、呑気に考えることにした。

 夕貴は些細なことも気にはするが、一週間もすれば気にもならなくなるので、毎日のように学校へも、何処へ行くにしても身につける様になった。

 先ほどの着け忘れは指輪を貰ってから初めてのことで、少しばかり焦ってしまったのだ。


 家族団欒と言うに相応しい時間が過ぎ、夜の帳もとうに落ちた真夜中、それまでグッスリと寝ていた夕貴は急に目が覚めた。

 スマートフォンを見れば、まだまだ寝ていられると、再度目を瞑るが全く眠気が襲ってこない。

左右を見れば両親が気持ちよさそうに寝ている。こんなことで起こすのも気が引けるので、夕貴はアプリゲームを始めた。特別面白いわけではないが、惰性で続けているゲームがその内眠気を連れて来てくれるだろうと思っていたのだが、いくらゲームを続けても全く眠くならない。

 それどころか、スマートフォンの明かりで目がさえてきた。ゲームをしたのは失敗だ。枕に顔を押し付けても、足をバタバタと動かしても、両親は目を覚ます様子もないし、朝までまだ時間はある。

 眠ることを諦めた夕貴は布団から身を起こし、リビングにある本でも読もうかとそっと部屋を出た。やはり、誰も起きていないのか家の中はシン、と静まり返っていて、聞こえるのは時計の秒針が動く音だけだ。

カチ、カチ、カチ…といつもならば気にしない音がやけに大きく聞こえる。

 目が覚めたせいか、夕飯をたくさん食べたはずなのに、小腹が空き、足をリビングと続きになっているキッチンへと向けた。確かカップ麺があったはずだ、と戸棚を漁り始める。

電気ケトルでお湯を沸かして、カップに湯を注ぐ。こういう時の三分は長く感じる。待っている間に、適当に本を持ってきてペラペラと読むが、さして興味がないせいか、頭に内容は入ってこない。

 ズルズルと麺を啜り、あまり大きな音を立てると誰か起きてきてしまう、と先ほどまでは誰か起きていないかと期待していたのに、カップ麺を食べているのをばれたくないので、できるだけ静かに食べ進めた。

 ごみを片づけ、暫くペラペラと本を捲ってもやはり眠気は襲ってこないし、時間はまだまだある。

(布団に戻ろう)

 お腹も満たされ、そのうち眠くなるはずという期待を持ち、夕貴はぺたぺたと部屋に戻ろうと足を動かした。

 しかし、ふと例の扉が頭を過る。

 わざわざ夜中に見る必要もないし、昼間開かなかったのだから、開かない扉だと解っているのに、何故か扉が気になって仕方がない。

 布団に向かうつもりが、いつの間にか扉の前に着いていて、夕貴は開かないと思いながらも、ドアノブに手を掛ける。

 ゴクリ、と唾をのむ音がやけに大きく聞こえた。そういえば、時計の秒針の音が聞こえなくなったと、何かが可笑しいと思いながらも“開けたい”と思う衝動が抑えきれない。

 ガチャリ、とドアノブを捻れば…

「あいた…」

 キィ、と少し軋んだ音がしたが、確かに“開かずの間”の扉が開いたのだ。

 ドッ、ドッ、ドッ…心音が耳の近くから聞こえるが、恐怖にも近い興味が夕貴を動かす。通常であれば、祖母か誰かが一度開けて鍵をかけ忘れたと思う。

 しかし、この扉にそもそも鍵はついていただろうか?元々施錠できない扉だったら、何故昼間は開かなかったのだろう。

 そんな疑問を抱く余裕はなく、ただ、今の夕貴にはこの扉を『開けなくてはならない』という何かが押し寄せてきた。

 扉を開ければ、暗い室内。室内にある扉わきのスイッチを押せば、オレンジ色の光が部屋を照らす。

「何だ、ただの物置じゃん」

 壁に取り付けられている棚には所狭しと、大小様々な箱が置かれている。ちゃんとラベルが貼ってあるので、どこに何が置いてあるのかすぐにわかるだろう。

 安心半分、期待外れ半分という何とも言えない気持ちになった夕貴は、部屋の中に足を踏み入れて、箱を触ったり、振ったりして見るが、特に珍しい物もない。

 そろそろ、出て寝なければいけない、とドアノブ捻るが、先ほどとは違い空回りするばかり。

 閉じ込められた、と考えるよりも先にガチャガチャと空回りし続けるドアノブを、回し続け、押したり引いたりを繰りかえす。

「誰かぁ!出して‼中から開かないよ!…ねぇ!聞こえないの?お父さん!お母さん!」

 ドン、ドン!と扉を叩き続けるが、誰かが起きてきた音は聞こえない。

 トイレと階段に近いこの部屋なら、誰かが起きてきた時に物音が聞こえるだろう、と今は出してもらうことを諦め、大きなため息を一つついた。

「こんなことなら、本を持って入るんだった…」

 まさか、出られなくなるとは思わなかった夕貴は、床に置いてある大きな段ボール箱に背中を預けて、足を延ばした。

 せめてもの救いは今が冬ではなかったことだ。夕貴たちの住むこの地域は、日本の中でも雪国と呼ばれている。いくら、家の中とはいえ暖房設備もない部屋では凍えてしまう。

 時計もなく、時間が分からない。瞼が閉じる気配もない。床に座ったまま棚の箱を見上げて、箱の一つでも開けて時間を潰すことを思いついた夕貴は、箱のラベルに母や叔母、祖父の名前があることに気付いた。

(皆の服とか入ってるのかな?)

 その中に“冬”と書かれたラベルがあることに気付く。他の季節の表示はなく、何故か冬だけがある事に首を傾げそうになったが、祖母の名前が冬子だったことを思い出した。

 祖母の友人は彼女の事を“おふゆさん”やら“ふゆさん”というので、夕貴には祖母の名前は何方が正しいか、いまいちわからないが、祖母たちの年代はそんなものなのかもしれない、と考えていた。

 よいしょ、という掛け声とともに立ち上がり、祖母の物と思われる箱を手に取る。人の物を勝手に開けてはいけないと思うが、暇なのだから許してもらおうと、独りよがりの考えの元、箱を開けた。

 入っていたのは、人形や綺麗な小箱、どこに使うのかわからない鍵、栞など細々としたものがほとんどだった。

 その中にやけに古びた革張りのノートがあり、オリーヴ色の革は年季が入っている為か傷がついている。

 紐を解いて、表紙を開く。記入してあるのは日本語ではなかった。授業で習った単語が所々にあるので、英語だと思われるが夕貴には解らないので、描かれている絵や貼られているチケットのような物を見ることにした。

 綺麗な絵が描いてある紙もあったので、飽きることなく見ていると、扉の外から音が聞こえてきた。

 出してもらえる!と慌てて立ち上がり、ドアを勢いよく叩き、声を出した。

「おーい!開けてー!」

 ノートを手に持ったまま、ドン!ドンッ!と叩く。素通りされたら、朝までここに居なくてはいけない。

「ねぇってばぁ!あけ…」

 夕貴は叩いていたせいで気づかなかったが、誰かの声が聞こえ、扉が開いた。

「あ、ありがとう」

「いや、大丈夫か?」

「?」

 扉が開きすぐに外に出た夕貴は、掛けられた声に聞き覚えがなく、口を半開きのまま扉の影にいた声の主を見つめた。

「……」

「どうした?大丈夫か?中に隠れていたのはお前だけか?」

 二十代前半くらいの男が、何も答えない夕貴を覗き込んだ。思わず足を一歩退けた夕貴は後ろにある扉を振り返る。

「っなんで?」

「おい、本当に大丈夫か?混乱するのも無理はない。我々が来たからにはの奴らの好きにはさせない。避難所に行く…歩けるか?」

 夕貴が出てきた扉の中には、整頓された物置ではなく崩れ落ちたガラクタの山があった。灯りを点けていたのに、物置だった場所は真っ暗で、夕貴が立っている場所も何故か外だ。家の中だったのに、上を見上げれば星が瞬いている

 何かが可笑しい、これは夢だと思うが、手を引く男の体温も頬を掠める風も、焼けた木の臭いも確かにする。なにより、裸足の足が濡れた芝生の上を歩いている。この感触は夢ではない。

 この状況が解らず、混乱する夕貴の頭は助けを求め、革表紙のノートと胸にある指輪を無意識に掴んでいた。

「名前は?」

「……」

「おい、聞こえてるか?名前は?」

「あ…ゆ、夕貴」

「ユウキだな。俺はハロ。家族は何処にいるか解るか?」

「あそこには、一人で、いた…」

「そうか…大丈夫、と言って良いのか解らないが、同じ境遇の子供はたくさんいる。ご家族のことは残念だったが…これから、避難所に行って話しを聞くといい。悪いようにはならないはずだ」

「ここは…?」

「?ああ。この森…黒の森は暫くの間、衛兵が管理する。前と同じ、とはいかないがまた村ができる」

 夕貴が聞きたいことと違ったが、この場所の名前が解ったので、とりあえず頷いた。ハロと名乗った男は、夕貴に色々と話しかけたり、すれ違う人間と挨拶をしたりと、黙っている方が少なかった。

 きっとハロの中で、夕貴は家族を失った子供と思われている。ショックの為、現状を理解していない子供と思われているのだ。

 ハロが思っているのとは、別の意味でショックを受けている夕貴は、不安を出さない様にと唇を噛みしめながら、辺りを見回した。

 先ほどハロが言っていた通り、ここは森のようだ。鬱蒼と生い茂っている草木に倒壊している家々。打ちひしがれている人や、倒れている人の姿も少なくはない。

(さっき、この人は“白の奴ら”って言ってた…)

 この惨状はその“白”の人々がした事なのだろうか。

「あの…白の人たちって」

「ああ。白の奴らだ。あいつら、ここ数十年大人しくしていたのに急に襲ってきやがった…国石の揺らぎを見逃さなかったんだ!」

「コクセキの揺らぎ?」

「ああ、噂になっていただろ?輝いていた国石が瞬きを始めたって。あれは、本当だった…常に淡い光を纏っていたのに、ここ数年は急に強い光を発したりして。王城だけじゃない。城下町にも知られるくらいだ。そりゃ、噂なんて駆け巡る」

 ペラペラと話すハロに相槌を打つが、夕貴には何のことやら解らない。

 “コクセキ”とは何なのか、それは国にとって大切な物で、その輝きが揺らぐと白の人間に襲われる。

 夕貴は戦争の恐ろしさは知らない。その怒りも悲しみも、祖父より前の時代の事だ。別の国の話しだ。でも、今は目の前にある。

(…お父さん、お母さん……)

 アクション映画やファンタジー映画を見て胸躍らせていたが、実際目の前にしてみれば震えてしまう。

 夢であって欲しい、と頬を涙が伝い、ここにはいない両親を心の中で呼び続けた。ここが何処だか分からないが、両親が助けに来られない所だと知っている、理解しているが夕貴が助けを求めることができるのは、両親だけなのだ。

「ユウキ?…家族のことは残念だったな……。でも、これから頑張っていかなくちゃいけないんだ。生きていく術は学べる」

 ハロの言葉を夕貴も否定はしなかった、彼の勘違いをそのままにしておきたいわけではなかったが、口を開けば情けなくも泣き叫んでしまいそうで何も言えなかった。

 彼が手を引いてくれなくては、きっと夕貴の足は止まっている。

「ほら、あそこだ。あそこの避難所に居れば王都ノワールに行ける。行ったことあるか?」

「…な、い」

 “ノワール”と言う場所もこの“アーテル”でさえ、夕貴には知らない場所なのだ。知っていることが一つもない、ということがこんなにも怖いだなんて知らなかった。

「なあ、ユウキ。俺も両親がいないんだ。って言っても、最初からいないからユウキの辛さは解んないんだけどな」

 思わぬ発言に夕貴は顔を上げて、彼の背中を見つめた。友達の中には片親の家庭もあった。それでも、最初からいないなんて、そんな家の子はいなかった。

「衛兵になる為に世話になっていた教会を出て、自分の世界の狭さに愕然としたね。いや、あれは今考えると恥ずかしいわ」

 ハロの背中が揺れている。きっと笑っているのだ。

 彼の手は大きく、ごつごつとしていて所々に凹凸がある。きっと傷跡だ。

「ユウキ、先輩からの助言だ」

「?」

 夕貴の涙は引っ込み、その大きな目は振り返ったハロの瞳を見つめている。

(綺麗な深い…緑色の目だ)

 いつか美術館で見た、宝石のエメラルドみたいに松明の明かりでキラキラと輝いている。

「ユウキが望もうと望むまいと、生きていれば荷物を背負うことになる。もしかしたら、重くて重くて仕方がないかもしれない。それを少しでも軽くする為に、知識と想像、行動を身につけろ。この三つはユウキを裏切らない。この三つは重さのない荷物だ。持てるだけ持て。それが糧になる」

「知識、想像、行動…」

「何もあげられるものはないからな…と、あったわ。あった。ユウキにあげられるもの」

「い、いらない。助けてもらって、大切な事教えてもらったのに…これ以上は」

「子供が遠慮するな。あげられるものっていっても、大したものじゃないんだ。ほら、これ」

 ハロが差し出してきたのは、クシャクシャになったメモ用紙だった。

 ローマ字と数字が並んでいるそれを受け取り、夕貴は首を傾げハロを見上げる。

「どうしても泣きたくなったり、弱音を吐きたくなったら来い。仲間ができて俺の事を忘れるならそれでいい。ただ、逃げ場所は必要だろ?王都に慣れなきゃ来れないだろうから、頑張れ!」

 ニヤッと、片側の口元を上げてまるで悪戯を仕掛ける少年のような顔で笑う。兄や従兄とは違う“兄貴”の甘さと優しさに、夕貴は再び溢れてきた涙をゴシゴシと拭い、笑顔でハロに礼を告げた。

 この世界に夕貴を気に掛けてくれる人が一人でもいることが、嬉しかった。

 ハロが避難所にいる衛兵に夕貴の事を話している間、少し距離を取っていた夕貴はハロと歩いてきた道を見ていた。

 あの小屋に行ってもきっと帰れない。でも、きっと帰れる。そう思わないとだめになりそうで、悲しいのと、寂しいのと、不安が夕貴を襲ってくる。

「…綺麗な森…だったんだろうな……。いつか、見てみたい」

 ボソリ、と呟いた言葉は誰に聞かれるでもなく、焼け焦げた森へ吸い込まれていく。

「ユウキ!」

「はい」

 ハロに呼ばれ、小走りで避難所の入り口へ向かえば、ハロと避難所の衛兵が夕貴を待っていた。ハロは笑顔で夕貴の頭を撫でるが、衛兵は何とも言えない笑顔を向ける。

(ああ、“可哀想”って思われてるのか…こんな時何とも言えない笑顔を向けるのは何処も一緒なんだな)

「君…ハロから聞いてはいるが、改めて名前を聞いてもいいかな?人数を把握するために、名前と年齢を聞かなくちゃいけないんだ」

「はい。夕貴です。年は十二歳」

「ユウキ、十二…ね。あと、その子の名前も教えてもらっていいかい?」

「「その子?」」

 衛兵がペンで指したのは、夕貴の足元。ハロと一緒に首を傾げた夕貴は自分の足元に目を向ける。

「…仔犬?」

「ユウキ、いつの間に」

 真っ黒でコロコロ、モフモフした塊が夕貴の足元でプルプルと震えている。

 暫くジッとその塊を見ていた夕貴は、身を屈めてそっと撫でてみた。

(あったかい)

 思わず、笑みが零れた夕貴は仔犬の顔を覗き込み小さな小さな声で話しかける。

「どうした?お前もひとりぼっちになっちゃたの?」

 夕貴が話しかければ、仔犬は一層近づき、離れたくない、とばかりに鳴いている。

「どうした?ユウキ」

「何でもない。あの…この子の名前まだ付けていなくて…。名前付いていないとダメですか?」

「いや、そんなことないよ。特徴だけ教えてもらえるかな?」

「はい。えっと…真っ黒なモフモフの毛と…」

「「モフモフ…」」

 夕貴の言い方が可笑しかったのか、大人二人は口元を緩める。そんな二人に気付かず、夕貴は仔犬を抱き上げその顔を見つめる。

「蜂蜜みたいな綺麗な目」

「蜂蜜?」

「うん。ほら」

 夕貴はハロと衛兵に見えるように、仔犬を抱え直すと、ハロはおお!と感動の声を出す。

「確かに、蜂蜜みたいに綺麗な金色だ」

「でしょ?」

「アンベルの瞳だね」

「アンベル…」

「どんなものか気になるなら、中央図書館に鉱物関係の蔵書がたくさんあるから、調べてみると良いよ。ユウキ、君のこれからに幸多い事を願っているよ」

「ありがとうございます」

「じゃあ、またな。ユウキ」

「ハロも、元気でね」

 夕貴の後ろに列ができ始めたのを見て、衛兵は夕貴と仔犬の特徴を書いた書類にサインをして、終了の意を示す。

 囲いの扉を開き、衛兵は夕貴のこれからを願い、握手を交わして送り出してくれた。それに夕貴も笑顔で答え、ハロに手を振り扉の向こう側へ足を踏み出した。

 今の夕貴にあるのは、祖母からもらったお守りの指輪。祖父母の家から持ち出した革張りのノートとハロのくれた小さな紙きれ、ついさっき出会ったまだ名もなき仔犬。そして…

「行動、想像…知識…」

 ハロの教えてくれたこれから持つべき重さのない荷物。

 閉じられた囲いの扉に少しばかりの不安を覚えるが、進まなければ何も変わらない、と人が集まっている奥へと歩き出した。

「お前の名前決めないとね。真っ黒で、蜂蜜…アンベルの瞳。鉱物って言ってたから、アンベルは石の名前か。お前は女の子かな?男の子かな?」

 仔犬を自分の目線まで待ちあげ、顔ではなく下を見る。

「…うん。男の子だね」

 自分の腕の中で落ち着く仔犬に癒されながら、夕貴は空を見上げる。

 あちらこちらからすすり泣く声や、まだ燻っている火の音、何かを壊す音が聞こえるが、空には星々が煌めき、淡く光る月は美しい。

「月綺麗だな。そうだ、自己紹介忘れてたね。私は夕貴だよ。夕日に貴いって書くんだよ。家族は両親と兄ちゃんが一人」

 仔犬は話す夕貴を見上げてフンフン鼻を動かす。

「…あと、今日から君も家族だね」

 仔犬は蜂蜜色のくりくりとした可愛らしい目を夕貴に向け、首を傾げている。

 一生懸命に夕貴の話しを聞いているのだ。

「名前かぁ、、、どうしようかな」

 ネーミングセンスがない、と友達から言われたことのある夕貴は、じっくり考えた方がいい気がしてすぐには名前をつけてあげられなかった。空に神々しくも輝く月が早くしろ、とも急かしている様だ。

 仔犬抱いたまま、周りの人と同じように芝生の上に腰を下ろす。キョロキョロとあたりを見渡すが、当たり前の様に知っている顔はなかった。

 周りは自分を気にしていないが、居心地は悪い。自分がここの人間ではないせいだ。

 どのくらい経っただろうか、夕貴の後からも何人も同じように芝生の上に腰を下ろしていった。泣いている者、家族と会えて喜んでいる者、放心状態の者…様々な表情を浮かべて、皆集まっている。

 夕貴は何とも言えない気持ちになり、仔犬抱く腕を僅かに強くした。それと、ほぼ同時に低く腹に響く声が辺りを包む。

「子供はこちらへ集まれ」

 何が起こるか解らないが、ひとまずいう通りに動くべきなのだろう、と夕貴は立ち上がりやけに偉そうに立っている男の元へ急いだ。戸惑いを隠せない子供や、大人に手を引かれて向かう幼い子供もいる。

 偉そうな男は自分の周りに集まった子供を、冷めた目で見まわし、鼻を鳴らした。

 夕貴が好きになれないタイプだ、と感じたように、他にも同じように感じた者はいたようで、隣の者とヒソヒソと言い合って、集合したものの“仕方なし”という雰囲気を出している者もいる。

「私はお前たちを助けた隊を率いる衛兵長のボルンだ。これから子供たちは王都へ向かう。年齢、性別関係なくだ!必要な物があれば五分だけ待ってやる。さっさと持ってここへ集まれ!さぁ、行け!」

 急な物言いに集まった人々は困惑を隠せなく、オロオロとするばかりだ。夕貴は既に必要な物を手に持っているというか、持っているものしかないから良いが、5分で取ってこいとは無理な話だ。

 この現状を理解しているのか、と疑いたくなる。

「…何様だ…あのオッサン」

「まったくだ」

 思わず漏れ出てしまった心の声に、賛同がえらる。しまった、と思い、恐る恐る隣を見るれば、そこには同い年と思しき少年が、ボルンと名乗る男を睨みつけていた。

 背の高さは夕貴とさほど変わらない少年は、横顔だけでも整っていて、思わず口を真横に引いてしまう。

「リノ、聞こえるぞ。君も大人しくしていた方が良い」

「…兄さんだって、同じよう思っているんだろ?」

「思っていたって、聞こえるかもしれない距離では口にしないさ。それがある程度権力のある人間の前なら、猶更だ」

 賛同してくれた少年の隣には、頭一つ分高い少年が同じようにボルンを見つめている。口元は笑っているが、目は笑っておらず、顔が整っているだけに怖い。

 横に一歩ずれた夕貴に気付いたのか、兄さんと呼ばれた少年は顔の向きを変え夕貴に微笑みかけた。

「弟が急に失礼したね、俺はリオ。こっちは弟のリノだ。君の名前を聞いてもいいかな?」

「夕貴、です。この子はまだ名前付けてなて、、、」

「ユウキだね、よろしく。君もね。

見かけたことがない顔だけど…この森も広いから当たり前か。ユウキは取りに戻らなくてもいいのかい?」

「今持っているので全部です」

 先ほど、自分で手にある物を数えたばかりだが、人に聞かれ、答えると何故か寂しく感じる。リオが悪いわけではない。彼は彼で心配して聞いてくれているのだが、止まったはずの涙が目に溜まる。

「それは、悪いことを聞いたね…。まぁ、俺たちも互いしかいないんだけどね」

「生きていられるだけ、ましだ」

「お前は…悪いね、こんなんだけど良い奴なんだ」

「こんなって、なんだよ」

 二人のやり取りに、兄である朝陽との喧嘩を思い出してしまい、また瞳が潤む。

 お手て繋いで、の仲良し兄妹ではないが、傍から見れば仲が良い兄妹だったはずだ。口には出さないだろうが、夕貴の姿がなければきっと心配するのだろう。

 目に涙を溜めていても、流さないのは夕貴の矜持だ。

「五分経ったぞ!早くしろ!」

「…絶対に気が合わない」

「俺もだ」

「…合う方が少ないと思うが。ん?」

「「?」」

 リオが首を伸ばして、ボルンがいる場所を覗いている。それに首を傾げながらも、夕貴とリノも人々の間から同じ方向を見た。

 そこには幼い子供と、祖父母らしき年嵩の男女がボルンに訴えかけていた。

「まだ、まだ幼い子供です!息子夫婦が亡くなったばかりなんです…っ、どうか、どうか!」

「王都に行っても、学べる年ではありません。お願いします、この子を連れて行かないでください」

 子供を離すまい、と四本の腕で抱きしめている彼らから離せるはずもない、と誰もが思った。いくら、権力を振りかざしていても、温情というものがあるだろう、と。

「バカなことを…学べぬ年齢ならば、それなりにできることもある。例外はない、とっとと子供から手を放せ!」

「そんなっ…!」

 祖父母に抱きすくめられながら、幼子は泣き続けている。その悲痛な叫びは、救われた人間の声ではない。

 夕貴ははっきり言って子供は好きではない、自身も子供と言われる年齢だが。好きではないが、この状況を見過ごせるような、人間ではない。

「腐ってる」

「おいおい!どこに行くんだよ!」

「…あの髭面に文句言わないと、腹の虫がおさまらない」

「おいおい!本当に女か?」

「性別は関係ない」

 夕貴が仔犬を抱いたまま、ボルンに突き進んでいこうとすると、リノが止めに入った。ここで、歯向かうことは得策ではないと知っているのだ。 

 それでも、あの三人の泣き声が耳に入って仕方がない。別に正義感を振りかざしているわけではない、ただただ気に食わないのだ。

「やめろって!あいつは学園にも顔が利くんだ!これからの生活、面倒抱えて生きていくのか?」

「リノはあれを見て見ぬふりしろって?気に入らないものは、気に入らないの!」

「~っ!そうじゃないけど、兄さんも何か言ってくれ…あれ?兄さんは?」

「話し反らす気?」

「違う、本当にいないんだよ」

 リノが今までの威勢は何処へやら、夕貴の腕を掴んだままキョロキョロとあたりを見回す。その不安そうな様子から、虚勢を張っていただけなのだ、と夕貴は気付いた。

 それもそのはずだ、リノも夕貴と同じくらいの年頃、その兄のリオだってまだ子供だ。頼れる大人がいない状況で不安なはずがない。唯一の拠り所である兄の姿が見えなければ、焦りも表面に出てくる。

「リノ。リオがあそこにいる」

「え?」

 夕貴も探してみれば、離れたところにリオの姿が見える。

 ボルンの目の前だ。

「やばい!」

「さっき人に注意した本人なのに!」

 青い顔をして、走り出したリノに続いて、夕貴も仔犬を抱き締める力を強めて走った。

 集まっている若者たちを押しのけながら、二人は突き進む。

 周囲がざわついているせいで、よく聞き取れないがリオがボルンと老夫婦に何か言っているようだ。それに、ボルンもあの濁声で返している。

 怒声は聞こえないが、さきほどの言動から見て、気に障ったら何をされるかわからない。リノと夕貴がやっとの思いで、リオの背中を目の前にした時。

「うははははっ!そうか、ならお前に任せよう!」

「ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします」

「うむ。では、私も王都へ帰る準備をして来よう」

 老夫婦に向けて、醜い罵声を浴びせていた人物は、今は機嫌よくニコニコと笑い自身の中央街への出立準備をすると言っている。

 リノも夕貴もポカン、と固まっている。

「兄さん?」

「ああ、リノ。ユウキも、どうした?」

 あっけらかん、と振り向いたリオにリノは膝から崩れ落ち、夕貴は安堵のため息を吐いた。ボルンがリオに何かするかと、心配だったのだ。

 そんなことは気にしたこともなく、リオは老夫婦の前に膝をつき、何かを説明し始めた。その間も彼らは幼子から手を離すことはなかった。



黒の国にはここ数十年の間、“王”が不在だ。

 最後の王は年若い女性で、国政の事も何もわからない、ただただ優しい娘だった。その補佐をする為に摂政を立て、何とか国を動かしていたが、いつの間にか2人とも姿を消していた。国民の間では王と摂政が駆け落ちした、だの。摂政が王を殺害して、国宝の一部を持って逃げた、だの。様々な噂が駆け巡ったが、どれもこれも噂話でしかなく、本当の事を知る者はいなかった。

 その後、黒の国は王を定めることはなく、摂政も存在せず、国石の欠片を守護する六名の神官あるいは巫女が国政を執り行って来た。

 邪な考えを持つ貴族には気に入らないことだっただろう。自身が王になることはできなくとも、摂政に近い地位を手に入れることができる機会だ。

 神官たちと一部の貴族たちはこの数十年の間、表立ってはいないものの対立をしてきた。そんなくだらない、とも言える日々が過ぎていく中、状況は変わった。

 何人にも、何事にも何の反応も示さなかった国石の輝きが、揺らぎ始めたのだ。

 王城にある国石が揺らげば、神殿に納めている国石の欠片も揺らぐ。

 何事が起きたのかと、黒の国の一大事かと、騒めくなか白の国から奇襲がかけられた。黒の国の様子を伺う為だったのか、中心部ではなく、国の端にある黒の森が襲われる事態となった。被害は甚大。多くの命が失われ、人々には傷が残った。



「それで、コクセキは今どうなってるの?ユラユラしているの?」

「何だ、ユラユラって」

「揺らぎのイメージが、そんな感じ」

「…国石がどんな状態になっているかは、国民には知らされていない。お前も知ってるだろ?揺らぐ前の日、国石が今までになく光りを発したのを」

「光り…」

 夕貴は揺らぎも、光りも、国石のことも何も知らない。ただ、知っている様に振る舞うことはできる。

 兄であるリオが幼いフィンと手を繋いで歩いているのを、何とも言えない表情で見ながら、夕貴の話しに付き合っていた。

(ジェラシーだ…)

 幼い頃から、兄はもちろん、父や母が自分以外の子供を可愛がっていても、父子家庭の子の代役として、母が参観日に誰かと一緒に踊っていても、夕貴は特に嫉妬という感情はでなかった。

 あまり泣くこともないから、叔母から「涙枯れてるの?」という何とも失礼なことを言われるくらいだ。

 ただ、恥ずかしくて言ったことがないが、家族から大切にされている、愛されていることを知っているから、家族が他の誰かを優先しても大丈夫だとわかっていた。

「優しいお兄さん持つのも大変だね」

「何だよ、急に。ユウキ、兄弟は?」

「よくケンカする兄が一人」

「…悪かった」

 目に見えて気落ちした様子を見せるリノに、思わず口元が緩み、彼の前によだれを垂らして寝ている仔犬を掲げた。

「見て、リノ。私にもちゃんと家族がいる。ちゃんと守る大切な子がいるんだよ。だから大丈夫」

「……」

 夕貴は本当のことが言えない。出会って一日も経っていないが、確かにこの仔犬は夕貴の家族で、大切にすべき存在なのだ。嘘は言っていない。

 彼女の笑顔が偽りでないことが解ると、リノは照れ隠しをするように仔犬の頬を突っついた。

「お前の家族、目が覚めたらビックリするんじゃないか?いつの間にか、森から大きな街にいるんだから」

「いや、さすがにずっとは寝てないと思う。そんなに寝てたら心配になるよ」

「そりゃそうか、黒の森から休まず歩き続けて三日くらいだもんな。あのオッサンだって休まずに歩かせるはずないし、五日くらいか」

「五日も…」

 一日くらいは掛かると思っていたが、まさかの五日。夕貴は空を仰ぎ見て大きなため息をついた。

(車も自転車も便利な物だったんだな)

 電車よりも車や自転車が交通手段である夕貴の住む県は、歩くことは多くない。家から車に乗って目的地へ。そして、目的地内で歩くくらいだ。部活で運動量は多いと言っても、五日間歩くとなると気が滅入るのも仕方がないだろう。

「嫌だよなぁ、馬で行きたいよな」

「馬…」

 根本的に乗り物の基準が違う。

 それから、最初の休憩所までリノと夕貴はいろいろな話しを、どちらからともなくしていた。

 焼け焦げた臭いも、聞こえていた泣き声も、今いるここではしない。生ぬるい風が頬を掠めるだけだ。目を背けても、先ほどまでいた場所で争いは起こった。 夕貴はその現場を見たわけではないけど、リノたちの話しを聞けば、ひどい物だったと解る。

 テレビの向こう側で戦争だけでなく、各々の主張を通す為に争いがあることは知っている。ただ、知っているだけで、その現状を知らないくせに、夕貴は知ったかぶりでテレビに向かって「話し合いで解決すればいいのに」や「何で互いに攻撃し合っているのか」とか、言うばかりだ。それは、誰もが思う事だけど、誰にも解らないのかもしれない。

 現国の授業で先生が言っていた。

「人間は言語や文字を持ち、己の感情や考えを相手に伝えられる動物だ」と。それ故に争いも起こる。しかし、解り合えるはずなのだ。

 あの森から離れてしまったが、ハロやリノたちの話しを聞く限り、白の国は様子を見ていただけだ。夕貴もいつそんな場面に出くわすかもしれない。

 そう考えると、嫌なドキドキが押し寄せてきて思わず腕に力が籠った。

「ワッフ!」

「ん?どうしたの?」

「ワフッ」

「うん。大丈夫だよ。まだ、寝ててもいいよ。明るくなったら起こしてあげる」

「…フゥン……」

 夕貴をジッと見ていたが、何か考えていたのか暫く寝ない様に頑張っていたが、コクリコクリ、と頭が前後してそのまま寝てしまった。それがなんとも可愛らしく、先ほどまでに憂いは忘れてしまっていた。

 兄の様子を気にし続けるリノを見て、夕貴は一層この子を大切にしようと決めた。

 ハロの言った通り、ここで何かを得れば自分だけでなく、新しい家族も守ることができる。自分の為だけなら手を抜いてしまうかもしれない。でも、この子が一緒なら大丈夫だ。

「リノ」

「何だよ。…ったく、兄さんも人が好過ぎるんだよ」

「リノ。私、ちゃんと頑張る」

「は?」

 夕貴の決意を聞いたリノは訝しげな顔をして、首を傾げるが兄の事を気にしているせいか、夕貴の言葉は右から左だ。

 いつ家に帰れるか分からない。その時に仔犬を連れていけるかどうかも知らない。ただ、頑張ろうと思う。どんな結果になろうと、その時まで自分の意思が折れない様に。


「――って、思ってたけど…心が折れそうです」

「アフッ!」

「可愛いね。あー、可愛いよ。…でも、疲れたよ。だって、毎日毎日歩き続けて、何日目だ?」

「四日目だよ。口より足を動かせよ。兄さんはあの子供背負って歩いてるんだぞ」

「…日に日にリノの機嫌が悪くなっていく」

 道中リオが幼い子供を気遣っている為か、リノの目つきが悪くなり、もともと悪い口も輪にかけて悪くなっているのは気のせいではない。

 そんな弟を知ってか知らずか、リオはあの老夫婦から預かった子供とずっと一緒だった。

 むくれているリノを置いて、夕貴は小走りでリオの元へ向かう。

「リオ」

「ユウキ。どうした?疲れたかい?」

「いや、そうじゃなくて…疲れたのは確かなんだけど」

「…もしかして、リノの事か?」

「うん。リノの機嫌が良くないよ。私が口出すことじゃないかもしれないけど…あんな事があった後だからさ、リノと一緒にいた方が良いんじゃない?」

 なんとなく、口を出していい事か解らなかったので、夕貴はリオを見ずに仔犬の頭を見ながら小さな声で言う。

 そんな夕貴を見て、リオは口元を綻ばせる。

「ユウキは優しいな。でも、こんな小さな子一人で歩かせるわけにいかないし、こんな時だからこそ…一緒じゃなくても大丈夫ならないと」

「これから中央街に行くんだから、まだ一緒に居てもいいじゃん。大人になるまで一緒でもいいんじゃない?その子と歩くのだってリノと一緒で」

「…そうだな……」

 リオは優しく笑って、地面を見ながら黙々と歩き続ける弟を振り返った。

「リノ!」

 自分を呼んだ兄をチラリと見て、口を噤んだまま視線だけで「なに?」と問いかける。

 リオが思っていたよりも彼の弟は、寂しかったらしい。それに苦笑したリオはリノに自分の荷物を少し持ってくれ、と頼んだ。

「…別に俺の助けはいらないんじゃないの?」

「この子が寝てるから言えるが…実は昨日から腕が痛くてな。荷物を少しでも持ってくれると、有り難いんだ」

「!な、ならそいつを歩かせろよ!もう少しで中央街なんだし!」

「リノ、声が大きい。…そんなわけにいかないだろ?まだ、こんなに小さいんだし」

「だからって…」

 兄の背中にいる子供をまるで敵の様に睨むリノに、夕貴は仔犬を下ろしてため息一つ。自分の開いた両手をリオに差し出した。

「リオ。私が持つよ、荷物」

「ユウキ」

「体力はあるよ、きっとリノより」

「おい!」

「ほら、荷物ちょうだい」

 いくら本人が良しとしても、女の子に荷物を渡すのは申し訳ない、とリオは悩んでいたが、夕貴が有無を言わさず荷物を奪い取る。

 毎日毎日歩き通して疲れてはいるが、小学校低学年の頃からバレーボールのチームに入って、体を動かしているのだ、疲れていても体が動く限りどうにかできる。

 リオの荷物の中に、革張りのノートを入れさせてもらい、肩に担ぐ。ズシリと重さがかかり、子供を背負いながら四日間歩いていたのか、と感心とともに呆れてしまった。

「おい、ユウキ。俺が持つ…」

「いいよ。リノはこの子を抱いてあげて」

「え…」

 リノは夕貴の足元で、えっちらおっちらと歩く小さな黒いモコモコに手を伸ばすと、さっと避けられる。

「おい…、なんで避ける」

 ちらりとリノを見上げると、仔犬は大きく鼻を鳴らしてテコテコと歩き続ける。

 イラっとしながらもリノは、夕貴から頼まれた手前何とかして抱こうと、再度手を伸ばすがやはり避けられた。

「この野郎…」

「リノ、口悪いぞ」

「歩きたいのかな?ごめん、リノ。抱っこされるのは嫌みたいだから、遠くに行かないように見てて」

「…あいつ、絶対俺を舐めてる。こうなったら意地でも持ち上げてやる」

 仔犬の頑なな行動にリノの闘争心に火が付き、先ほどよりも勢いよく腕を伸ばした。もう、抱き上げる為に手を伸ばした、とかではなく躍起になっているとしか言いようがない。

 そんな弟に呆れた表情を向けていたリオだが、どことなく楽しそうな顔をしている。

「楽しそうだね」

「ああ、本当にあいつは…。悪いな、ユウキ」

「あの子も楽しんでいるみたいだし…それに、私が楽しそうって言ったのはリノのことじゃなくてリオのことだよ」

「俺?」

「うん。楽しそうって言うよりも、嬉しそうって言葉のほうがあっているかも」

 夕貴の言葉に少し驚いた顔をしたリオは、困ったように笑い。目線は背中の子供とリノを交互に見て、ポツリ、ポツリと話し始めた。

「…うちの親父はリノが小さい頃に出て行ったから、あいつは顔も覚えていないと思うけど…俺がリノの父親代わりだったんだ。母さんは俺たち兄弟を食わすために朝から暗くなるまでずーっと働き通し。…申し訳なかったな」

 リオは背中にいる幼い子供に昔のリノを重ねてみているのだろう。その目はひどく優しい。

 父親は一日中仕事だが、母親は午前中のパートをしている夕貴にとっては、学校から帰れば必ず誰かがいる。それが当たり前だった。

 部活で疲れた身体に、温かいお風呂と用意された食事。きっと口に出せばひどく贅沢な話に聞こえるだろう。

「俺が育てたわけじゃないけど、リノの成長は母さんより俺が知っているし、理解していると思うけど、これからはそうじゃダメなんだよな」

「なんで?中央街に行っても一緒でしょ?」

「ははっ。ユウキ、ボルンさんの話し聞いてなかった?」

「…あの人の声聞いているだけでムカムカして、それどころじゃなかった」

 夕貴の素直な言葉にリオは思わず笑い、慌てて周囲を見渡す。余計な火種はないほうがいい。

「俺たちは王都に行ったら、全寮制の学校に入る。年齢が違えば、習う分野も変わる…毎日会っていたのが、寮だけになるかもしれない。今まで通りとはいかないんだ」

 仔犬を追いかけるリノを見つめる目は、地面に移った。

「…リオは寂しいの?」

「いや、俺じゃなくて…リノが寂しがるかと心配で」

「リノもきっとリオに会えないのを寂しいって思うだろうけど、リオはリノが離れていくのが寂しいみたい。だから、自分から距離を置いたの?」

「……」

「寮でしか会えないなら、ご飯は必ず一緒に食べるとか、宿題は一緒のテーブルでするとか…休みの日は一緒に過ごすとか、考えればいいんじゃない?友達がたくさんできて、楽しいことがいっぱいになっても、友達と兄弟は別だよ。友達に話せなくてもリオには話せることもあるだろうし」

「ユウキ…お前は誰に話すんだ?友達に言えないこと…」

 リオの言葉は途中で尻すぼみになったが、後に続く言葉は分かる。“家族がいないのに”だろう。

 そんな彼に夕貴は本当のことが言えない申し訳なさ、と確かにここに家族がいない不安を持ちながら笑って答えた。

「あの子がいる」

「はっ?」

「相談しても答えが返ってこないし、悩んでも心配してくれないかもしれないけど、それでもあの子といれば頑張れる。あの子と一緒にいたいから強くなろうって思える。今の私にはそれだけで十分」

 夕貴は周りが思っているより強い人間ではない。それでも、虚勢を張りたくなるのは性格のせいだ。

「…そうだな。俺もリノがいるから頑張りたいって思うよ」

「リノも同じだと思うよ。じゃなかったら、ヤキモチ焼かないって」

 夕貴の言葉に、リオは仔犬に噛まれているリノを見て、夕貴を見た。背中のフィンを見て、思わず笑いだす。

「あははっ、そうか…あいつがヤキモチね。あ、あははは。まだまだ、俺の弟だ」

「まだまだ、じゃないよ。ずっとリオの弟だよ」

「確かに」

 リオと夕貴の笑い声が聞こえたのか、リノは目を吊り上げて暴れる仔犬を抱えて、叫んだ。

「ユウキ!こいつやだ!俺が荷物持つ」

 仔犬もリノに抱かれるのが嫌なのか、短い手でリノの顔を押しながら唸り声をあげていた。

 これから、新しい土地で不安を抱えて生きていく兄弟と、自分の国ではない不安を持ち続けている夕貴も、この時の笑い声は意地ではなく、心からのものだった。

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