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ファントム・ミラー  作者: ひかり
【第一部】幻視鏡をさがして
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第8話 お尻さわってごめんね

 そして今、イーア達は男爵家の庭にある樫の木を見上げている。

 ひときわ大きなその木は、屋敷の裏側に広がる林の中にあった。


「この地に元々あったそうです。ご先祖様がこの木を気に入って、この地を買い上げて屋敷を建てたと聞きました」

 イーアの隣に立つマーナがそう説明する。

 確かに、かなり古そうだ。張り出している根だけでも、イーアどころか大人の人間以上の大きさがある。


「確かに、これだけ古ければ精霊が宿っていても不思議ではないね」

「本当に……精霊が?」

 イーアの言葉に、マーナは先ほど説明したときと同じように、驚いた表情で彼を見上げる。


 今日も彼女は可愛らしいエメラルド色のドレスを身につけ、完璧に愛らしいお嬢様だ。だが昨日の話と、チルが調べ上げた情報によるとこの家の家計は火の車のはず。

 先程目にした屋敷も、そして最初に案内されたガセボも庭も、どこも手入れが行き届いていない。

 使用人も最初に屋敷に迎え入れた年配の執事らしき男性以外見当たらない。

 その中で可愛らしく着飾っているマーナの存在だけが異質だ。


 だが、昨日と変わらず素直にイーアの言葉に耳を傾け、そして初めて会う男爵令嬢に扮しているチルにも笑顔で語りかけている。

 ひとかけらも嫌味は感じないので、根はいい子だと思うのだが。


「あの木は春先には真っ赤な花を咲かせます。珍しいでしょう?」

 そう言ったのは、一緒についてきた執事だった。整えた髭も頭髪も既に真っ白だが、動きはきびきびして迷いがない。

 なぜだか、この執事と最初に対峙した時チルが緊張したのを感じた。

 馬車から降りる彼女をエスコートしたときに僅かに手が震えた、ただそれだけだが。


 なので、イーアもこの執事に対しては気を張っている。そんなイーアにマーナが無邪気に笑いかけた。

「そう、とっても綺麗なんですよ」

「真っ赤な花?」

 イーアが聞き返す。

 隣のチルが怪訝な顔をしたからだ。


 樫の木については特に知識がない。

 花の形も記憶にないくらいだが……真っ赤な花を、と言うのは引っかかる。

 それがあの精霊の瞳の色だからだろうか。

「昔は白いお花だったそうです。それがいつの間にか、変わってしまって。不思議ですよね」

 マーナにとってはそんなものなのだろう。首を傾げ、でも赤の方が綺麗だから、と呑気に言っている。


「あの執事さんは、長いのかい?」

 そのマーナに少し体を寄せて、彼女にだけ聞こえるようにイーアは話しかけた。マーナが一瞬びっくりしたように体を震わせる。

「わたしが、生まれた時から仕えてくれています。父の母もほとんど居ないので、屋敷のことは任せっきりで……」

 それから少し恥ずかしそうに俯いた。


 つまりは、今この屋敷の権限を持つのはあの執事だということになる。

「なるほど」


「イーア」

 この屋敷に来てから言葉が少ないチルに呼ばれて、イーアは振り向いた。

「どうされました? アガーテお嬢様」

「少し木のそばに行きたいわ」

 貴族令嬢になりきったチルが、ふんわりと柔らかい微笑みで言う。


 チルの真正面に立つとイーアはすこし緊張する。なによりその水色の瞳で見つめられると、なんだか落ち着かない気持ちになる。


 昨日の夜までは普通に『同性の友達』だったのに、今朝から突然『異性の友達』になったのだから、自分の動揺はごく当たり前だと思う。

 ましてや昨日の夜一緒に座ったことや、今朝までチルの布団で自分は寝ていたわけで……。

 顔が赤くなりそうなのを必死になって堪える。


「かしこまりました。お嬢様」

 イーアが手を差し出すと、チルは上品な仕草でその上に自分の手を添える。そっとスカートを押さえながら、ごつごつと張り出した木の根元に近づいた。


 それを離れたところから見ていたマーナが、ちょっとだけ頬を膨らませている。


「やっぱりあのお嬢様、おまえに惚れたみたいだぞ」

 二人に聞かれないほど離れた場所に来てから、チルがいつもの口調で言った。

「惚れたって。子供だよ?」

「お前もな」

 二人にしか聞こえない小声で囁き、笑い合う。

 ちなみにこれまで、チルの貴族令嬢もイーアの従僕も完璧である。


 それをちょっと羨ましそうに見ているマーナには申し訳ないが、イーアはチルをしっかりエスコートせねばと張り切っていた。

 今の彼女は高いヒールを履いているのだから。


「お前はこの木、どう思う?」

「そうだね、大きさのわりに生気が弱い。……精霊が宿っているようには思えない」

「少し枯れている枝があるしな」


 チルがイーアの手から離れて歩き出す。

「まぁ屋敷に近いし、もしかしたら『愛し子』は屋敷にいるかもしれないね」

 木に少しでも登れば、男爵家の屋敷の裏手を一望できるだろう。


「いや、違うな」

 チルがはっきりと断言したので、イーアは彼女の手元を覗き込む。

 回り込んだ裏側は日の光が当たらないからか、少しジメジメしている。木の根元には苔が生え、土の色も濃い。苔に覆われているが、根本は少し腐っているようだ。


 イーアは少し眉を寄せて、そこに近づいた。


「何か感じないか?」

 チルの言葉に、イーアは少し身を屈める。

 正面から見たときには無かった精霊の気配がそこにあった。消えそうなほど弱い精霊が必死に何かを護ろうとしている、そんな気がした。


 ぞくりとイーアの背中に悪寒が走る。

「……愛し子は、ここにいる」

 この土の中に。

 チルが頷いた、その直後。


「イーア!」

 名を呼ばれ強く手を引かれる。

 思わず体制が崩れたイーアの頭髪を少し削るようにして、ダガーが大木に突き刺さった。


「なに!?」

 イーアが体制を立て直し背後に目をやると、チルがどこから出したのか短剣を握り、イーアとダガーを投げた人物の間に滑り込んでいた。

 彼女に対峙していたのは、件の執事だ。


「なんの予告もなく殺そうなんざ、野蛮じゃねぇの?」

 チルがいつもの口調で叫ぶと、執事は地面を蹴った。年齢の割には体が軽い。かんっと金属のぶつかる音が響く。


「何処からかぎつけたのやら……公城の者か!?」

 執事は思いっきり勘違いをしているようだが、チルは答える余裕がないようだ。

 執事が振った大ぶりのダガーをチルは短剣で受け止め、睨み合うことしばし、すぐにチルが剣を払って後ろに飛び退った。


 圧倒的に力負けしている。チルはおそらく、肉弾戦向きではないのだ。


「チル」

「畜生、いきなりなんだってんだ!」

「チル、さがって」

「はぁ!?」


 残念ながら、今イーアは剣を持っていない。

 ふざけんなお前!と叫ぶチルから半ば強引に剣を奪うと、イーアは執事の正面に立つ。

 足元は悪いが、それがなんだと言うのだ。


 執事を睨み付け、一歩踏み出す。

 明らかに相手が怯むのを感じ、そのまま短剣を振りおろす。殺傷能力の低い片刃のショートソードで良かった。身構えた執事の手元を払い、彼がよろめいた次の瞬間にその体を強く打つ。骨が折れた音がした。


 奇襲には弱いが、正面から対峙したイーアが負けるわけがない。既に大人の騎士相手にも、ほとんどの場合イーアは勝つのだから。


 木の根元に吹っ飛んだ執事を見ながら、イーアは息を吐く。直ぐに自分の上着を脱いで、執事を縛り上げた。


「チル、怪我はないか?」

 手を動かしながら振り向くと、チルは呆然と立っていた。

 結び目が確かなことを確認してから、直ぐに彼女のそばに行く。

「大丈夫?」

 肩に手をかけると、その薄い肩が小さく震えた。口元だけで笑う。


「こんなんだから、俺はもう役立たずなんだなぁ」

 それは明らかな自嘲だった。イーアは少し、眉を寄せる。

 チルが今にも泣きそうな顔だったので、イーアは目線を合わせて、言い聞かせるように言った。


「チル、役立たずなんて言い方はだめだよ?」

 チルの目は真正面に立つイーアを見ていない。それを不安に感じて、イーアは思わず彼女の顔を覗き込んだ。

「チルはちゃんと僕の命を救ってくれたよ? 君が助けてくれなかったら、僕の頭は今頃欠けていたよ?」


 はっとしたようにチルがイーアを見た。


「すごいね。僕は鈍くて奇襲にすごく弱いんだけど、チルはすごく早く気がついた。ありがとう。僕を守ってくれたんだから、役立たずじゃない」

 イーアは笑う。

「力押しは僕に任せて。この通り訓練だけはしてるから」


 一瞬、チルは何か言いたげな顔をしたが、それでも頷いた。

「ん……」

「うん、本当にありがとう」

 なんだか妹のことを思い出してしまい、イーアは思わずチルの頭に触れて、そしてすぐにはっとした。流石にこれは、子供扱いしすぎではないだろうか。

「しっ失礼した!」


 慌てて手を引っ込めたイーアを不思議そうに見上げて、チルは首を傾げる。それからはっとしたように、後ろに一歩下がった。

「お前、近いって! っと」


 そのまま、チルが後ろ側にバランスを崩したので、イーアは慌ててその手を掴む。

 転ばずには済んだものの、チルはその場にぺたんと座りこみ顔を歪めた。そして困ったように笑いながら、イーアを見上げた。

「イーアごめん。さっき足痛めたかも」

「え?」


 見ると、確かにチルの右足首が少し赤くなっている。執事に襲われた時に捻ったのかもしれない。

「ハイヒールなんて履いてくるんじゃなかったー! イーア、なんか掴まる物持ってきてくれ。ちょっと立てないみたい」


 さっきの泣きそうな顔は何処へやら。今はしまったーという顔で苦笑いしている。

 その表情がころころ変わる様が楽しくて、イーアの口元が緩んでしまう。

 なんというか、可愛い。


「僕はハイヒールを履いてくれて嬉しかったよ? 視線が同じだったからね」

 そう言うと、イーアは腕を伸ばしてチルを抱えた。


「お前、何すんだ!」

 チルの抗議の声はとりあえず無視する。抱えると言っても、横抱きではない。いつも彼が妹たちにしているように、イーアの肘に座らせるような片手抱きだ。

 妹はイーアの頭にぺったり手を回してくっつくが、流石に身長のそう変わらないチルはそういかない。空いた手で支えても少し不安定だが、仕方ない。

「しっかり捕まっていて」

 念を押すように言いながら、木の影から出た。チルはさすがに不安定で怖かったのか、イーアの首に手を回している。


 そこから、林の中で気を失っているマーナと、屋敷の方から近づいてくる数人の人影が見えた。

 先頭には帝国騎士団の制服を身につけたアル、それに続くのはこのワルド大公国の軍人のようだ。

 軍隊は犯罪の鎮圧や捜査に対応する部隊もあるので、おそらくその担当者だろう。


「相変わらず読まれてるな」

 アルの仕事の速さに悔し紛れでつぶやくと、チルが唸った。

「こんな姿見られたら、すげぇ笑われるから、下ろして」

 先ほどまではぎゃんぎゃんと喚いていたのに、今その声は懇願に変わっている。


 イーアは笑った。

「笑ったらちゃんと僕から叱るから、大丈夫だよ」

「そういう問題じゃねぇ……」


 あ、とイーアはそのチルの顔を見上げて言う。

「一応謝る。お尻触ってごめんね」

「今言うことじゃねえっ」

 顔を真っ赤にして涙目でチルが抗議する。その顔を見ながら、やっぱり可愛いな、とイーアは思った。



お読みいただき、ありがとうございます。

第一部は残り1話、お付き合いいただきありがとうございます! 面白いと思っていただけたら嬉しいです。


案の定アルに揶揄われ、チルはますます涙目になりました。

いちおう上司として叱りましたが、まだイーアはアルには勝てません。いろいろな意味で。



イーア「模擬戦、なかなかアルには勝てないんだよね」

チル「それは…(アルの事だから何かずるいことをしてイーアの気を逸らしたり不意打ちしてるんだろうけど、こいつ気がついてないみたいだから言わない方がいいよなー)お前が弱いからじゃね?」

イーア「うっ…」

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