【エピローグ】
チルはひとつ息を吐いて、天井を見上げる。
大夜会のみに使われる広大なホールは、まるで昼間のように煌々と明るい。去年『黒翼の魔女』が開発した新魔導具『明珠』の輝きだ。
「……数は少ないのに、すげぇ明るいな」
チルが感動して言うと、隣に立つイーアは嬉しそうに口角を上げた。ご満悦な彼を見上げ、チルはにっこりと微笑む。
「頑張ったもんな。主に鴉さんが」
チルの言葉にイーアは面白くなさそうに少しだけ眉を寄せたので、その様が楽しくてチルはにんまりと笑う。
今日のイーアは公爵としての正装、漆黒の礼服に身を包み、皇帝と公の位の者にしか許されていないマントを羽織っている。その隣に立つチルのドレスも豪奢な漆黒のもの。今年は夫婦で合わせたのだが、なかなか魔王の妻っぽくて大満足である。
挨拶の時はイーアに恥をかかせないように、付け焼き刃な公爵夫人を演じているが、周りに側近たちしかいない今は少し気持ちが楽だ。少し緩んだ緊張のまま、今日もまたかっこいいなぁと自分の夫を見上げる。
二十歳ごろまで伸びていたイーアの身長もようやく落ちつき、だいぶチルと身長差が出来てしまった。相変わらず鍛えているがっちりした体格の夫を、チルは誇らしい気持ちで見上げる。威風堂々という言葉が相応く、決して感情豊かとはいえない彼だが、その瞳はいつも優しい。
この数年、黒翼の魔女が発明しイーアが普及させた魔導具の数は八つほど。一番新しいのがこの明珠で、今までの灯りの道具に比べて格段に扱いやすく、そして安価なものだ。今回はお披露目も兼ねてこの大夜会で使用しているこれが、帝国中に普及してくれれば庶民の暮らしに欠かせない物になるだろう。
チルの夫は毎日忙しく働いている。限られた時間しかないのに、それを自分の為に使うのではなく、帝国の発展のために費やしていた。
新しい魔道具の開発に、庶民や女性、子供を守るためのいくつもの新法。その仕事は政務軍部と幅広い。そのため皇都内ではイーアは庶民に慕われている。次期皇帝にとの声もあるが、決して奢ることなく、真摯にしっかりと自分の責務を果たしている。
チルはそんな夫を心の底から尊敬に値すると思うし、愛おしいと思う。
「僕も結構頑張ったと思うのに、奥さんにわかってもらえない」
イーアがチルの耳元でそう囁く。呼気がくすぐったくって、その低い声がチルの体に甘く響いた。
「わかってるよ。お前はすげぇやつだ」
見上げた紫水晶の瞳をしっかりと見つめながらチルは言う。愛おしそうにチルを見つめるイーアの瞳が、そっと形を変えた。
「ああ、今日も僕の奥さんが可愛い。来週からまた離れなきゃいけないなんて無理だ。チル、今年は君もシュヴァルツエーデに行かないか?」
イーアが小さな声で愁然とそう言うので、おもわずチルはその顔をまじまじと見る。イーアは新年の儀礼の直後から初夏までの間はシュヴァルツエーデで働くので、毎年その時期は一人で領地に行くのだが。
「ちびどもがいるのに無理だってわかってんだろ。お前は相変わらず寂しがりやだな」
チルは去年の秋に子供を産んでいる。二度目の出産だが、今回は双子だった。生後数ヶ月、とてもじゃないが旅など無理だ。
「わかっているよ。あそこは女神の膝元だからね。君たちを連れていくわけには行かないけど」
そう言いながら、イーアはチルを抱き寄せる。
「でも本当は、一時も君と離れていたくないんだ」
その頼もしい腕に囲われると、チルは今でも心臓が早鐘を打つ。自分には分不相応な夫だと思うが、それでもこの腕から離れる気にはなれない。
「こら、いちゃつくんじゃない。始まるぞ」
こそこそ小声で話す二人の後ろに立つ、イーアの側近のアルが小声で二人に釘を刺す。慌てて顔を上げると、ちょうど壇上では各国の王侯貴族との謁見を終えた皇帝の、新年の言祝ぎが始まったところだった。短いその言葉が終わると、いよいよ今や年に一度になってしまった帝国主催の舞踏会のはじまりだ。そして毎年、その始まりを飾るのはイーアとチル夫婦だったのだが。
「今年は緊張するね」
隣に立つイーアの体が強張る。チルは少しだけ愉快な気持ちでそんな彼を見上げた。
「おまえ、本当に心配性だな」
今年は皇帝自ら、妃である妻の手を取る。
これまで公の場所に出たことのない彼の妻、イーアの生母ナディアは皇帝ユリウスに引かれてホールの中央に粛々と歩いていく。
この場にいる貴族のほとんどが、皇妃ナディアの姿を初めて見るのだろう。
その幻想的な桃色の髪が、ふわりと揺れていた。元々は別な色だったと言うが、チルが知るナディアの髪はこの色だ。
実年齢よりだいぶ若く見えるその顔を上げると、会場のあちこちから息を呑む気配がした。やわらかい微笑みを浮かべたぽってりとした唇に、可愛らしい丸い鼻、そして大きな瞳はきらきらとした朱紅の色。女性らしいふっくらとしたその左手の薬指に光るのは、今や皇妃の象徴となった桃金剛石。その手を伸ばし、長身の皇帝のしっかりとした手に添える。
ふわふわと揺れるドレスは比較的明るい色の紫色だ。チルはナディはもっと明るい色の方が似合うと抗議したのだが、皇帝はこの色以外を纏うことは許さなかったと言う。
癖のない銀髪を珍しく三つ編みに結えている皇帝は、今日も漆黒の仮面をつけていた。彼の服は臙脂色と漆黒を組み合わせた服なので、二人が並ぶと全く雰囲気が違う。義理の両親となったこの二人のことを、陽だまりと地下室ってくらい違うなとチルはいつも思っている。
「だって母上だよ? 何をやらかすかわからない」
こそこそと耳元で話すイーアの声に、チルもついつい唇が緩んでしまう。
「大丈夫だよ。相変わらずマザコンだな」
厳かな楽師たちの音楽が始まると、皇帝が皇妃の手を取り滑るように踊り出す。息を呑むほど美しいのは皇帝のリードが上手い事もあるのだろうが、ナディアもしっかり彼の動きについている。
「ナディ、すげぇ運動神経良いんだからな。この前もうちのおさるが木に登ったのを追いかけて木登りしてたからな」
「はぁ!? 何してるのうちの娘」
チルの言うおさるとは今年、二歳半になるイーアとチル夫婦の長女だ。最初はとても静かだった娘だが、最近はとてつもなく元気いっぱいなので、チルは時々おさると呼んでいる。もちろん本人の前では言わないが。
ナディが目覚めて体力が回復してからは、ずっと一緒に子育てしてくれているので、双子の世話が忙しい時はお任せっきりになってしまっていた。
「全力疾走で脱走したちびを捕獲した時はすごかったぞー。ナディはほんとすごい。ちびがどこに隠れていても見つけるし、抜け道とかも詳しいからすぐに連れ戻してくれるし」
実際、ナディアのおかげでチルの子育ては非常に助かっている。最近では末娘のユーリアを引き連れて紫蘭宮に住んでいるような状況だ。
「それは、感服した」
イーアがほうっとため息混じりに言う。だがすぐに、その瞳を和らげた。
「それにしても、僕より僕の母上と仲が良いって。ちょっと妬けてしまうけど」
「安心しろ。一応、今んとこお前が一番好きだ」
チルの投げやりな言葉に、イーアがふふっと笑う。
「ナディ、楽しそうだな。良かった」
どうにもあの夫婦は危なかしい。
息子のイーアはあまり感じてないようだが、束縛の強すぎる夫と外に飛び出したい妻の組み合わせは、見ている方が心配になる。その上にあの皇帝は時々、とんでもないことをしてナディを困らせるのだ。
(あれ、自覚あるかないかわかんないけど、試し行動ってやつだよなぁ)
チルがあれこれ考えている間に、会場の中央では二人が踊り終えていた。するとナディアは表情薄く自分を見下ろす夫からあっさりと視線を逸らし、会場内を見渡す。そしてイーアとチルの姿を認めると、まるで子供のようににここにこと満面の笑顔を浮かべた。
「ありゃ」
「母上」
無事に終わってほっと息を吐いていたイーアは、その笑顔を見て苦笑する。
「やっぱりやってしまった。父上が拗ねるじゃないか」
イーアが困ったように言うので、チルは同意する。皇帝はもっと自分を見ていて欲しかっただろうに、やはり彼女の興味は外に向いているらしい。
「まぁしょうがねぇな。ナディらしい」
不満げな皇帝はナディアの手を引いて、もう一曲踊るつもりらしい。ぽかんとした顔で彼に手を引かれるナディアを、チルはちょっとだけ同情しつつ見送る。
続いて軽やかな音楽が流れ始め、人々はそれぞれ自分のパートナーの手を取った。イーアも壊れものを扱うような優しい手で、チルの手を取る。
イーアの紫水晶の瞳がそっと柔らかくチルを見下ろしていた。チルはしっかりとその瞳を見返す。ーーこれ以上ないほどの愛おしさを込めて。
「さあ、行こう」
「おう」
一方その頃会場の隅っこで。
ブリュンヒルデ「さぁヴェルナー様、私と踊ってくださいませ」
ヴェルナー「嫌だ。ここで踊ったら本当に君と結婚しなくてはならなくなる。絶対に嫌だ」
ブ「…今年のヴェルナーさまのご予算を増やしても良いと思っていましたのに…残念ですわ」
ヴ「うっ…一回だけなら、一回だけなら…」
ブリュンヒルデとノーヴァ公の攻防は続いているようです。
お読みいただきありがとうございました!
これにてファントム・ミラーは完結となります。
元々、この物語はユーリアが主役のお話の前日譚として考えていました。なので、この後のお話は妹のユーリアが引き継いでくれると思います。
そのユーリアのお話のほかにも、
ティグノスの恋姫のお話や、ノルデンやシュテレの恋物語など、書きたいものや完成しているお話がいっぱいあるので、ちょこちょこ投稿していこうかなぁと思います。
拙い作品ですが、どうぞよろしくお願い致します。
読んでくださり、本当にありがとうございました。
いっぱいの感謝を込めて。




