第26話 ふたりならんで、いっぱいの笑顔で
夏だと言うのに、ひんやりとした清澄な空気が辺りを包んでいる。ここはベルンシュタインで最も標高が高い場所で、そのため真夏でも長袖は手放せないのだ。
目の前に広がる、水色の湖を見て、チルは大きくため息をつく。
リンの話を聞いた時、物語でその名前を目にした時、いつも夢想していたその湖の色は、チルの想像よりはるかに美しく、澄んでいる。そしてその湖を見下ろすように建てられたヴァイシェーン城も想像を遥かに超える美しさだった。白亜の壁と紺青の屋根の対比が印象的で、おそらくこの光景をチルは一生忘れることはないだろうと思う。
すぐ後ろに立つイーアが説明する。
「フロレンティア湖は火山湖なんだ。だから、綺麗に見えても生き物には過酷な環境で、魚もほとんどいないそうだよ?」
「へぇ……」
こんなに綺麗なのに、生者を受け入れないなんて。なんだかまるで死者の世界そのもののよう。
魅入られたように城を見つめるチルの肩を、イーアがそっと抱く。
「チル、寒くないか? 思ったより気温が低い……外套を持ってくればよかったね」
心配そうにそう言うイーアの顔をチルは見上げる。彼はこの一年でさらに背も伸び、精悍さが増した。自分が十七歳の時はもう少し幼かったと思うが、思えば彼は昔から大人びた子供だった。
帝国では、結婚・出産が許されるには十七歳からとされている。帰還から半年後、今年の新年の儀礼で十七歳になったイーアは、その後すぐにチルと結婚をした。イーアがまだ学生ということもあり、正式な結婚式は挙げておらず、身内だけが集まって細やかな祝いをしただけだ。
なので、今のチルはイーアの妻ということになる。寮生活のイーアとは基本女神の祝日くらいしか会えないが、とても大切にしてくれるし、甲斐甲斐しく世話も焼いてくれている。
今回の旅行は学園の長期休暇を利用し、ようやく時間を取れたイーアが、オイゲンを恋人の墓に送り届けることが目的だったが、実質ふたりの新婚旅行だ。そこにちょっとした気恥ずかしさがないわけではない。
(だってこいつ、ますますかっこよくなってるし……)
整った顔も、均整のとれた体格も何一つ変わっていないのだが、それが自分の夫だというのにはいつまで経っても慣れない。しかもイーアは男性の姿の時のチルにも変わらず愛情を示すので、その度にチルは照れたり恥ずかしくなったりしてしまう。今も少しだけ、頬が熱い。
「でも、無事に幽さんの恋人の墓が見つかってよかったなー」
気恥ずかしさを振り切るように言うと、イーアは真面目な顔で頷いた。その目が少し怖い。
「本当だね。墓の詳細な情報を求めたら、まさか偽情報を寄越すとは……ルイス殿はよっぽど私のことが嫌いなようだな」
そんな地味な嫌がらせをするルイスは、次期ベルンシュタイン大公就任が内定している。だが、どうにもイーアとは犬猿の仲のようだ。
シュヴァルツエーデ公に嫁ぐにあたり、チルの貴族籍はノルデンではなくベルンシュタインに戻された。これはイーアの希望で、おそらく十年後を見据えてのことなのだろう、とチルは思う。なので、現状ルイスはチルの弟だ。
イーアは事あるごとに嫌味っぽく『お義兄様と呼んでいただいて構わない』と言っているのを、チルは知っている。その度にルイスが憤怒していることも。
(こいつら、なんともならんかなー)
チルははぁ、とため息を吐く。
「まーた魔王みたいな顔になってんぞー。幽さんの恋人の気配はどこにもなかったけど……でも、一緒の場所で眠れるなら、それはきっと幸せだよな」
チルがしみじみと言うと、蕩けそうな優しい顔をしたイーアが、おもむろにチルの額にキスをした。
「ちょ、お前!」
場所を変え角度を変え、頬や瞼に口付けが落ちてくる。慌てて両手で抵抗し、イーアの腕の中から逃れた。それは体力のないチルには大変な労働だったが、睨みあげてもイーアは楽しそうに目を窄めているだけだ。
「鏡が無事に戻ってきて良かったよ。今となっては、母上とこの世界を繋ぐものはこれしかないからね」
イーアはそう言いながら、懐に手を当てる。そこにはあの緋虎の鏡があったはずだ。
「ナディ……早く戻ってくれば良いのにな」
「たぶん、母上はそう遠くない未来には戻るだろう。だから心配しなくて大丈夫だよ。チル」
イーアの言葉に、チルは弾かれたように顔を上げた。だが、そんなチルにイーアは穏やかな微笑みを返すだけだ。
「今夜はあのお城に泊まるよ。温泉もあるから、楽しみだね」
そう言いながら、イーアはチルに横に白馬をとめる。ヴェルザー卿から送られたチルの愛馬は、とても美しい白馬のイオス。まだ若い牝馬だが、チルによく懐いてくれるし、とても気が合う。名前も何だか親しみやすくて、チルはすぐにイオスが大好きになった。
イオスも嬉しそうにチルの肩に鼻面を擦り付ける。
「温泉! 俺、入ったことない!」
ワルドには温泉はなかったので、チルはこの北峰の旅行で温泉をとても楽しみにしていた。
チルがイオスに乗ると、数歩前でイーアがリゼに乗馬し、そして悪戯っぽい顔で振り向いた。
「じゃあ、一緒に入る?」
「はぁ!?」
素っ頓狂な声を上げたチルの後ろで、久々に護衛騎士として同行しているアルがくつくつと笑う。その後ろには、ちゃっかり今日合流したルッソも居た。
「チルのやつ、すっかりあいつに遊ばれてんな」
「良いんじゃなーい? 楽しそうだしー」
その二人をきつく睨みながら、チルはイオスの歩みを早める。
遊ばれていようが揶揄われていようが、イーアはチルの愛おしい夫だ。そのそばに居たい。
リゼの横に並びながら、チルはイーアの顔を睨みつけた。だけど結局、幸せそうなイーアの笑顔につられて、チルも幸せいっぱいの笑顔になってしまうのだ。
読んでくださりありがとうございます!
第三部本編の最終話でした。
無事に二人は夫婦になることができました。
まだちょっと問題も残っていますが、一旦二人のお話は完結となります。
お付き合い頂きありがとうございます!
この後【終】、
【登場人物】、【異想譚】が四話程続き、
最後に【エピローグ】でファントム・ミラーは完結となります。
これに続く物語は、ユーリアが頑張ってくれる筈です!
最後までお付き合いくださいませ。よろしくお願いいたします。




