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ファントム・ミラー  作者: ひかり
【第三部】鏡の狭間【三】
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第24話 鏡の狭間にて

 メメが鏡の狭間と呼んでいた、そこは不思議な世界だった。


 見渡す限り、地平線の果てまで続く鏡のような湖と、そこに映し出される空。青く澄んだ空には無数の雲があり、音もなく静かに流れている。


 まるで生き物の気配を感じない水の上を、イーアは無言で歩いていた。

 暑くも寒くもない。温度という概念が消えてしまったかのような錯覚に襲われるが、出掛けにリンの祝福を受けた額だけはとても温かかった。


 先程まで背後にぴたりと張り付いていた白亜の気配はもうない。イーアをこの鏡の狭間に置き去って、さっさと主人の元に帰ったのだろう。取り残された不安よりも、どこまで信頼していいかわからない白亜が離れたことの方が安心感が強い。


(メメがチルを気に入ったのが意外だったな)


 リンから離れないチルのそばで、メメはにやにや笑いながら『……綺麗だから、気持ちいい……』と言い続けていた。呆れたようにチルが

『俺ひと殺してんだけど……』というと、メメは泡を吹いて気絶してしまった。なのに、今もチルのそばにいる。


(僕が戻らなくても、チルは大丈夫そうだな)


 弱気だと、怒られてしまうかもしれないが、イーアはふとそう思う。


(まぁ、戻るけどね。必ず)

 帰ったら、母の指輪を返さなければならない。そしてオイゲンを北峰の陵墓まで連れて行かなければならないのだ。やはり、帰らないわけには行かないようだ。



 太陽もなければ、方向を指し示すものは一つもない。だいぶ長いこと歩いているうちに、前方はるか彼方に金色の光が見えた。

 イーアはそこを目指して、ひたすら歩く。


 光の正体は、淡く金色に発光する翼の塊だった。折れたかのような翼が小山のように重なる中に、一人の幼女が力無く座っている。袖のない白いワンピースから伸びた手足は、細く青白い。右肩口は陶器のようにひび割れていた。見慣れた顔も青白く、酷く気だるげに瞳を開けた。


「おにいさま……わたしを殺しにきたの?」


 幼女がそっとひび割れた唇を開く。

 イーアはひっそりと眉根を寄せた。


「君と、話がしたいと思った」

「まぁ……嬉しい。わたしもいっぱい……お話ししたいことが、ありますのよ」

 幼女の声は酷く穏やかで、そして隠しきれない喜色を孕んでいる。


「私はあまり饒舌な方ではないから。君の話を聞きたい」


 イーアの言葉に、幼女のオパールの瞳が大きく見開く。夢見るような口調は、とても幸せそうだった。


「そうね……お兄様はいつも、そう……。わたしはいつも一人でお喋りしていて、お兄様は笑顔で聞いてくださったわ……優しくて、強いお兄様……」


「そう。優しい人なのだな」

 なんて自分とは違うのだろう、とイーアは思う。自分はいつも妹を叱ったり怯えさせたりしている。


「そう、優しくて……皆大好きだったわ。メメもビビも、ザザも……お兄様が大好き……。みなで、あの嵐の中、手を繋いで……」

 幼女が目を瞑ると、一筋、涙が溢れて落ちた。


「そうか。お兄様の、名前は?」


「……『あかつき』よ……」


「『あかつき』?」

 聞き慣れない発音に、イーアは思わず鸚鵡返しをする。すると幼女は満たされたような、蕩けるような笑顔を浮かべた。


「そう……夜明けという、名前……。お兄様は私たちを真っ暗な暗闇の夜から……明るい朝に導いてくれた……忘れられない、なまえよ……」


「そうか……」

 その言葉ひとつひとつに、深い思慕を感じる。


「……あんなふうに苦しんで、痛みの中で……消えてしまったお兄様……。お兄様が望んだ……この世界を、苦しみのない、……幸せな世界にするの、わたし……」

 幼女の瞳が大きく開く。その瞳には昏い光が宿っていた。

「そして……一緒に生きるの……今度こそ」


「お兄様が君を拒んだら、どうするんだい?」

 イーアは我ながら、この弱りきって壊れそうな幼女に、なんと残酷なことを聞くのだろうと思う。


「……拒んだら、また、拒んだら……? また……火吹く山を揺り動かすわ……。それとも、海の門を開くかしら……。そうしたらお兄様は、きっと、わたしを受け入れて……。

 いえ……そんなことをしたら、お兄様の望みが……いけない……そんなことをしてはいけないわ……」


 話しながら、幼女の目の色が暗く翳る。そして落ち着きなくその瞳が震えた。

 それを見ながら、イーアは掌を強く握る。食い込んだ爪の痛み以上に、胸が痛かった。

 こうしてこの女神は、狂気と正気の狭間を行き来しながら、この世界を守護していたのだ。この長い年月。


「そうか。だが私は、君の『お兄様』ではない」

 この弱りきった存在に、この言葉を伝えるのはむごいことだ。そんな自分の非情さに嫌悪を感じながらも、イーアは続ける。

 どうあっても、自分はこの女神の為には生きることができないのだから。

「だから、君の望むものを僕は君に与えることができない」


 ふと彷徨っていた幼女の瞳が、すっとイーアに定まる。青白い顔の窪んだ眼窩から、絶望に染まった大きな瞳がイーアをしっかりと見つめる。


「そう……あなたはわたしの『お兄様』ではないのね……」

 女神は自嘲するように笑う。そして真っ直ぐに手を伸ばし、イーアを指差した。


「ならば、選ばせてあげるわ……。わたくしを望むか、もしくはその体を……わたくしに明け渡しなさい」

 もはや女神の瞳に狂気の色はない。イーアはしっかりと彼女の顔を見返す。


「どちらも選べない、と言ったら? これは私の体だ」

「……強欲な人の子……。全てのものは……その体も、繁栄も、全てはわたくしが与えたもの……」


「ならば奪うといい」

 イーアは静かに笑う。

「なんの犠牲もなく与えられたものだ。突然取り上げられても、なんの文句も言えないだろう。だが、貴女はそれをしない。それが兄の望みに反するからだ」


 無風だった空間が揺れる。イーアの背後から風が吹き、女神の金の翼が騒ついた。挑戦的な目で自分を見るイーアを、女神は静かに見つめ返す。


「……十年、あげるわ。お兄様」

 幼女は艶やかで高慢な笑顔を浮かべる。

「確かに……わたくしは人への庇護を取り上げない。泥濘の中で悶え苦しみながら、守り続けるわ……永遠に。だからあなたは……あなただけは」


 そして満たされたように、笑う。


「魂などいらない。その器だけでじゅうぶん……。だから、わたくしは慈悲深い女神だから、十年だけ人の世界を楽しみなさい……。その間、好きに生きると良い……あの琥珀の娘も許すわ……。

 ただし次の千年紀は、お兄様はわたくしの隣にいるの。共に、永永無窮の時を過ごすの……」


 イーアは強く奥歯を噛む。背後から吹く風はますます強くなる。


「私には最初から拒否する権利などない、ということか」


 女神はにっこりと微笑む。そこに先ほどまでの、危うさも絶望もなかった。おそらくこれこそが、本来の彼女なのだろう。


「愛しているわ。お兄様。その器……今までの中で、いちばんの最高傑作ですもの……。さぁ、お話は終わり。人も世に帰って、十年を謳歌して。来るべき次の千年紀のために……」


 ますます風が強くなる。立っていられなくなったイーアが手をついたその一瞬、目を上げると女神の姿が消えていた。あの黄金の翼ごと。


「……結局、こうなるのか」


 透明な水が滴る右手でイーアは前髪をかきあげる。深く深く息を吐き、立ち上がった。


「どうやって帰ろうか」

 女神が消えた今、この鏡の空間はどこを向いても同じ、延々と広がる水と空しかない。当然のように白亜の気配も見当たらないので、イーアには帰る手段がない。


 視界の端にどこかに、何か異変がないかと目を凝らした時、何かがイーアの左手に触れた。

 驚いてそちらを見ると、幼い少女がイーアの手を引いている。歳のころは四、五才と言ったところだろうか。見慣れた蜂蜜色の髪に、藍玉を思わせる大きな瞳。その見慣れた顔を見て一瞬チルかと思い息を呑んだが、その子供の金髪は大きく波打っている。チルはほぼ直毛なので、おそらく全く違う子供だろう。

 少しだけ子供らしくない、得意げに見上げる顔には、なんとなく見覚えがあった。


「リン……?」


 ただし、人間であった頃のジークリンデの瞳は、大地の加護が色濃い黒鳶色だったという。澄んだ水色の瞳は、黒翼の魔女レヴィンのものだ。その違和感に戸惑うイーアの手を、少女はぐいぐい引っ張る。

 腰を屈めながら歩き始めたイーアを、少女は振り返りながら満足そうに見返す。そしてもう一度イーアが疑問を口にしようとした時、世界が銀色の光に包まれた。




お読みいただき、ありがとうございます。

本編も残すところ3話ほどとなりました。

長らくお付き合いくださり、ありがとうございます。



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