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ファントム・ミラー  作者: ひかり
【第三部】鏡の狭間【三】
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第18話 銀の泉の広場にて

 ぺちぺちと、誰かが自分の頬に触れている。


 チルはぱちっと目を開けて、勢いよく起き上がった。そしてまず、自分の今の姿を見て仰天する。


「うわっ!」

 シャツは破かれ、下着も裂かれたらしく肌が露わになっている。スラックスもどこかに行ってしまったのか、下半身は下履きだけだけ。ほぼ裸と変わらない状態だが、首元にかけていた紫水晶のペンダントだけは無事だった。


「嘘だろうー!!」

 チルの服は借り物だ。しかもこのシャツはリーベル夫人の息子の私物を貸してくれたものなので、衝撃が大きい。


「……毒を抜いた途端に元気だな。さすが琥珀の眷属(けんぞく)

 女性にしては低く男性なら高い、笑いを含んだ声がしてチルは顔を上げる。そしてびっくりするほど笑顔の女性と目が合った。チルは驚いて体を震わせる。


 彼女はチルのすぐ側に座っていた。目線がチルより少し低い小柄な女性で、幻想的な桃色の髪がふわふわと揺れている。すでに成人している女性のようだが、幾つくらいなのかさっぱり見当がつかない。少し垂れ気味の大きな瞳は明るい朱紅色で、それが嬉しそうにきらきらと光りながらチルを見つめていた。一見すると普通の貴族の女性のようだが。


 呆然と自分を見返すチルを見て、嬉しいそうに両手を叩いた。女性らしいふっくらとしたその腕と、左手の薬指にひかる桃金剛石(ピンクダイヤモンド)の指輪。


 チルは思わず息を呑みながら、彼女の姿をまじまじと見た。その面差しは、イーアの末の妹によく似ている。


「イーアの、母ちゃんか?」

 チルが恐る恐る言うと、彼女は両掌の指を胸の前で組み、ますます目を輝かせて頷く。にこにこーっと笑いながらチルを見つめ返した。嬉しくて嬉しくてたまらないという感じだ。


「えっと……あんたが助けてくれたのか……」

 チルの言葉に、女性は首を激しく振って肯定を伝える。だがすぐにはっとしたように、自分の背後を手のひらで示した。


「……ナディ、まずは服を着せておあげ。ここには女性しかいないが、流石に目のやり場に困る」

 どうやら、この声の主は別の人物らしい。

 手前の女性が立ち上がり、その奥にいたもう一人の女性と目が合う。その姿を見て、チルは息を呑んだ。


「こんにちは、琥珀の眷属(けんぞく)。私はジルという。ナディがどうしても君を救いたいというので、手を貸したものだ」


 そう言う女性は、岩の上に座る恐ろしく長い銀の髪の女だった。銀の髪は彼女を覆い、さらに苔むした地面に波打つように広がっている。さらに滝の水が上から下に流れるように、銀の光が絶えずその髪を流れていた。


 印象的なその髪に比べると、淡白な面差しは記憶に残りにくい。目を逸らしてしまったらそれだけで、どんな顔だったか忘れてしまいそうだ。ただその瞳、白色の虹彩の中いろいろな色が踊る蛋白石(オパール)のような瞳。これは忘れる事はできないだろうとチルは思う。


 着ている服は見たことのないデザインのもので、真っ黒な生地をたくさん使った布を胸のところで合わせ、白い大きな帯をしている。その上に乗った赤い飾り紐が可愛らしい。黒い布の裏地は赤色で、ちらりと見えた白い足と赤の裏地が印象的だ。


(ああ、女神だな)

 チルはそう感覚で悟った。六柱いる創世の女神、おそらくその一柱だろう。色合いからして銀の女神だろうか。


「俺はチル……って、もう知っているんだろうけど」


 銀の女神(ジル)は薄く笑う。


 チルは辺りをきょろきょろと見回した。周囲には低く巨大な木が大量に茂っている。図鑑で見たどこかの原生林のような森の中にいるらしい。チルから見て左手の岩場に銀の女神(ジル)が腰掛けており、右手は恐ろしいほどに澄んだ水たまりがあった。

「ここは?」


「此界と晄界の狭間だな。お前のように、本来晄界に来るべきでない者がくる場所だ。わたしは銀の泉の広場と呼んでいる」


「へぇ……」


 かなり大きな森らしいが、生き物の気配は全くない。チルにとって身短な存在である、幽霊や人の残置思念といったものも全く感じられなかった。

 木立の間から先程の桃色の髪の女性が戻ってきた。手には何やら、長い布を抱えている。そしてチルのシャツを脱がせ、下履きだけになった体にその布をぐるぐると巻きつけた。


「……もう少し他になかったのか」

 呆れるような銀の女神の言葉にも、女性は得意げに笑顔を返す。チルも彼女にされるがままになり、最終的に脇の下から太ももの辺りまでぐるぐると巻かれる状態になった。端をしっかり固定しているらしく、簡単には解けなさそうだ。


「……変わった服だな」

 困惑してチルが言っても、彼女は褒められて嬉しいとでも言わんばかりに喜んでいる。露出した肩を隠すために、とりあえず破れたシャツを羽織ることにした。


「ちなみにその娘がナディだ。……知っているかもしれないが」

 ナディは言葉を発することができないのだろうか。さっきから一言も喋らないが、身振り手振りだけでかなり饒舌だ。いまも自分を指さしながら、大きく頷いている。


「えーっと、なんで俺、助けてもらったんだろ?」

「ナディが助けろと煩くてな。そこの泉で、何か見たのだろう」

「泉?」

「そう。時の鏡という泉だ。過去未来、ありとあらゆる景色を映し出す。さらに夢を導き、過去の光景を見させることもある。昔それと似たようなものを作って、人にくれてやったことがあって……ナディがあんまりにも暇そうだったので、作ってやったんだ」


「はぁ!? すごいなそれ……!」

 チルは振り返り、自分の背後にある水たまりを見る。水底が見えるほど澄んでいるが、目を凝らしてみてもそれ以上のものは何も見えなかった。


「残念ながら私の眷属(けんぞく)のものしか扱えないな」

 楽しそうな笑い声がしたので、チルは思わずじろりと女神を睨め付けた。女神は堪えきれなかったのか声を出して笑っている。

「いや、なかなか素直でよろしい。普通は疑ってかかると思うのだが……なるほど」


 女神は細い指先で涙を拭った。涙が出るほどおかしかったらしい。


「その鏡は未来に関してはとても不安定でな……『起きるかもしれない未来』と『確定した未来』の区別がつかない。だからどうなるか、未来は予測不可能だが……。あそこでお前が金の手に落ちれば、まぁおそらく良くない未来に繋がったのだろう。それがどんなものかは、ナディにしかわからないが……」


「へぇ……」

 よくわからないまま、チルはもう一度泉を見る。何度見ても、ただの透明な水にしか見えない。


 その時、がさがさと背後の茂みから、ナディが何かを引きずりだした。かなり乱暴に扱っているそれが、先ほどまで一緒にいた青年と気がついてチルは慌てる。


「クルト!」

 伸ばしかけた手がびくりと震えた。確かクルトは、大怪我をしていなかったか。


 しかしナディがずるずる引き摺る彼は、どこからも血が溢れていなかった。チルは手を伸ばし、その手に触れる。顔色は悪いが、それでもちゃんと生きていた。


「よかった……」

 泣きそうな気持ちで呟くと、やはりナディが得意げな顔をした。むふーと鼻息も荒い。

「ありがとう。あんたが助けてくれたんだな」


「傷を癒したのは私だがな。ちなみにチル、君の傷もなくなっているはずだ」

 背後から楽しそうな声が聞こえる。


「お? そういえば俺、殴られて……」

 自分の体をしっかり確認するが、どこも痛くはない。ピアスが引きちぎられた、耳朶も癒えていた。ピアスホールまで消えているので、新しく穴を開けければならないようだ。


「だが、そうのんびりはしておれんぞ。ここは命あるものにとっては、長く居てはいけない場所……その子供の魂はこちらに来ておらぬようだが、お前はこちらに魂が定着してしまう。どうにかして返さなけばならないのだが……」


 銀の女神が困ったように首を傾げた。

「私は此界に干渉する術を持たないのだよ。眷属(けんぞく)のナディすら返してあげれないからね。はてどうしようか」

 話しながら、女神はふと空を見上げる。

「おや? もうお迎えが来たようだ」


 その言葉とほぼ同時に、苔むした地面にすたりと小さな黒猫が降り立つ。彼女はチルを見ると目をまんまるにし、そして『にーー』と叫びながら飛びついてきた。


「チル! よかった! チルがいたわ!」

「リン?!」

「よかった見つけたー! いちおう魂の軌跡を辿ったんだけど、なかなか見つけられなくて……」

 にゃーあにゃー泣きながら、リンはチルの胸元に額を擦り付ける。その暖かさに、チルはほっとした。


 リンの後に降り立った真っ白な人物の姿に、チルは首を傾げる。ベルンシュタインの屋敷で見た肖像画の、リンのパートナーの男性に似てはいるが。


「おや、白亜か。久しいな」

 銀の女神が嬉しそうに言う。言われた方は胸に手を当てて頭を下げた。

「まさか君が迎えにくるとは。メメが絡んでいるのか?」


「いえ……我が主人は今も昔も変わらず、人の世に興味はないようです」

「そうか、相変わらずだな」

 銀の女神は声を出して笑う。そしてふと、その瞳をリンに移す。それから不思議そうに首を傾けた。


「そして君が琥珀(ビビ)の魂を持つものか……猫だな」

「……こんにちは。銀の女神」

 リンの声は少し緊張している。チルは思わず、リンを抱きしめた。その様子に、銀の女神はそっと目を窄める。


「なるほど、こうしてみると同じ魂の色だな。だが、娘は琥珀より黒に近いようだ。その様子では、人の世では生きづらかろう。……半分死者の国に魂が染まっている」


「死者の国!?」

 チルがぎょっと声を上げると、ととっとナディが駆け寄り、背後からチルを抱きしめた。


「おお!?」

 ここにきた時と同じく、ぎゅうっと抱きしめる腕の力は強い。その腕に囚われて、リンも目をぱちくりとさせながらナディを見ている。


「……わかった。この娘に加護を与えればいいのだな? ナディ」

 呆れたような女神の声に、ナディはぶんぶんと強く頷く。少し怖いくらい、真面目な顔で。


「……私の加護なんぞ、役に立つのか? まぁ……おいで。チル」

 銀の女神が手招きする。

 ナディも背中をぐいぐい押すので、チルはそっと女神に近づいた。おっかなびっくり、苔の上をうねりながら広がる銀の髪を跨ぎながら、石の上に寛ぐ彼女のそばに行く。少し段差があるので見上げる形になったが、間近で見る女神は穏やかな顔をしていた。少し首を傾げつつ、チルの顔をしっかりと見ている。


「私は人に世に関わらぬと決めた。だが、眷属(けんぞく)の長子の願いは拒めぬ……。チル、お前の行く道が明るいものであるように」


 女神はそう言いながら、そっと手を伸ばす。黒く染まった長い爪の先に銀の光が宿った。

 ゆるゆると手を伸ばす銀の女神の服の袖に、真っ赤な紐のような花の絵が描かれている。それに見惚れた一瞬、女神の爪が額に触れた。


「これで多少は死者たちに好かれることが減るだろう。気休め程度のものだと思うがね」


「……ありがとう」


 チルは空いている手で額に触れた。なんだかそこだけ、ぽかぽかと暖かい気がする。

 ふと目があったリンが、戸惑いながらナディと銀の女神を交互に見ていた。


「銀の女神……あなたの眷属(けんぞく)の長子は、ナディアなの?」


「そうだよ。琥珀の魂を継ぐジークリンデ」

 銀の女神は穏やかに笑う。

「と言っても、わたしの影響力はだいぶ弱くなったようで……この子は朱の力が強いな」


 ナディはそっと首を傾げる。

 嬉しそうに笑いながら、チルが抱えるリンの額にキスをした。リンも不思議そうにナディを見上げている。


「さぁ、もうお帰り。白亜、帰り道は大丈夫か?」


「……それが、ここに来るまでいくつもの晄界を跨ってきたので。ここがどこかさっぱりわかりません。帰り道も見えぬのですが……」


「ええっ、じゃあ私たち帰れないじゃない!」


 白亜が真面目な顔でとぼけたことを言うので、リンが驚いて声を上げる。銀の女神は楽しそうにくすくすと笑った。


「と言うことは、メメも隠れてしまったのだな。あの子はお前がいないと過呼吸を起こすから……早く帰ってあげねば。そうだな、チル。鏡の幽霊を呼んでごらん。あの者の名前はオイゲンだ。オイゲン・カーナリエ」


 銀の女神がつらつらと言うので、チルは呆気に取られて彼女を見る。

「わたしは未来であり、過去であり、今であり、可能性でもある。そんなに不思議な顔をする必要はない」


「なんか……すごいな」

 チルの素直な言葉に、嬉しそうに女神はころころ笑う。よくよく見れば十代後半のまだ若い娘のよう。


「じゃあ、ちょっと待って……えっと、オイゲン……」

 心の中でその名を呼ぶと、時計の秒針のように、何かがかちりと動く音がした。


 女神が遥碧の空を見上げる。

「繋がったようだ。……清らかなあの(マナ)の力を感じる……さすが、浄化と再生の血だな」


「これで帰れるわ! さすがチルね!」

「やった! 俺じゃなくて幽さんがすごいんじゃね?」

 飛び跳ねて喜ぶ二人の後ろで、ナディも嬉しそうに手を叩く。


「なぁ、イーアの母ちゃんも、一緒に帰ろうぜ? イーア、すごいあんたのために頑張っているから……」

 チルの言葉に、ナディは穏やかな顔でゆるゆると首を横に振る。


「すまないが、ナディは帰ることができないな……その子は体を残して魂だけの状態だ。体に引き寄せ、定着させるには膨大な力が必要となる。魂の繋がったのにしかできない」


「魂?」


「そうだ。お前たちのような血縁で、かつ強い力を持つものだな。……今の金では弾かれてしまうので、この子の長男では難しかったのだよ」

 ナディは頷き、それからにっこりと笑う。チルの空いている手をそっと取ると、その手のひらに指先で文字を書いた。


 チルは集中してその文字を読みとるが、すぐに首を傾げた。


「『おちび』『どうぞ』?」

 チルの言葉に、ナディははっとしたように顔を上げた。そしてぶんぶん首を横に振りながら、もう一度文字を描く。今度はひどく真剣な顔で。


「『イーア』『よろしく』 イーアをよろしく、か?」

 ナディが満面の笑顔で嬉しそうに頷いた。


「わかった。俺に何ができるかわかんないけど、あいつの役に立つよう、頑張る」


 ナディはちょっとだけ不服そうな顔をしながらも、しっかり頷く。

 そしてもう一度、チルの手のひらに文字を滑らせた。


「『待つ』『ここで』 うん……」

 なんだか無性に悲しくて、鼻の奥がつんとする。そんなチルを嬉しそうに見つめて、ナディはにっこりと微笑んだ。


 まるで太陽の光のような、強くて温かくて、そして眩しい笑顔だった。




長いお話になってしまいました。

半分に割るのも中途半端だったので…

お読みいただきありがとうございます。


次回からはちょっと目線が変わり、ルイス目線のお話になります!

次回からもよろしくお願いいたします。

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