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ファントム・ミラー  作者: ひかり
【第三部】鏡の狭間【ニ】
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【異想譚】金の瞳 紅の記憶(一)

とても長くなってしまったので、二つに分けています。

「このクソが!!」


 聞き慣れない下品な言葉とともに、盛大な水音がしたのでディは慌てて振り向いた。


 背後の川では、ディが初めて忠誠を誓い、あるじと決めた青年がひとり、水浴びをしている。彼はこんな言葉を使うような人ではないので、ディはひどく驚いた。

 誰かの罵声は怖い。心臓がどきどきする。


 季節は真夏、皇都からすこし南下したこの森の中も、ただ木陰に座っているだけでもしっとり汗をかく。暑い太陽に照らされた体に、冷たい小川の水は心地よい。

 ディは水浴びをするあるじのため、見張のつもりでここにいた。彼は他人に肌を見られるのを嫌がる。なので、誰も来ないように、自分も見てしまわないように、ディは少し離れた場所にいたのだが。


「ユーリ、どうした!?」


 ディの言葉は幼い。舌ったらずな喋り方のせいで、実年齢の十三歳よりずっと子供に見えてしまう。仕方ない。ディはあるじに会うまで、まともに会話してくれる人がほとんど居なかったのだから。


 恥ずかしくて、喋ることを怖がっていたディに言葉を教えてくれたのはあるじのユーリだ。彼と出会って、ディの世界は変わった。だからディにとってこの主人は、唯一無二の存在だ。


 そのディがたいそう恩義を感じているあるじは、小川の中で立ちすくんで両手で顔を覆っている。


 不安になったディは迷わずに川に飛び込んだ。小川といってもさほど流れは激しくない。川底の石の鋭さに一瞬怯みはしたが、不器用に水中を歩きながら、そのそばに行く。

 あるじの肩口でざんばらに切り揃えた銀の髪から雫がぽたぽたと落ちて、穏やかな流れの水面に吸い込まれていく。


 あるじは上半身は裸で、下に薄い下履きを履いているだけ。全部濡れてしまったが、この陽気ならすぐに乾いてくれるだろう。


「ユー……じゃなくてあるじ、だいじょうぶか? いたいのか?」


 彼の体は瘡蓋だらけ、さらにあちこち皮膚が赤く爛れている。暗闇の中ではいつも見ていたけれど、明るい場所で主人をしっかりと見るのはディも初めてだった。


 この傷のどれかに水が沁みたんだろうか。それとも気がついていない大きな怪我をしていたのだろうか。そういえば顔にも大きな傷があった。あれが痛むのだろうか。


 ディは慌てて、両手で顔を覆っているあるじの両手に触れる。


 背の小さいディがあるじの顔を見るなら、見上げるしか無い。

 至近距離で見上げた彼の顔には、かわらず酷い爛れがあった。だが、ディは目を見開いてあるじを見つめる。


 なんて綺麗なんだろう。


 手入れもされず、洗いざらしの髪はボサボサしていて痛々しい。だが、水面の光を受けてキラキラ光る銀の絹糸のよう。無事な肌は陶磁器のように白く、美しい。

 すらりと伸びた鼻梁に、驚いたように見返してくるのは紫の澄んだ美しい瞳。

 顔の右側はひどく爛れて、まつ毛や眉毛は失われてしまっているが、それでもその瞳の美しさは損なわれていなかった。


 最初にあるじに会った時、彼の瞳は虚だった。

 だが今は、知性を感じさせる確かな眼差しがディに注がれている。きらめく明るい紫色の瞳は、とても綺麗なのにひどく揺れていた。まるで泣いているみたいに。


 泣いている?

 ディの知るあるじは、いつも言葉が少なく、感情を表さない静かな人だ。そんな彼が泣いているなんて。

 それほどまで傷が痛いのだろうか。


「ユー……、あるじ?」

 先程、彼のしもべだという男の人に怒られたのだ。あるじはこの地上で最も尊きひとなので、軽々しく名を呼んではいけないそうだ。

 ちゃんと頭では理解しているけど、呼び馴染んでいた名前の方がすぐに出る。あるじ、は少し言いづらい。

 一方のあるじは、自分を覗き込むディを不思議そうに見返している。もうすでに、いつものような感情のない顔だった。


「なんでもない……ただ、わたしには父も母もいないと思い知っただけだ」

 頭上からすとんと落ちてくる声は、静かで低い。それは耳に心地よくて、ディは思わず目を細めた。


「じゃあディとおんなじだよ。あるじ」

「……おなじ?」

「うん、ディも親いないよ。すごーく昔、ギルはいたけど、今はいない。だからおなじだよ?」


 主君はやはり無表情のまま、ディを見下ろしている。ディがおかしなことを言うから呆れているのだろうか。

 ディが無意識に首を傾げると、主人もこてりと真似をした。その仕草は表情が薄いこともあり、昔王宮の庭で遊んだ小鳥たちに少し似ている。


「なぜ」

「うん?」

「なぜディはそんなに嬉しそうなんだ」


 指摘されて、はっとディは息を呑む。

 親がいないことは一般的に、喜んで良いことではないだろう。


「ごめん、あるじ! ディはあるじと全然違う身分のお人だってさっき言われたから……でもいっしょだなって、ちょっとうれしくて」


 なんて子供っぽいことを言ってしまったのだろう。

 あるじは呆れているかもしれない。そう思うと恥ずかしくて顔が熱くなった。


 いや違う、そういう事じゃない。


 ディは知っている。

 自分は卑き民と呼ばれている。そんなに身分の違う人間と一緒だと言われて、気分を悪くしただろうか。


 恐る恐る彼の顔を見上げた時、遠くから声がした。


「おーい、お二人さん。焚き火の用意ができましたよ。そろそろ上がってください!」


 あるじの僕だという二人の男のうち、褐色の髪の男の声だ。ディが見上げると、だいぶ離れた河岸でもくもくと煙が上がっている。少しいい匂いもするので、何か食事を用意してくれているのかもしれない。


「今行く!」

 あるじが声を張り上げた。

 低く響く声はとても柔らかくて、ディは大好きだ。今まで男の人はディを見ると叫んだり、馬鹿にして笑ったりしていたけれど、あるじはそんなことをしない。だからますます好きだ。

 ただ、飲まされた毒の影響か、時々少し掠れたような音がするのがすごく勿体無い。……でも、喋れるようになっただけ、良かったんだ。きっと。


 あるじの手が伸び、ディの腕を掴む。ざぶざぶと岸辺に向かって歩きながら、あるじが言った。

「…………初めから同じだろう? お前は私と同じ人間だ」


 そっけない言い方だったが、すごく嬉しい。

「うん!」


 岸辺では褐色の髪の男が布を持って二人を迎えた。あるじはすぐに濡れた下履きを脱ぎ、乾いた服を身に纏う。濡れた髪と顔の右側を隠すように、布を頭に巻いた。


「近くの街にモーリッツが買い物に行ったので、もうすぐ戻ります。とりあえずこれを」

「エド、ありがとう」

 男物の服をきっちり着る主人の体は、しゃんとまっすぐ伸びている。ディはそれを見つめて、胸がぎゅっと締め付けらような感覚を覚えた。すごく、嬉しかったのだ。




 最初に会った時、あるじはその長い体を力無く投げ出していた。目も虚でディがどれだけ話しかけても何の反応もなかった。


『この塔の中にいるのはとても特別な人だ。だが、今はもう人間じゃなくなってる。今日からお前がこの方の世話をするんだ』


 そう言われ、冷たい石造りの塔の深部、地下にある暗いあの場所に投げ入れられたのがちょうど三年前。石の床に敷かれた布の上で、鎖に繋がれ、汚物と吐瀉物に塗れたあるじと初めて会った。


『いいか、絶対に死なせるなよ?』

 そうディに命令した兵士は、足早にその場を去って行った。吐き気がするほどの汚臭と、澱んだ空気。最初の頃、ディも何度も気が遠くなりかけた。


 体を拭き、食事と排泄の世話をし、寝具を取り換え服をかえた。命じられた薬は最初の一年はちゃんと飲ませていたが、効果はなかったので勝手にやめた。あんな苦くて嫌な匂いのするものを毎日飲むなんて、自分だったら絶対嫌だ。


 その最初の一年、あるじはディの呼びかけには何の反応もせず、全く動く事もなかった。時々唸り声をあげたが、意思の疎通は全くできなかった。

 薬を止めて半年ほど経った頃、あるじが魘されたように声を上げた。ちょうど真冬、冷え切った彼を温めるために、ディはその横で丸くなって寝ていた時だ。その時はただ、何か夢を見ているのかと思った程度だったが。


 その数日後あるじの指が動き、また微かに声を上げた。嬉しくなったディは全身を摩り、一生懸命に話しかけた。だが、他人と触れ合ったことのなかったディは、主人が回復しつつあることを兵士に報告しなかったし、その必要も理解していなかった。

 そうして二年目の夏には、あるじの瞳に知性の光が宿り始めた。

 ただし体は動かない、言葉を話すことができない。


 ようやくわずかに話すことができるようになったのが半年前、半身を起こすことができたのが三ヶ月前だ。そして、外に自由に出ることが出来たディが主人の命令通りに外に手紙を出したのが僅か三日前。


 今朝、食事と水をあるじのところに持って行ったら、知らない覆面の男が二人いた。悲鳴をあげそうになったディの喉元にナイフを突きつけられ、怖くて泣きそうになったが、あるじに庇われてついでに一緒に塔から連れ出されてしまった。


(なんか、あるじ、もう大丈夫なんだね)


 骸骨みたいに痩せ細って、垢と汚物に塗れていた彼はもういない。まだ痩身ではあるが、しゃきりと伸びた背中と、穏やかな知性を感じる眼差し。


 真冬のなんの温もりもない夜、冷え切った獣が互いを温め合うように、あるじとディが密着して夜を過ごしたことは一度やニ度ではない。

 ものを知らない、文字を読む事もできないディはただ寄り添う事でしか彼を癒やせなかった。もしちゃんと知識のある人だったら、もっとちゃんとした方法が使えたことだろう。


 それを思うと、本当に申し訳なく思う。


「ほら、お嬢ちゃんも何突っ立ってるんだい? 体を冷やすのは良くないから、さっさと着替えてきなさい」


 だいぶ長い事ぼうっとしてしまったらしい。

 褐色の髪の男、あるじがエドと呼んだ男が心配そうにディを覗き込んできた。

 ディは驚いて目をぱちくりさせる。


「いや、ぼうずかと思ったんだが、女の子だろう? 男物の服しかないが、おじさんの服で勘弁しておくれ。あの木の裏で着替えておいで」


 エドの気遣わしげな金色の瞳を見て、ふと懐かしさが込み上げる。だがすぐに、背中を嫌な感覚が走った。

「……くしゅっ」


「言わんこっちゃない。今スープを作ってるからそれを飲んで体を温めなさい」

 すんと鼻水を啜りながら、ディは頷く。主君も驚いた顔でこちらを見ていた。


 隠していたわけではない。ディは痩せっぽっちで背も小さいし、栄養状態も悪いので一見男か女か分かりにくい。そしてあの王宮の片隅で、獣の子のように放置されて育った自分が女であることは、何か絶対に良くない事になると思っていたから、あえて性別について口にしなかっただけだ。


 でも、と濡れた服を脱ぎ、冷えた体を拭く。エドのものらしい大きな服を着て、不器用に帯を巻き、唯一の持ち物である小さな布包みを懐に大切にしまう。


 もうそろそろ、限界だったのだ。

 少しずつ自分の体が変化しつつあるのも自覚していた。女らしくなりつつある体と、隠すのに苦労する月経。ずっと寝ぐらにしていた馬小屋ではなくあるじの傍で寝るようになったのも、聡い兵士の目線を恐れてだ。


(でも、あるじ、呆れたかな)

 宮廷奴隷の小娘が自分のそばに居たのだ。

 王宮の女官たちがよくディに言うように『穢らわしい』と思っただろうか……。





お読みいただきありがとうございます。

本編にはちょっと関わりのない人たちの、番外編です。


この時点の皆様の年齢は、

ディ13歳

ユーリ20歳

エド33歳

モーリッツ32歳です。


明日は後編です。

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