第14話 黄金の翼
ガツンと虚しい音が響く。
イーアが力いっぱい蹴っても、扉は全く動かない。まるで反対側をしっかり釘で打ちつけているかのようだ。
「……女神か?」
凄まじい怒りを覚えながら、イーアは呟く。
異様な気配を感じ、図書室を飛び出したのがつい先程。まさか琥珀の女神の膝元で、金の女神の襲撃があるなんて思いもしなかった。と同時に、すっかり頭に留めていなかったこことを思い出す。
この屋敷の養子は、ノーヴァの出身だ。女神が付け入る隙など幾らでもあったのだろう。
怒りで沸騰しそうな頭の中、冷静な自分が言う。剣があれば、どうして持ってこなかったのか。
この怒りは、自分の周囲を執拗に付け狙う女神に対する物であり、迂闊だった自分に対する物だ。
「剣が……欲しい」
ぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、イーアが呟く。剣が欲しい。どんな物でも斬ることが出来る、それこそ女神すら切り捨てられるような剣。
と、右手が一瞬異様に熱くなり、次の瞬間にはイーアは望み通り、一振りの剣を握っていた。
鞘は黒鉄で出来ており、全く飾りがない。柄頭と握りの部分にも、極限まで機能性を追求したかのように、いっさいの装飾がなかった。ただずっしりと重く、唯ならぬ気配を感じる。
(天剣……?)
イーアは無言でその剣をまじまじと見、次の瞬間には鞘から抜き扉を斬った。
なんでも構わない。望みの物が手に入ったのだ。
あれだけ押してもびくともしなかった扉が、一瞬で真っ二つになった。残った扉の残骸を蹴り捨て、イーアは室内に踏み込む。すぐにチルの気配を追って、窓際を進んだ。途中進路を阻む美術品を蹴り上げ、少し開けた場所で足を止めた。
ひどい血溜まりができている。一瞬、新年の事件を思い出し、イーアの喉が震える。あの時と同じように、これは命の生存を脅かすほどの出血だ。
「まさか……」
最悪の事態が脳裏をよぎり、周りを見渡す。だが視界に映る限り、倒れている人の姿はない。
「チル!」
間違いなく、先ほどまで彼女の気配があったのに、今はどこにもない。焦る気持ちで名前を呼ぶが、返事はなかった。
「チル!!」
再度叫んで部屋を見渡した時、部屋の真ん中に静かに立つ幼女と目が合った。見慣れたその容姿と、金の髪。
「……君は……黄金の女神か」
イーアが嫌悪の感情を滲ませながら言うと、その子供はふんわりと笑う。蕩けそうに幸せな顔は、イーアを真っ直ぐに見ている。
「お兄様、またお会いできましたわ。何度も何度も夢の中で語りかけましたのに、全く気がついてくださらないのだもの」
幼女の姿と不釣り合いな、艶っぽい女の話し方。イーアは眉根を険しくしたまま、幼女を睨み据える。
「……いけないお兄様。他の誰も、好きにならないでって言ったのに。お兄様の妻はわたくしなのよ……? なのに他の女を愛するなんて」
幼女は蕩けるような笑顔のまま、自分の胸に手を当てる。そして少し苦しそうな表情を作ってみせた。
「……わたくし、切なくて、この胸が張り裂けそう……。でも少しの浮気なら許します。だってこの時をずっと待っていたんですもの」
「何の話だ」
イーアの吐き捨てるような口調をものともせず、幼女はにっこりと微笑む。
「今度こそ、お兄様とわたくし、夫婦になるの。そしてこの生涯が尽きるその時まで、共に歩み愛しあうのよ?」
イーアの背中をぞくりとした何かが駆け抜ける。
ヒルデの言葉の通り、イーアはこの女神の伴侶らしい。あまりの悍ましさに言葉が出ないまま、イーアの体は無意識に動いていた。
「今回は……逃げられちゃったけど……。次は絶対に――」
満足げな表情で言いかけた幼女が、大きく後ろに飛ぶ。その、先ほどまで彼女がいた場所に白銀の剣戟が落ちた。
避けられたことに気がついたイーアは、次の瞬間には地面を蹴り幼女に肉薄していた。その幼い顔が、青く染まる。
「やだっ!」
イーアが軽々と振た上げた剣が、片側の翼を切り落とす。切り口から血ではなく、金色の光が溢れてこぼれ落ちた。
「どうしてお兄様が、天剣を、わたしに向けるの!?」
泣きそうなほど顔を歪めて、幼女は脚力で大きく後ろに跳んだ。
だがすぐにイーアは彼女に接近し、迷いなく斬撃を振り下ろす。
片手で軽々と剣を振るうその様に、幼女は悲鳴をあげる。
「メメ! メメ! ここへ来なさいメメ!」
必死になってイーアを避けながら、幼女は叫んだ。意識を一瞬逸らしたためか、避けるのが遅れたその右肩に深々と天剣が突き刺さる。幼女の唇が震え、鼓膜を突き破るほどの絶叫があたりに響いた。
「メメ! わたくしを癒して! はやく!」
ぶわり、と幼女の周りを風が吹く。その風圧にイーアがたじろぎ、動きが遅くなった。
「……お兄様、わたくし、お兄様のことを、愛してるから、許せるの……だけど、もうしちゃだめ。わたしを、傷つけちゃ、だめ」
強風の向こうから、声がする。最初は幼女の声だったものが、徐々に低くなり、最後は地面の底から響くように野太くなった。
そして風が収まった時には、そこには何の姿もなかった。
「逃げられた……」
ぼそりと呟くイーアの頭は、ひどく冴えている。あの自称女神に対する激しい嫌悪はあるが、まずはチルの無事を確かめなければ。
「今のは、何だ」
背後からルイスの声がしたが、無視をする。
「おい、待て」
静止を無視して急いで先ほどの場所に戻り、チルの痕跡を探す。そして血溜まりの中に、黒い小さな黒曜石の欠片を見つけた。
心臓が痛いくらいに跳ね上がる。
そっとそれを取りあげ、観察する。やはり、見慣れたチルの物だ。一度目を瞑り、大きく息を吸う。ゆっくりと吐き出しながら、もう一度周囲をよく見た。
高価な絨毯の上には大量の血液。おそらくは、一人の人間のもの。
(ここに一人いた。多分この血はこの者のもの)
近くにビーナスの彫刻が落ちている。それについている血液は、二人分。
……そしてここに、もう一人。立って、逃げている。おそらく窓から。
「ヴィレ卿。この部屋にいた人間が一人、庭に逃げている。探してくれ」
「庭に、ですか?」
それまで無言で見守っていたエリアスが、イーアの隣に跪く。
「成人男性だ。身長は170くらい。2箇所くらい怪我をしているはずだが、おそらくそのものが襲撃犯だと思う。チルやクルトの姿が見当たらない。何かを見ている可能性がある」
「承知しました。……ディルクで間違いはないでしょう。必ず捕らえて参ります」
そう言うと即座にエリアスは動き出した。
「なぜそこまで分かるんだ……」
背後でルイスが呆れたように言うが、無視した。すぐにエリアスがベルンシュタインの兵に指示を出す。
イーアの指がふと止まる。……チルはここにいた。それほどでもないが、血が流れている。そして記憶に新しい甘ったるい花の匂い。
(魔法薬を使われ……殴られたか、蹴られたか)
チルが痛めつけられたと思うと、体の中は燃え盛る火のような激情が駆けるが、脳内はとても静かだ。これほど冷静な自分に、イーアは少し驚く。
(何かに……引き摺られたような……)
その跡をなぞる指がふと、硬質な何かに触れた。見慣れたイーアの母の大切な宝物。
(鏡……)
それを取り上げて、イーアはまじまじとそれを見つめた。
◾️ ◾️ ◾️
ベルンシュタインはこの大陸で最も歴史が深い国だ。
前身の『氷の王国』は帝国よりもさらに古い時代からあったと言われている。そこから『琥珀の王国』になったのが七百年ほど前、独立国として長く存在した国は他には無い。
それを物語るような煌びやかな応接間で、イーアの向かい側には黒髪の麗姿な男が座っている。黒翼の魔女、レヴィンだ。
彫刻を思わせるような彫りの深い顔には、はっきりと不愉快の色が見て取れる。膝の上の黒猫はじっと目を瞑ったま微動だにしない。
その前にテーブルには緋虎の鏡と、ディルクの部屋から押収した人形薬の小瓶がある。どうやらヒルデの懸念通り、人形薬は他にも出回っていたらしい。
「イーアの失態だ。ここはベルンシュタインの領域だが、それ以前に帝国の領域だ。女神の血族がいないノルデンの家ならまだしも」
「それは反論のしようがない。わたしの責任だ」
興味なさそうに言いながら、男は膝上の黒猫リンの頭をそっと撫でる。
「女神が『メメ』と?」
「呼んでいた。自分を癒せと」
「ふぅん」
男は目を瞑り首を傾けた。艶やかな黒髪が流れ落ちる。
そのタイミングで、ぱちっと黒猫が瞳を開けた。琥珀色の瞳が真っ直ぐにイーアを見る。
「やっぱり、チルは此界にいないわ。もし飛んだなら、鏡経由で晄界に行ったとしか考えられないけど……」
黒猫ははっきりと言いながら、首を傾げる
「ランベルト、この屋敷には『トートの弓』はあるの?」
「ないですな。あれは主城で保管しており、滅多に外には持ち出さぬ」
それまで黙って見守っていたランベルド・ベルンシュタインが静かに言う。猫が人の言葉を話している事になんの抵抗もないようだ。
つまり、ランベルドとリンになんらかの繋がりがあると言うことだろう。子孫と先祖なのだから、当然かもしれないが。そしておそらくこの男は、リンからチルのことを聞いて接触した。わざわざ庭師に偽装してまで。
イーアは彼を睨め付けたが、既に六十を超えている男はその視線をものともしない。
ランベルトはイーアに対し、今回の事件解明を約束した。ベール夫人の養子であるディルクは敷地内で捉えられ、今はエリアスによって取り調べを受けている。一緒にいたベール夫人も捕えられたが、こちらは今回の件は全く知らなかったと言う。どこまで信じて良いかわからないが。
だがレヴィンは、二人の供述はあてにはできないだろうと言う。おそらく、女神にうまく操られていただけなのだろうから。
とはいえこの屋敷に住む者だ。ディルクの起こした騒動の責任はベルンシュタイン大公にもあるとイーアは考えている。そもそも、彼がツェツィーリア姫に干渉しなければ、こんな事態にならなかったのに。
「だとしたら冥界は無いわ。あそこは生きている人間が体のまま行くのは難しい。媒介が無ければ無理だもの。この鏡が媒介になって、晄界に行ったとしか考えられないけど……」
「晄界か……」
イーアは苦々しく呟く。
実のところ、晄界での人探しはイーアには経験がある。なので、それがどれほど難しいかは身に沁みてわかっていた。
(チル……)
どうしてあの時、自分も一緒に行かなかったんだと、激しい後悔がイーアの心を掻き乱す。
わかっている。それほど得意でもない同級生に揶揄われて、少し向きになったのだ。その自分の言動にチルが動揺した……ような気がする。
そもそも、学園の知り合いにはチルは見せたくない。彼らが影でイーアの事をどう噂しているか知っているのに、その好奇の視線にチルを晒したくなかった。
だが、その結果がこれだ。
(……自分は、まだどうしようもなく子供だ)
間違えてばかりいる自分の無能さが本当に苦しい。結果、ヒルダの忠告通りのことが起きてしまった。防ぐ方法は幾つもあったはずなのに、あまりにも不甲斐ない自分が情けなく、奥歯を噛み締めた。
そのイーアの手に、温かい肉球が触れる。
「大丈夫よ。イーア」
いつのまにか自分の前に移動してきたのか、リンがキラキラとした琥珀色の瞳で自分を見上げている。
「ナディアの時と違って、わたしはチルの魂をよーく知っているわ。あの子の魂を探し出すなんて、朝飯前よ! それに、チルは肉体ごと晄界に飛んだ。多分、戻ってくるのもそれほど難しくないわ」
お読みいただきありがとうございます。
『トートの弓』はレヴィンが実の息子に託した唯一の武器です。必殺の武器ですので、滅多なことでは外に出せません。名前は妻を失ってやけっぱちになっていたレヴィンが適当に決めました。
次回もよろしくお願い致します!




