第13話 遠い記憶と苦い痛み
※ 暴力のシーンがあります。
苦手な方はご注意ください。
(……頭が……痛い)
朦朧とした意識の中で、チルはぼんやりとそう思った。
どこかに強く打ちつけたのだろうか。思い出そうとして思考を巡らせるが、どうにもうまく纏まらない。まるで濃い霧の中にいるように何一つ上手く掴めない。ふわふわと意識が漂う。
遠くで誰かが叫んでいる。
なんとなくそうしなければいけない気がして、チルは目を開けた。視界はぼんやりとしていて、うまく何かを捉えることができない。ただ誰かが、自分に馬乗りになって叫んでいるようだ。
その姿が、思い出したくもないあの男に重なる。動けなくなるまでチルを殴りながら、下卑た笑いを浮かべていた男。
「嘘つきやがったな! こいつどう見ても男じゃないか!」
「……間違いなく、その女よ」
叫んでいる男と、それに反論する女。女の声は幼くて高い。それがずきずき痛む頭に響いて、ひどく苦痛だった。
「黒の幻術だわ……小賢しい」
ばさばさと羽音がし、チルの顔を誰かが覗き込む。長い金の髪の幼女、だが人の部分は頭と胸の途中まで。それから下は、金色の羽毛に覆われている。
(鳥……)
凶暴な猛禽の脚が伸びて、チルの耳朶に触れる。鋭い鉤爪がぷつりと皮膚に食い込んだ。
そこには鴉さんからもらったピアスがあるはずだ。本能的に危険を感じて体を捩って逃げようとするが、全く体に力が入らない。
せめて声をあげようとするが、口内にはべたりとした液体が粘りついていて、うまくいかない。なんとか声を出そうとすると、こぷりと唇の端から何かが溢れた。ねっとりと甘い、まとわりつくような香り。
ひどく気持ちが悪い。それよりも頭が。
ずきずきとした痛みに思わず唸った、次の瞬間。
「ああっ」
耳に激痛が走り、思わず声が上がる。鉤爪が触れたところは、今は火を押し当てられたようにただ熱い。頭も耳も痛いし、体は思い通りにならない。恐ろしく苦しいはずなのに、ただ甘い香りがどんどん思考を白く染めていく。
「ほら。さっさと終わらせて」
「……本当だ」
男は唖然としたようにそう言うと、チルのシャツに手をかける。
やめて欲しくて手を動かそうとするが、まるで動かない。何かを切り裂くような音がした後、男の手が露わになったチルの乳房を掴んだ。
「ーーっ!!」
嫌だ、やめてほしい。
だが、どんなに力んでも、胸に力を入れても声が出ない。そのかわり、喘ぐような弱々しい声がチルの唇からこぼれる。
ふと、男の気配が一段と獰猛なものになった。
だめだ。これはいけない。
理不尽な暴力に晒された時は、抵抗してはいけない。ただじっと奥歯を噛んで、耐えるしかない。嫌がったり抵抗してたりしたら、余計に相手を喜ばせる。もし自分はここで泣いてしまったら、あいつはもっと喜んで、自分やルッソを甚振るだろう。
唇を噛んで、きつく目を閉じて、そうしてこの嵐のような暴力が過ぎ去るのを待つしかない。
現実と過去の記憶が入り混じり、諦めかけたその時、ふいに突然体が軽くなった。
恐る恐る目を開けると、自分に馬乗りになっていた男が頭を押さえて転がっている。なにか高級な彫刻のような物を床を放り投げた誰かが、さらに男を蹴り飛ばす。そしてもう一度男を強く殴ると、彼はチルの顔を覗き込んだ。
「チル」
助けてくれた誰かは、チルの知らない顔だった。まだ若い、少年と言ってもいい青年。蒼眼の鷹にこんな人がいただろうか。
青年は頭から流血していたが、和やかな榛色の瞳が心配いらないとでも言うように、優しげにチルを見ている。
「動くよ」
彼はチルを抱えて立ち上がる。だが、鈍い音の後すぐに地面に膝をついた。
「クルト、てめぇ!」
耳を劈くような怒声が聞こえて、嫌な音がした。骨が折れる音。
地面に投げ出されたチルの前に、先程までチルを抱えていた青年が頽れる。その頭が酷く歪な形になっていた。
(クルト……?)
逃げなければならないのに、その側から離れられない。チルは彼の体に縋り付く。
「てめぇら、殺してやる。よくも……!」
「殺すのはダメよ! その女を人形にするの! 殺してはだめ!」
「うるせぇ! この役立たずが!」
甲高い女の声に罵声を返し、男がチルに近づく。血に酔った、血走った目でチルを見下ろしていた。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、チルの体が恐怖で固まる。
(こわい……こわい……)
何が、一体何が。
指の間を流れ出る血が、命の喪失を知らせる。
先程まで、生きていた誰かが。
朦朧とした頭が何一つ答えを見出せない。立ちあがろうとしても四肢には力が入らず、ただ地面に這いつくばる事しかできない。
(――ああ、そうだ)
これが自分の人生なんだ。
殴られ蹴られるのが怖くて、自分がヘマをすると腹いせのようにルッソを苦しめるあの男が怖くて、必死に汚れ仕事をしてきた。
(――何を勘違い、してたんだろう)
そこから抜け出したような気がしてたけど、違った。自分はいまでも、どうしようもない理不尽な暴力の只中にいたのだ。
男の手が伸びて、チルの体を引き摺る。
これから起こりうることを考えて、チルは激しく震え慄いた。知っている、知らないはずがない。
幼い頃、毎晩のように殴られながら犯される兄貴分を見ていたのだから。
助けを求めるように手を伸ばし、何かを掴む。
がたがたと音がして、その何かが崩れた。
男が苛立ったようにチルの足を掴む。酷い罵声を浴びながら、チルの瞳は崩れた荷物から現れた絵画を捉えた。
澄み切った水色の湖の上、小高い場所に立つ真っ白な城。
「……フロレン、ティア……」
いつかどこかで聞いた湖の名前。話してくれたのは誰だったろう。
はるかな北の国の、山の奥にあると言う。
『すごい綺麗な湖なんだって! いつか行ってみたいね』
そう言ったのは誰だったろうか。
細くも頼もしい腕に抱かれて冬枯れの森を見た。一緒に息を吐いて、空を白く染めた。
その湖にに届くように、チルは必死になって手を伸ばした。すると、破かれたシャツの胸元から何かが滑り落ちる。チルは焦点の合わない目で、それを見た。
音を立てて地面に落ちたそれは少し古い鏡。手のひらに乗るほど小さいのに、チルにとって、かけがえのない思い出の物だ。
(かがみ、かあちゃんの……)
こんなことになるなら、ノルデンの屋敷に置いてくるべきだった。絶対に壊さないでと言われていたのに……、あいつ、怒ると怖いのに……とチルはほぞを噛む。
……誰に、言われた?
ふと、霞かかった頭の中に、はっきりとした名前が入って浮かぶ。
鉛の様に重い体を、無理やり動かす。男は既にチルのスラックスに手をかけていたが、構わずその下から抜けだそうともがく。男が苛立ってさらにチルを殴った。
(……イーア……)
体は全く動かなかったが、それでも必死に抵抗する。ここで自分が折れてしまえば、あいつは絶対自分を責めるだろう。ちゃんと言うことを聞かなかったのはチルなのに、きっと自分のせいだと悩み苦しむ。あいつの悲しむ顔は見たくない。チルの、人生ではじめて、ちゃんと好きになれた人だから。
「このっ」
男が更に拳を振り上げた瞬間、チルの肩を何かが掴み、そして強く引き寄せた。
男の拳が宙を切り、そしてチルを見た途端、恐怖に大きく歪む。
(あ……?!)
チルの肩を掴んでいたのは女の手だった。突然虚空から現れた腕だけが、もぞもぞとさぐるようにチルの体に触れる。
病的なほど白いが、温もりを感じさせるふっくらとした手。その左手の薬指に不思議な光を放つ桃色金剛石の指輪が光っていた。見事な装飾を施された、多分恐ろしく高価な指輪。
その指輪を見て、この腕が何かの怪異ではなく、誰かが伸ばしたものなのだと、チルはすんと理解した。
腕はゆっくりと伸びて、チルの鳩尾のあたりに手を回す。そして思ったより強い力で、持ち上げた。
(ええ……!?)
ただ驚く事しかできないチルの視界が一変し、眩い光に包まれた。
お読みいただきありがとうございます。
怖いシーンです。お付き合いくださりありがとうございました。次回もよろしくお願い致します。




